皇帝との謁見なんて、一生に一度あるかどうか。いや、ない者のほうが圧倒的に多い。しかも、呼ばれたのが公の場ではなく、私室だった。親子である皇帝と明龍であればわかるが、なぜ香蘭までこの場に呼ばれたのか。香蘭は、揖礼のまま動けない。
「楽にしろ。公的な面会ではない。茶でも飲むがよい」
低くゆったりとした威厳のある声だ。恐れ多くはあるが、楽にしろ、というのが皇帝からの命令であるなら、従わねばならない。恐る恐る、香蘭は揖礼を解く。
「ああ、筆談のものが必要か」
皇帝は指先を動かして従者に紙と筆を持ってこさせた。明らかに書き心地の違う良質な筆に怯えつつ、香蘭は礼をしたためる。
『お心遣い恐れ入ります』
続けて、従者らしき男性が、皇帝に茶を差し出した。
「こちら、蘭の花の茶でございます」
茶器一つをとっても、美しく磨かれた陶磁器に牡丹の花が大きく描かれた美術品のようだ。きっと使われる茶葉も一級品なのだろう。
――あれ?
茶器から香ってくるのは、明らかに蘭の花の香りではない。とげとげしい、肌が粟立つような妙な香りがする。まさか毒か、という嫌な予感に香蘭の体は勝手に動いていた。
皇帝が手を伸ばしかけていたところを、香蘭は体を乗り出して茶器を倒した。卓に茶が零れて、一滴、二滴と床に雫が落ちる。
「ぐあっ」
すぐ横で悲鳴が聞こえて、香蘭はぱっと顔を上げる。明龍が険しい顔をしながら、先ほど茶を持ってきた従者の男の腕をひねり上げていた。
「何事だ、明龍」
この状況で少しも体を動かさず、声音も変わらない皇帝に、香蘭は自然と畏怖を覚える。
明龍もまた平然とその問いに答えていた。
「この者が嘘を吐きましたので拘束いたしました。その茶は蘭の花の茶ではございません。おそらくは毒でしょう」
「くそっ」
男が、自白と同義の吐き捨てるような声を上げた。
どうしてこの男が嘘をついていると、明龍はわかったのだろう。何か、怪しい動きをしていたのだろうか。
『どうしてお気づきになったのですか』
明龍へ向けて書いたものだったが、皇帝によってその質問は打ち返されてしまった。
「では、なぜおぬしは気づいた」
香蘭は緊張で震えそうな手を何とか抑えこんで、紙に書き付けた。
『蘭の花の香りではございませんでしたので。万が一、毒である可能性がよぎり、咄嗟にあのように。大変ご無礼をいたしました』
「なぜ動いた」
その短い問いで、空気が張り詰める。明龍が何かを言いかけて、皇帝に目で制されていた。
なぜと聞かれても、考える前に動いていたのだ。どうして動くことに迷いがなかったのか。
皇帝に対する不敬で処刑だってあり得ることをしたのだ。自分自身になぜ、と問いかけて、香蘭は、単純な思いに気がついた。
『目の前で人が死ぬのを、見たくないからです』
姉が亡くなるところを目の前で見たときから、もう二度と、そんな光景は見たくないとそう思っている。伝えてから、皇帝を只人と言ったことは、不敬になると気がつき、さあっと血の気が引いた。慌てて書き足そうとしたが、皇帝の満足そうな声が返ってきた。
「よろしい」
不敬を咎めることもせず、大きく頷いている。
香蘭はわけがわからなかったが、あとから明龍に事情を聞いた。それによると、皇帝は自身の信念として、皇帝だから守る、といった形だけの理由で仕える傀儡は信用ならないのだという。だから、ここでの香蘭の返答は皇帝による試験を通過したようなものだったらしい。
「では、先ほどの問いに答えよう。明龍の耳は人の嘘を聞き分けることができる。それゆえこのように重宝しておる」
「陛下……!」
