今年はたぶん、ヒルザキツキミソウの当り年。
古い家の小さな庭と、それを囲むこれまた古いレンガブロック。
その下に咲き乱れる桃色の花弁が、重たそうな頭を揺らして風に揶揄われている。
まるで、そらに向って必死に愛を囁くように。
天音くんは、とても、不思議な人だ。
「大地、部活行こ」
電車で1時間かけて川の向こう側の、とても栄えた都市から、わざわざこんな田舎まで通学している。
「天音くんは今日掃除当番って聞いていたけど」
「担任が出張のため、本日のホームルームは通常の三分の一で終わりました」
「つまり?」
「やる気のない副担のお陰でもう終わった!」
更に隣の隣にあるクラスまで、わざわざオレを迎えに来てから部活に行く。
因みに、部室のようになっている地学準備室とは反対方向。
「今日はとても機嫌がいいね、そしてそれは初めて見るバッグだ」
「ふっふっふ……この日のために蓄えた嗜好品の爆弾だよ、もちろん大地にも分けてあげる」
「その量だと一日かけても食べ切れなさそうだね」
「大丈夫、明日も一緒にいられるんだし」
加えて、たくさんいる友達の中からわざわざオレなんかを選び、泊まらせて欲しいと言った。
物好きだと思う。
「うちは何も無いから天音くんが退屈しないといいけれど」
「きっとそんな暇はないよ、大地の集めたコレクションもやっと見れるね」
「そんなに良いものではないから、ハードルを上げ過ぎないで欲しい。ガッカリしてしまうかも」
「大地に大切にされてる物を見たいんだよ」
わざわざ、わざわざ。
天音くんはこんなオレにもとても優しい。
でもその度に俺は萎縮して、居た堪れなくなる。
引き出しの中で、柔らかい脱脂綿の上に眠る化石になりたいと、思ってしまう。
胸のあたりが、ずっと、ざわざわ。
隣の教室を越して、広い階段の踊り場。
吹き抜けの大きな窓を見上げながら、天音くんは細長い指で恒星を差す。
「たぶんあの辺りにあるよ、大地の星座」
「太陽直視はダメだよ」
「少し逸れてるから平気」
「今は我慢して、夜になったら天音くんの獅子座を見よう」
「そうだね……大地、楽しみ?」
「うん、とても。普段は屋上に行けないからね」
先輩たちが引退して、部員の減ってしまった天文部は、今年度から地学部に吸収合併された。
「でも天文部の特権を奪ってしまった気もする」
年に一度だけの、天文部だけの校内天体観測。
それは地学部の一大イベントとして引き継がれてしまった。
半歩先に佇む天音くんは、強い日差しの差し込む窓の向こう側、広い空を見上げたまま何も言わない。
格好良く整えられた髪の先が透けて輝いている。
「天音くん?」
「ああ、ごめん。俺も楽しみなんだ、今年は大地と一緒だから余計に」
そう言って向けられる笑顔。
「できる限り知見を広げたつもりだけど、話し相手になれなかったらごめんね」
「そんな気にする事ないのに。因みに今日の双子座は12位」
「えっ、オレが見たのは7位だったはず……。天音くん、前を向いて歩いて」
艶々とした、天音くんの眼球。
水分量が多くて、柔らかくて、温かいであろうソレに見つめられると、言葉に詰まる。
胸が鳴って生きていることを実感させられてしまう。
「翔、帰ったんじゃないの?」
教室から天音くんの下の名前を呼ぶ、天音くんのクラスメイト。
理系だし、生徒数も多いので、オレは彼の名前すら知らないけれど。
「今から部活、大地を迎えに行ってた。また来週な」
くるりと向きを変えて見えた、天音くんの旋毛。
いつも分け目が右側なのは、旋毛が真ん中より右寄りだからだろうか。
「そうなん、仲いいな。バイバイ田中」
「う、うん。さようなら。」
何故か彼はオレを知っていた。
緊張しながら少しだけ、小さく手を振る。
気を取られ過ぎて、天音くんにぶつかってしまう。
「ごめんね、痛くない?」
「大丈夫だよ、急に止まってごめん。先に言っておくと、アイツ俺が大地のこと好きなの知ってる」
「……そう、天音くんは結構大胆だね」
天音くんはもう半歩先を歩かない。
ぴったりとオレの隣に付けて、促すように肩を突いてくる。
「先週告白したことも、今曖昧な関係なのも言った」
「彼には全部言ってしまうの?」
「大地が返事をくれるまではね」
「それは、とても悩ましい……オレには相談できるような相手がいないし」
「なら、俺が聞いてあげる」
隅の隅にひっそりとある準備室。
暗幕の引かれたドア、その枠の上に置いてあるはずの鍵を、背伸びして探す天音くん。
