後宮の香女官は彼方を想う



 その後の宮廷は、事件の収拾のために目のまわる忙しさだった。胡姫に利用された人たちをもう一度手厚く埋葬することになり、反対の声もあったが胡人の魄も同じように埋葬してもらった。

 一番人手を必要としたのは、降り注いだ赤土を除去することだった。淑妃の侍女たちに助言をもらいつつ、官吏も女官も武官も文官も総動員で土を取り除いた。

 その後、皇帝陛下から、正式に血の雨から始まった僵尸の騒動が収束したと宣言がなされた。



 香蘭は自分の部屋にいた。明龍から、その騒動の最中、春香が現世に干渉して香蘭の行方を知らせたと聞いた。
 はやる気持ちを抑えて反魂香に火をつけると、金木犀と雨上がりの香りの煙の向こうに春香が現れた。

「良かった……! 姐姐がいなくなったかと思った」
 安堵の声とともに香蘭はその場にへたり込んだ。

「干渉したのはほんの少しだけよ。香蘭が無事で良かった」
「ありがとう」

 春香が明龍に伝えてくれなければ、香蘭は助からなかっただろう。春香の自身の存在を危険に晒す覚悟が、香蘭を守ってくれた。

「本当にありがとう、姐姐」
「もう、私がいなくても大丈夫?」

 春香の問いかけが、突き放すものでも、不安にさせるものでもないことは、香蘭もわかっていた。けれど、頷くにはまだ時間がかかりそうだ。

「大丈夫じゃない」
「あら」
「でも、いつか言えるようになるから、見守ってて」
「いいわよ。香蘭」

 春香は優しく妹を見守る顔でそう笑い返してくれた。


 翌朝、香蘭は一日だけ休暇をもらった。その休暇を利用して家に帰ることにした。事前に帰ることは知らせていたものの、香蘭は玄関の前で立ち尽くしてしまう。数か月前に飛び出したきりで、手紙は出したけれど、返事はなかった。

 何度目かでようやく扉を開けると、美味しそうな香りが鼻孔をくすぐる。卓にはたくさんの食事が並んでいた。香蘭の好きなものばかりが、湯気を上げて香蘭を出迎える。

「おかえりなさい、香蘭」
「おかえりなさい」

 扉の開いた音を聞いて、両親が奥から顔を出した。その顔を見た途端、目の奥が熱くなり涙が次から次へと溢れてきた。ごめんなさいなのか、ありがとうなのか、よくわからなくて、香蘭は声を上げないまま泣いた。

 母にそっと抱きしめられて、ようやく涙の波が収まった。

「あのとき、叩いたりしてごめんなさいね。香蘭がそんな意味で言ったわけじゃないってわかっていたのに」
 父も香蘭へ申し訳なさそうに声をかける。

「もっと話を聞けば、いや、話せばよかった。香蘭に我慢をさせてしまったな」

 香蘭は二人の言葉にぶんぶんと首を振る。上手く話せなかったし、聞けなかった。香蘭だって同じだった。
 三人で食事をしてから、香蘭は筆談でたくさんのことを話した。

 反魂香で春香と話したこと。後宮に行き、皇太子付きになったこと。たくさんの人と出会ったこと。大変な事件を皆で解決したこと。

 すべてを聞き終わって、両親は改めて聞いた。

「香蘭は、宮廷に行くのか」
 迷うことなく、心からの想いで答えた。

『わたしは、香士として、皆を幸せにしたい。皇太子殿下のお役に立ちたい。だから、宮廷に行く』
「ああ、わかった」
「応援しているわ」

 笑ってそう言ってくれた。両親の笑顔を見たのは久しぶりだったかもしれない。嬉しくて香蘭も笑顔になった。

 翌朝、父からは、これも持っていきなさいとたくさんの香道具を渡され、母は皆さんと食べなさいと包子をもらった。

「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」

 香蘭は両親の声に背中を押されて、足取り軽く家を出た。




 宮廷に戻った香蘭を待っていたのは、皇帝との面会だった。
 香蘭は、脅迫状の首謀者を突き止め、追放したことで皇帝から褒美が与えられることになったのだ。

『こんな、恐れ多いことでございます』

 香蘭は素早く紙にそう書き付けて皇帝に見せた。提示されたのは、十年は遊んで暮らせるような金品と、貴族に相当する地位だった。とても香蘭の身には余るものだ。

「褒美が軽くては、皇帝の命も軽く思われる。受け取りなさい」

 有無を言わさぬ皇帝の口調に香蘭は恐縮し切ってしまう。香蘭の肩にそっと明龍の手が置かれた。

「父上もこう言っているし、身分不相応だという理由で官吏の反感も買ったのだから、ちょうどいいだろう」

 明龍が皇帝陛下、ではなく『父上』と呼んでいる。僵尸の件が片付いたら親子として話をするという宣言通り、二人の会話がなされたことがわかる。

 眉間に皺もなく柔らかく笑う珍しい明龍の表情に、香蘭は驚きつつ見惚れた。隣にいるからこそ、見れたその笑顔に心があたたかくなる。

『謹んでお受けいたします』

 香蘭は揖礼とともにそう答えた。皇帝は満足そうに頷いた。そして明龍は、さっそく金品を運ばせる指示を従者に出していた。その間に皇帝が香蘭を見つつ、手を動かした。

『明龍とたくさん話してくれてありがとう』

 香蘭は目を見開いて、声は出ないのに思わず口に手を当てた。手振りは、元々皇帝が考えて明龍に教えたものだと言っていた。皇帝が手振りで話せるのは当然だ。
 皇帝は、息子を心配する父の顔をしていた。

『とんでもございません。わたしは殿下に救われました』
『これからも頼む』

 香蘭は、揖礼とともにその命令を受けた。明龍の隣に立つにふさわしくなれたと、そう言ってもらえたようで誇らしい。

 明龍とともに執務室に戻る途中、隣を歩く明龍がふと立ち止まった。

『どうなさいましたか?』

 手振りで問いかけた香蘭の手を、明龍がすくい取った。そして、何かを香蘭の手のひらに乗せた。それは、しゃらりと涼やかな音を立てる、可愛らしい(かんざし)だった。

「これは俺からの褒美だ。いや、褒美というより礼だな。勇雲と小鈴を助けてくれた」
『こんな、素敵なもの……』
「父上からの褒美は受け取っただろう。俺からのも受け取ってくれ」

 明龍はひょいと簪を持ち上げると、香蘭の髪にそっと刺した。少し頭を動かすだけで、耳元で美しい音が響く。すごく幸せな気持ちに包まれる。

『ありがとうございます。明龍様』
「ああ、こちらこそ」





 朝日が香蘭の部屋に差し込んでいる。大きく息を吸うと、気持ちのいい空気が体の中に満ちていく。

 玲玲が小鈴とともに部屋にやってきて、身支度をしてくれる。香蘭は、自分の髪の長さに合った低めの位置に結んでもらう。明龍にもらった簪を合わせた。涼やかな音で香蘭を包んでくれる。

 執務室に向かうと、もう明龍が仕事を始めていた。勇雲に指示を出しているところだ。香蘭に気がつくと、明龍が顔をこちらに向けた。

「おはよう、香蘭」
「おはようございます、殿下」

 筆談でもなく、手振りでもなく、香蘭は自らの声で答えた。

 新しい一日が始まる。

(了)