当の明龍はなぜ言ってしまうのか、と言葉の外で抗議をしていたが、すでに遅い。皇帝は厳しい目付きで明龍へ苦言を呈する。
「内密にしたいのならば、『嘘をついた』と言わねばいいことだ。皇太子の発言として甘い。いかなるときにも発言には気を配れ」
「はっ。申し訳ございません」
皇帝からの叱責に、明龍はわずかに唇を噛んだだけでそのまま頭を垂れた。そして、小声で香蘭に対して内密にするようにと釘を刺した。思わぬところで明龍の秘密を知ってしまい、申し訳ない気持ちだった。だが、香蘭にとっての反魂香と等価交換のように思えて、実のところ少しほっとした。
「さて、本題を話そうか」
皇帝は従者に指示をして、あるものを卓に持ってこさせた。
「脅迫状が届いておってな。その首謀者をそなたらで突き止めよ」
香蘭は、脅迫状という言葉と目の前に置かれた書状に現実味がなく、詰めていた息を意識的に吐き出した。明龍にはほとんど動揺は見られない。
広げられた脅迫状には『奪ったものの重さを知るがいい。同じものを失うだろう』と崩れた文字で書かれていた。その紙からはかすかに花の香りがしている。
「お心当たりは?」
「内外にありすぎてわからぬ。先ほどの毒殺未遂も多々あることだからな」
「顔を知らない従者をそばに置くのはお控えくださいませ」
「入れ替わりが激しいのだから、仕方あるまい。どうせ毒は効かぬしな。お前も」
「そうでございますが……」
皇帝は再び眼光を鋭くして口を開いた。
「皇帝であればこの程度のことで揺らぎはしない。皇太子とて同じことだ」
「肝に銘じます」
皇族は毒殺に備えて、幼いころから毒に慣らされていると聞いたことがある。だが、それが本当のことなのだと、この親子の会話を聞いて理解して香蘭は頭がくらくらした。平和な国と思っていたが、国の頂点に立つ方々の日常は平穏ではないらしい。
「この脅迫状を持って侵入してきたやつは、死体で見つかった。それも、死後一週間は経過した状態でな」
「――!」
血の雨の犯人と同じ状況だ。香蘭と明龍は思わず顔を見合わせる。また、魄が動いたというのか、それも皇帝の暮らす宮の近くで。
「この奇妙な事件、血の雨を解き明かしたおぬしたちに任せる」
「はっ」
明龍が即座に命令を受け取っていた。その横で、香蘭は皇帝からの直々の命令などという、抱えきれないものに、固まってしまっていた。荷が重すぎる。血の雨のことも、見抜いたのは明龍で、香蘭はそれを手助けしただけだ。さすがに辞意を書き付けようとして、皇帝に止められた。
「人が死ぬのを見たくないと言うのなら、朕を死なせるな」
「!」
香蘭の先ほどの発言を引用した命令に、鳥肌が立った。そうだ。もう二度と、人が死ぬところなんて見たくない。それが誰であっても。
香蘭は、揖礼とともに大きく頷いた。絶対に、誰も死なせないと心に強く決めて。
「楽にしろ。公的な面会ではない。茶でも飲むがよい」
低くゆったりとした威厳のある声だ。恐れ多くはあるが、楽にしろ、というのが皇帝からの命令であるなら、従わねばならない。恐る恐る、香蘭は揖礼を解く。
「ああ、筆談のものが必要か」
皇帝は指先を動かして従者に紙と筆を持ってこさせた。明らかに書き心地の違う良質な筆に怯えつつ、香蘭は礼をしたためる。
『お心遣い恐れ入ります』
続けて、従者らしき男性が、皇帝に茶を差し出した。
「こちら、蘭の花の茶でございます」
茶器一つをとっても、美しく磨かれた陶磁器に牡丹の花が大きく描かれた美術品のようだ。きっと使われる茶葉も一級品なのだろう。
――あれ?
