後宮の香女官は彼方を想う

 糸のように細い月が浮かんでいる夜に、香蘭は庭で香炉を抱えて待っていた。

 ――こんなことになるなんて……姐姐、わたし大丈夫かな

 香蘭がこっそり逃げてしまおうかな、と頭の片隅で考え出したころ、明龍はやってきた。尚香局へも連れていた側近も一緒だ。

「よく来た……まだ名前を聞いていなかったな」
『董家の香士、董香蘭と申します』

 香蘭は、外でも筆談ができるように持参した木板と紙、小さめの筆を使って答えた。

「俺は、まあ今更名乗るでもないが、劉明龍。こっちの側近は朱勇雲だ」

 勇雲は紹介されて、香蘭と軽く礼を交わした。肩幅がしっかりとした、武官のような見た目をしている。実際、側近でありつつ武官の役割を担っているのかもしれない。無骨な見た目とは対照的ににこにこと笑顔を浮かべている。

「さて、香蘭。反魂香の力を示せ」

 拱手を取ってから、香蘭は筆談に必要なものを端へ置いた。銀の香炉の蓋を開けると、香を入れる皿がある。皿は三重の輪によって支えられ、どう転がっても常に水平を保つ仕組みになっている。董家の傑作の一つだ。

 丸薬のように丸めた反魂香は、反魂樹《はんごんじゅ》という特殊な木からしか採れない香木を使って作った。香木を細かく粉状にしてから、蜜を使って練り上げて乾燥させると完成する。成形のときに使う蜜はほとんど匂いのないもので、濃い蜜のような香りは反魂香そのものから香っている。

 ――よし、大丈夫

 香蘭は、反魂香にそっと火をつける。白い煙がゆったりと広がる。渦を巻きながら、わずかな風に揺られながら上へと伸びる香の煙に、天に昇る龍を見た人もいるとか。それで人の魂を龍が運ぶという謂れが生まれたのかもしれない。

「かなり濃い蜜の香りですね」
 勇雲が驚きと感心を持った声音でそう言った。明龍もそれに頷いているが、少し考えている様子だった。

「これは、金木犀の香りか。それと……まるで、雨上がりのような、不思議な香りだ」

 香蘭は思わず目を見開いた。反魂香の香りを的確に言い当てることのできる人が、自分以外にもいたなんて。香蘭は、高貴な方の顔をじっと見つめるのは無礼だということも忘れ、明龍の険しい表情の奥に繊細さを見た。

 周囲が白い煙に満ちてきて、香蘭は文言を口にした。

「魂在何許(魂はどこにあるのか) 香煙引到焚香處(香の煙に導かれ、香の焚かれるところ)」
「君、声が……」

 香蘭は今、声を発した。夜風が吹くような緩やかな声。代償にした声は、幽世の者と話すときだけは返ってくるのだ。

 すぐに煙の向こうに一人の老婆が現れた。明龍と勇雲がとっさに後ずさった。

「恨みを持っていたりしないでしょうか」
「だとしたら、すでに襲われているだろう」

 明龍の言う通り。見える見えないの差があるだけで、彼ら彼女らはすでにこの場にはいるのだから。二人を背にして、香蘭は丁寧に話しかけた。

「こんばんは。驚かせてごめんなさい」
「いいや」

 香蘭は、声が戻っている今なら少し工夫をすれば、明龍に詳しい話をすることができるかもしれない、と考えた。

「すみません、今から少しだけ独り言を言うので聞いていてもらってもいいですか」
「んー。よくわからんが、どうぞ」

 老婆が了承してくれたので、香蘭は独り言のていで明龍に話しかけることにした。老婆のほうを見ているため、背を向けたまま話すことになるが、むしろこのほうが緊張せずに済む。これから話すのは反魂香のこと、話すのは苦ではない。

魂魄(こんぱく)という言葉はご存知ですか」

 明龍の返事はなかったが、聞いてくれていることはわかったので香蘭はそのまま続ける。

「魂魄は、(たましい)(はく)を合わせて言う言葉です。魂は精神や心のこと、魄は肉体や生命力のこと。死ぬと地に魄を残して、天へ魂が抜け出します。いわゆる幽霊は、この魂のことを指します。反魂香は魂と言葉を交わすことのできる香です」

「なるほど」
「魂は幽世の者。決して言葉を交わしてはなりません」
「君は話しているじゃないか」

 明龍の反論に、香蘭はわずかに顔を後ろに向けて明龍を振り返った。そして、見えるように自分の喉を指さした。

「こう、なるからです」

 明龍の目がゆっくりと見開かれていく。香蘭の言葉を理解したのだろう。皇太子の声が出なくなったとなれば、一大事。絶対に話をさせてはならない。

「あの、前置きが長くなって、すみません」
「構わんよ」

 香蘭の謝罪に対して、老婆は人のよさそうな笑顔で返してくれた。甘い反魂香の香りは香蘭の心を落ち着けてくれる。ゆっくりと口を開く。

「あの、昨夜、この辺りで怪しい人物を見ませんでしたか」
「そうじゃのう。怪しいと言えば、真夜中じゃというのに土嚢をいくつも運んでいる男がおった。何もこんな暗い時分にやらんでも、と思ったから覚えておる」