「告白してくれた本人に相談するのって、いいのかな?」
「いいんじゃない?大地が嫌じゃなければ……あれ、見つからない」
「うーん、天音くんの指先が埃で汚れてしまう方が嫌だな、少し退いていてね」
カメラを起動したスマホでドア枠をさっと映す。
いつもの定位置より、少し離れた真ん中辺り。
立て掛けるように置かれた裸の鍵。
「一年生かな?室名札の近くに置くようにもう一度通達しないと」
「大地の身長10センチ頂戴」
「5センチくらいなら許容範囲かな」
靴の裏を見せることなく摘んだそれで、解錠する。
生き物の音が一つもない、静かで冷たい空間。
「他の部員は?」
「皆一度帰宅してから夜に来るよ」
「じゃあ大地を独り占めだな」
「いつも大体ふたりきりだけれどね、天音くん手は汚れなかった?」
校長室から払い下げられてきたという、古びたソファ。
その赤茶色の革の上にリュックを降ろす。
「汚れてるかも、見て?」
空いた背中に、代わりと言わんばかりにピッタリと張り付く天音くん。
脇から差し込まれた両手が、パッと顔の前に広げられる。
「左手だけ汚れてる。けれど両手洗おう、おやつにするんでしょう?」
「大地の手と一緒に洗って。ほら、節水期間だし」
「これだとオレの腹部も濡れてしまうから、隣に来て欲しいな」
「もう離れられないから無理」
グリグリと、首に押し付けられる天音くんの額。
固められた髪が皮膚にチクチクしてくすぐったい。
冷たい銀色の手洗い場まで、押されるがままに、大人しく誘導されるオレ。
「手の甲に凹凸が残っているね、居眠りしていたのかな」
「そう、今夜に備えて睡眠学習してた」
「机でなくてここで寝た方がまだ質がいいと思うよ?」
ポケットから取り出したハンカチを咥えて、蛇口を捻る。
天音くんの手を通した水は、彼の体温を奪って少しだけ温かい。
「手首まで洗ってくれるんだ?」
「うん」
「いつも思ってたけど、大地って凄く丁寧に手を洗うよな」
「ふふ、うん」
滑らかな肌を滑ってゆく泡。
本当ならこの短く切り揃えられた爪の中まで、もっともっと綺麗にしてあげたいのだけど。
「んん」
最初はおとなしかった天音くんの手が、手のひらをくすぐってきた。
驚いた拍子に飛んだ小さな泡が、ワイシャツに染み込んでゆく。
「何言ってるか分からないよ、大地」
いつも優しい天音くんは、たまに意地悪をする。
捕まえたはずの手は簡単に滑って、指を絡ませるように握って、離れて。
もう手に負えないので、水で流してしまう。
「はい、おしまい」
薄いハンカチはふたり分の水滴を吸収できる程キャパシティがなくて、見事にビショビショ。
「自分以外の手って初めて洗ったけど、不思議な感じだね。感覚がないからどこか洗い残してそう」
「そう?普段の数倍綺麗になった、ありがと」
年季の入った小さなピンチハンガーにハンカチを干して、未だ離れない天音くんに向き直る。
ほんの少しバツの悪そうな顔の上の方、オレに押し付けていたせいで乱れた前髪。
そこから露になった額。
「天音くん、荷物も降ろしていなかったね」
「大地の作ってくれた弁当と交換するための大事な爆弾だから」
天音くんの視線はそらを揺蕩う。
そうだ、そういえば。
「カーテン、開けるね」
眩しい光が差し込んで、キュッと細められる艶々の瞳。
「大きいマシュマロもあるから、大地の家でスモアサンド作ろう」
「ふふ、嬉しい。今日の夕飯は五目ご飯のお稲荷さんにしてみたよ」
「大地の手料理めっちゃ嬉しい」
「いつものお弁当交換となんら代わりはないけれど……そこの冷蔵庫に入っているからね」
「俺のため、が嬉しいんだよ。一緒に夕飯食べるのも初めてだし」
「今日みたいに遅くまで学校にいる日も中々ないものね」
荷物を抱えたままソファに沈んで、それでも尚、空色を反射させる天音くんの艶々。
きっと見えない星を探しているのだろう。
「大地、座ろ」
「爆弾解体するの?お茶淹れる?」
「水道水カルキ臭いから嫌だ」
「学校で備蓄してた期限ギリギリの水、この前もらったよ」
「えらい」
冷蔵庫、電子レンジ、ソファ、黒と緑の遮光カーテン。
まるで天音くんとふたりだけの生活をしている、そんな気分にさせるおままごと。
学校に溶け込むビーカーのマグカップに水を注いで、レンジで温める。
「大地、そっちの端に寄って」
隣に座ろうと思ったのに。
「ひっくり返すよ、見てて」