茶器から香ってくるのは、明らかに蘭の花の香りではない。とげとげしい、肌が粟立つような妙な香りがする。まさか毒か、という嫌な予感に香蘭の体は勝手に動いていた。
皇帝が手を伸ばしかけていたところを、香蘭は体を乗り出して茶器を倒した。卓に茶が零れて、一滴、二滴と床に雫が落ちる。
「ぐあっ」
すぐ横で悲鳴が聞こえて、香蘭はぱっと顔を上げる。明龍が険しい顔をしながら、先ほど茶を持ってきた従者の男の腕をひねり上げていた。
「何事だ、明龍」
この状況で少しも体を動かさず、声音も変わらない皇帝に、香蘭は自然と畏怖を覚える。
明龍もまた平然とその問いに答えていた。
「この者が嘘を吐きましたので拘束いたしました。その茶は蘭の花の茶ではございません。おそらくは毒でしょう」
「くそっ」
男が、自白と同義の吐き捨てるような声を上げた。
どうしてこの男が嘘をついていると、明龍はわかったのだろう。何か、怪しい動きをしていたのだろうか。
『どうしてお気づきになったのですか』
明龍へ向けて書いたものだったが、皇帝によってその質問は打ち返されてしまった。
「では、なぜおぬしは気づいた」
香蘭は緊張で震えそうな手を何とか抑えこんで、紙に書き付けた。
『蘭の花の香りではございませんでしたので。万が一、毒である可能性がよぎり、咄嗟にあのように。大変ご無礼をいたしました』
「なぜ動いた」
その短い問いで、空気が張り詰める。明龍が何かを言いかけて、皇帝に目で制されていた。
なぜと聞かれても、考える前に動いていたのだ。どうして動くことに迷いがなかったのか。
皇帝に対する不敬で処刑だってあり得ることをしたのだ。自分自身になぜ、と問いかけて、香蘭は、単純な思いに気がついた。
『目の前で人が死ぬのを、見たくないからです』
姉が亡くなるところを目の前で見たときから、もう二度と、そんな光景は見たくないとそう思っている。伝えてから、皇帝を只人と言ったことは、不敬になると気がつき、さあっと血の気が引いた。慌てて書き足そうとしたが、皇帝の満足そうな声が返ってきた。
「よろしい」
不敬を咎めることもせず、大きく頷いている。
香蘭はわけがわからなかったが、あとから明龍に事情を聞いた。それによると、皇帝は自身の信念として、皇帝だから守る、といった形だけの理由で仕える傀儡は信用ならないのだという。だから、ここでの香蘭の返答は皇帝による試験を通過したようなものだったらしい。
「では、先ほどの問いに答えよう。明龍の耳は人の嘘を聞き分けることができる。それゆえこのように重宝しておる」
「陛下……!」
当の明龍はなぜ言ってしまうのか、と言葉の外で抗議をしていたが、すでに遅い。皇帝は厳しい目付きで明龍へ苦言を呈する。
「内密にしたいのならば、『嘘をついた』と言わねばいいことだ。皇太子の発言として甘い。いかなるときにも発言には気を配れ」
「はっ。申し訳ございません」
皇帝からの叱責に、明龍はわずかに唇を噛んだだけでそのまま頭を垂れた。そして、小声で香蘭に対して内密にするようにと釘を刺した。思わぬところで明龍の秘密を知ってしまい、申し訳ない気持ちだった。だが、香蘭にとっての反魂香と等価交換のように思えて、実のところ少しほっとした。
「さて、本題を話そうか」
皇帝は従者に指示をして、あるものを卓に持ってこさせた。
「脅迫状が届いておってな。その首謀者をそなたらで突き止めよ」
香蘭は、脅迫状という言葉と目の前に置かれた書状に現実味がなく、詰めていた息を意識的に吐き出した。明龍にはほとんど動揺は見られない。
広げられた脅迫状には『奪ったものの重さを知るがいい。同じものを失うだろう』と崩れた文字で書かれていた。その紙からはかすかに花の香りがしている。
「お心当たりは?」
「内外にありすぎてわからぬ。先ほどの毒殺未遂も多々あることだからな」
「顔を知らない従者をそばに置くのはお控えくださいませ」
「入れ替わりが激しいのだから、仕方あるまい。どうせ毒は効かぬしな。お前も」
「そうでございますが……」
皇帝は再び眼光を鋭くして口を開いた。
「皇帝であればこの程度のことで揺らぎはしない。皇太子とて同じことだ」
「肝に銘じます」
皇族は毒殺に備えて、幼いころから毒に慣らされていると聞いたことがある。だが、それが本当のことなのだと、この親子の会話を聞いて理解して香蘭は頭がくらくらした。平和な国と思っていたが、国の頂点に立つ方々の日常は平穏ではないらしい。
「この脅迫状を持って侵入してきたやつは、死体で見つかった。それも、死後一週間は経過した状態でな」
「――!」
血の雨の犯人と同じ状況だ。香蘭と明龍は思わず顔を見合わせる。また、魄が動いたというのか、それも皇帝の暮らす宮の近くで。
「この奇妙な事件、血の雨を解き明かしたおぬしたちに任せる」
「はっ」
明龍が即座に命令を受け取っていた。その横で、香蘭は皇帝からの直々の命令などという、抱えきれないものに、固まってしまっていた。荷が重すぎる。血の雨のことも、見抜いたのは明龍で、香蘭はそれを手助けしただけだ。さすがに辞意を書き付けようとして、皇帝に止められた。
「人が死ぬのを見たくないと言うのなら、朕を死なせるな」
「!」
香蘭の先ほどの発言を引用した命令に、鳥肌が立った。そうだ。もう二度と、人が死ぬところなんて見たくない。それが誰であっても。
香蘭は、揖礼とともに大きく頷いた。絶対に、誰も死なせないと心に強く決めて。