 明龍が思わず問いかけそうになったのを、香蘭が手で制した。手で口を押さえて踏みとどまってくれて安心した。

「それは、どこかわかりますか」
「あっちの区へ向かっていったのう」
「あ、ありがとうございます」

 香蘭たちは、教えてもらった区域に移動し、そこでも同じ手順を踏んで幽霊に話を聞いた。今度はまだ若い少年だった。その年で亡くなったという事実に、見知らぬ少年相手に香蘭は胸が重くなった。だが、彼は同情なんて求めてはいない。人を探していると事情を話したら、快く協力をしてくれる、普通の優しい子だ。

「えっと、土嚢を運んでいた不審な男を見ていない?」
「見たよ。これくらいの小さな竹筒を地面に並べてたんだ」
「一人だった?」
「うん。白い粒、たぶん塩を詰めてたんだ。土も同じように詰めてたよ」

 竹筒に塩と赤土を詰めていた男がいた。かなり怪しいが、一体何をしていたのだろう。

「それでね、朝にその竹筒から空に向かって打ち上がってたんだ」

 明龍が、なるほど、と呟いた。今の少年の話で、彼の中では一つの答えが出たらしい。勇雲が首を傾げて明龍に問いかけた。

「殿下、何かわかったのですか」
「その男が、雨を降らせたんだ」

「雨を?」
「雲に塩などの核になるものを打ち込むと、核を中心にして雨粒が集まり、雨を降らせることができる。そういう手法を書物で見たが、実践するやつがいるとは……」

 明龍は感心したようにそう言った。香蘭は雨を操ることができるなんて、初めて聞いて驚きで息をのんだ。
塩で雨を降らせたのなら、赤土は何に使ったのだろう。

「その、赤土は、何に使ったんだと思う?」
「うーん、なんだろう」

 香蘭は少年に話しかけて、明龍にも同時にその疑問を投げかけた。明龍はそれに気づいて答えてくれた。

「赤土を打ち込むことで、雨粒が落ちるときに赤土を巻き込んで落ちて、雨が赤くなるって仕組みだろう」
「なるほど! さすが殿下」

 勇雲が目を輝かせて何度も頷いている。体は大きいのに子犬のような仕草がおかしくて、香蘭は少し笑ってしまう。

「香蘭」

 明龍がふいに香蘭の名を呼び、香蘭は拱手を持って返事をする。

「その少年に、その男の特徴を覚えているか、聞いてくれるか」
 香蘭は一つ頷き、少年に問いかけた。

「えっと、その男の特徴は、何か覚えている?」
「紺色っぽい色の服で、頬に大きな切り傷があったんだ。僕のことは見えてないはずなのに、睨まれた気がして怖かったんだ」
 少年は、そのときを思い出したのか、顔をきゅっとしかめていた。

「ありがとう。あの、教えてくれて」

 香蘭は少年に礼を伝えて、反魂香をそっと閉じた。徐々に煙が霧散していき、少年の姿も見えなくなった。今日は春香以外の人とたくさん話して、気力をたくさん使った気がする。

「勇雲、頬に切り傷のある男を探せ」
「はいっ」

 勇雲は、歯切れよく返事をすると、夜中であるのにすぐに駆けていった。皇太子を置いていっていいものなのか、とはらはらしてしまうが、当の明龍は気にする様子もない。

「今回は助かった、礼を言う。見事な香だった」

 明龍はわずかに口元を緩めてそう言った。皇太子が一介の女官に礼を言い、褒めたことに驚いて香蘭は目を瞬かせた。人嫌いの噂のある人とはとても思えない様子だった。

「そう驚くな。……まあ、人嫌いと聞いていればその反応も頷けるが、女官にも広まっているのか。構わんがな」

 香蘭は二度驚いた。人嫌いと噂されていることを本人は知っているのか。そしてそれをあまり訂正しようとしていないらしい。

「言葉よりも結果を重んじるだけだ。君は結果を出した」

 明龍の価値基準に触れて、どこか安心感を覚えた。この人にとって実家が商家であることも、口を利けないことも、関係がないのだ。
 香蘭は深く揖礼をして、無言のまま礼に応えた。

「褒美は何がいい」

 これにはさすがに筆談を用いて返答をしなければいけない。香蘭はもう一度筆を持つ。

『反魂香を許可してくださるのなら、充分でございます』

 明龍は褒美を欲しがらないことに不思議そうな顔をしていたが、わかったと頷いた。これ以上、皇太子と関わることは避けたい。香蘭は、春香に後宮を見せて話をするため、春香との繋がりのために、ここにいるのだから、目立つようなことはしたくない。