濃紺の紐を緩め、ソファの上にガサガサと音を立てて中身をぶちまける天音くん。
「凄い、たくさん」
「これは大地のお母さんに」
「この辺で買えないやつだね、ありがとう。並んだの?」
「うん、先週末に少しだけね」
「ぜひ天音くんの手から渡してあげて、今日は夜勤じゃないから」
たった電車で1時間、川を隔てただけなのに、この地では手に入らないものがたくさんある。
「大地にはこれ」
「わ、ありがとう! これやりたかったんだ」
「どういたしまして。大地、本当に知育菓子好きだよなぁ」
「うん、凄く好き。小さい頃の憧れが爆発するんだ……あ、だから爆弾なのかな?」
「はは、そこまでは考えてなかった」
自分で地層を作って恐竜を発掘できるやつ。
嬉しい。
「今やっていい?」
「もちろん」
キラキラした琥珀糖とか、石みたいなチョコとか、海外のすごく甘いキャラメルサンドとか。
SNSで見たお洒落なお菓子も、近くのスーパーで見る駄菓子も、みんな一纏めにしてしまう天音くん。
「あ、レンジ鳴った。ティーバッグ入れたらいい?」
「うん、ありがとう。熱いから火傷しないように気を付けてね」
袋の裏に書かれた手順から目を離せない。
集中してしまうと、天音くんを放ったらかしてしまうので、先に謝っておこう。
「ごめんね、今から少し嫌な奴になると思う」
「いいよ、大地見てるの楽しいから」
天音くんはオレなんかを見て楽しいって言う。
「大地、好きだよ」
そして更にオレなんかを好きだとも言う。
不思議な人。
そういえば、天音くんに恋愛相談するんだった。
「オレも天音くんが好きだよ」
「両思いだね、けれど付き合わないんでしょ?」
「うん」
小さなトレーに広げた粉末、いつの間にか天音くんが用意していてくれたコップの水。
付属のカップで掬って、ゆっくりと垂らしてゆく。
「なんでかな、大地?」
シュワシュワと音を立てながら立ち昇る、鼻をくすぐる香料の甘ったるい匂い。
「繁殖が怖いから」
「……俺と大地なら繁殖しないで済むよ」
混ぜているうちに固まってくる甘い地層。
「そうだね、同性だものね……」
いつの間にか隣に座っていた天音くんは、湯気の立つカップを口元に寄せながら、やっぱりそらを見上げていた。
◇◇◇
満点の星空に手が届きそう……なんて事はない、田舎の少し木々が多い学校の屋上。
街の明かりは少ないけれど、全く無い訳ではない。
「天音くん、獅子座どれ?」
「部長、天音先輩は望遠鏡の微調整してますよ」
「あ、そうなんだ。間違えてごめんね。木星の縞模様は見えた?」
それでも人の顔が認識し辛い程度には暗い。
望遠鏡とか機器に疎いオレは余計な手出しはしない方がいいので、フェンスに凭れたままぼんやりと夜空を眺める。
「見えましたよ、運が良ければ流れ星も見れるって言ってましたね」
「うん、見れるといいね」
そよそよと前髪を揺らしてゆく、冷たい夜風。
その音に紛れて足音が近付いてくる。
「大地」
「天音くん、お疲れ様」
「二年生は早めに見てきて、次は金星に合わせるから」
「はーい」
隣に来てくれた天音くんの顔はよく見えない。
「よくここにいるのが分かったね」
「大地の襟に蓄光シールを貼っておいたからね」
「え、わあ、本当だ。望遠鏡の足に貼っていたやつの残りかな?」
「そう、大地が知育菓子に夢中になってる間に貼った」
剥がそうとして爪でカリカリしていると、天音くんの手に阻止されてしまう。
「大地の居場所が分からなくなるから、貼っておいて」
「半分にして天音くんにも貼ってあげたかったのだけど」
「俺はいいよ、そこそこ動くから目障りになっちゃう」
「今夜は大活躍だものね、オレは大人しく流れ星でも探しているよ」
早めの時間から準備していたので、その報酬として、先に色々見せてもらった。
紺色と紫色と、オレンジ色の混じった、ほんの一時間前のそら。
愛しそうに天を仰ぐ天音くんの、横顔がとても美しかった。
きっと今も同じ様にそらを愛でているのだと思う。
「大地、瞬き多いけど目が痛い?」
「よく見えるね、コンタクトがゴロゴロしてるから外してしまおうかなって」
「眼鏡持ってきてるの?」
「一応。この時間はいつもなら眼鏡だからね…あ、呼ばれてるよ天音くん」
「大地、ここにいて」
そう零して行ってしまった天音くん。
目印があるから、すぐに見付けてくれると思うのだけど。
なんだか可笑しい。
ついつい作り過ぎてしまったお稲荷さん。
天音くん好みのほうれん草の入った卵焼き。
頂き物の新鮮なそら豆とさくらんぼ。
お昼ご飯のような献立だったけれど、一つ一つを美味しいと堪能してくれた天音くん。
その緩んだ目元を思い出して、胸がキュッと反応してしまう。
天音くんが向けてくれる好意は嬉しい。
オレも隠しもせずに好意を向けている。
ただの両思いだから、好意を受け止めるのも取り零すのも自由。
「痛……」
目元を押さえた瞬間に外れたコンタクトレンズ。
けれどもう片方が中々取れない。
張り付く不快感と、痛みの中、ぼやけた視界で見上げた夜空。
星も暗闇も曖昧で、乱れた光のせいでいつもより淡い。
見える星は少ないけれど、これはこれでいいかも。
「大地、どうしたの?」
「片目だけコンタクト外れてしまって、でもなんか不思議な感じで綺麗だよ」
「そう……何が見える?」
「獅子座は沈んでしまったけど、あれがきっと夏の大三角形かな」
少し下から聞こえる天音くんの声。
いつもならちゃんと彼の方を向くけれど、今はどうせ見えない。
片目を押さえたまま、夜空を眺めていた、のに。
「大地、そらばかりみていないで」
天音くんの温かい手が、迷いなく両頬を包み込んできて、驚いた。
「俺のこと見て」
この暗闇の中、天音くんはどこまで見えているのだろうか。
漸く慣れてきてもオレの目は、天音くんの濡れた眼球に散る星々が、何となく見えるだけなのに。
「……天体観測なのに?」
「大地の視線が恋しくなっちゃった」
「天音くんも欲張りだね」
「その言い方だと大地も欲張りだけど?」
するりと肌を這った指先が下唇を撫でて、ふにふにと弄び始める。
くすぐったい。
「大地、キスしていい?」
頬を包む手に手を重ね、少しだけ頷く。
背伸びした天音くんの体重が身体に凭れてきて、思わずその腰に、手を添える。
「……頬なの?」
「大地が付き合うって言ってくれないからね」
ぎゅっと力を入れていた唇は、指先に撫でられただけ。
柔らかな唇を押し付けられた頬が、じわじわと熱を持つ。
「お付き合いをしてしまったら、オレはどんどん醜くなってしまう、嫌だ」
「綺麗なだけの人間なんていないよ」
「天音くんはこんなに綺麗なのに?」
「それはきっと、惚れた大地の欲目だよ。俺は綺麗じゃないよ」
逃げることを許さない背後のフェンス。
天音くんの優しいのに低い声に気圧されて、情けなく座り込んでしまう。
「目、まだ痛い? 目薬持ってるよね?」
「でも暗いと見えないから……」
マウンテンパーカーのチャックを下ろす音がする、もちろんそんな上等なものを着てるのは天音くんだけ。
「隠しててあげる」
暗闇の中で更にいい匂いの服で三面を囲まれて、もう何も見えない。
そんな状況にパッと灯る光。
光量を極限に落とした天音くんの、真っ黒な待ち受け画面すら明るい。
「あれ……よく見たら、ロック画面、お月様だったんだね」
繊細過ぎて気付かれないような細い細い月を観ながら、人工涙液を垂らす。
パシパシと瞬きをしているうちに、消えてしまった画面。
それでもずっと残っていた片目の違和感は無事に取り出せた。
「大地」
呼ばれて見上げる。
額に、瞼に、落とされる柔らかい皮膚。
「天音くん、なんで見えているの?」
「元々夜目が利く方なんだけど、大地の顔は覚えてるから、が正しいかな」
視界は暗闇に奪われて、吸い込んだ空気は全部天音くんの匂いで、天音くんの小さな動きの一つ一つまで神経を尖らせて。
「体内も外界も天音くんに満たされてしまったね」
「大地、その言い方ちょっと危ういよ……、嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ、好きだもの」
ピピピピ
終了10分前に設定していたタイマーが、ズボンの奥から電子音を響かせる。
「21時までって決まりだから、撤収しなきゃ」
「仕方ないなぁ、続きは大地の家でね」
いい匂いの体温が離れてゆき、パッと点いた野外灯。
マウンテンパーカーのチャックを上げる天音くんが、オレを見て笑う。
「大地、顔、のぼせたみたいになってる」
「え、恥ずかしい。眼鏡で誤魔化せるかな」
「どうだろう。耳まで桃色だよ」
見上げた天音くんと、その背景に広がる真っ黒なそら。
そらに向って必死に愛を囁く、ヒルザキツキミソウに、自分を重ねてしまった。
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