後宮の香女官は彼方を想う

 僵尸として操られた人たちの対応を官吏たちに明龍から指示をして、香蘭たちは一度執務室へ戻ってきた。

『胡姫を探しに行きましょう。もう僵尸はおりません』

 香蘭が焦る気持ちを抑えつつ、そう明龍に伝える。玲玲も勇雲も、宮廷を駆けまわったあとではあるが、すぐにでも動けると頷き返した。

 そのとき、慌ただしく一人の官吏がやってきて、明龍に何やら耳打ちをした。明龍はわずかに目を見開いて、官吏に短く指示を出した。

「連れてこい」
 香蘭たちが不安げにその様子を見ていることに気がついた明龍は、安心させるようにゆっくりと頷いてみせた。

「大丈夫だ、すぐに来る」

 明龍のその言葉通り、兵士に捕らえられた小鈴――の姿をした胡姫が連れてこられた。香蘭は驚いて明龍と胡姫を交互に見つめる。

『どうして、こんなに早く』
「さっき、君の姿で接触したきたんだが、そのときに罠を張った。皇帝陛下が体調を崩しているという嘘をついた」
『あれは嘘だったのですか』
 香蘭がそう手振りで伝えると、明龍は目を点にした。

「君も聞いていたのか、どこで」
『胡姫に乗っ取られていましたが、意識だけはあって……申し訳ありません』

 後から思えば、なんだか盗み聞きをしたようになっている気がして、香蘭は申し訳ない気持ちになる。

「最初から君ではないとわかったから、ああいう対応にしたんだが、その、怖がらせていたらすまない」

 確かに頭を鷲掴みされたときは驚いたが、香蘭に向けられたものではないと理解していたから、怖くはなかった。香蘭は首を振って微笑んでみせた。手振りの言葉よりも伝わると思った。

「そうか」
 明龍の表情が決まりの悪いものから安心したものに変化して、香蘭もほっとした。しかし小さな疑問が湧いてくる。

『殿下はどうして、わたしではないとお気づきに?』
「ん? そうだな、いなくなったと聞いた小鈴のことを、君がないがしろにするはずがない。それに……」

 明龍は一度言葉を切ってから、頭をそっと撫でた。胡姫に対して鷲掴みにしたときとは違い、優しくあたたかな手だった。

「一目見ればわかる」

 香蘭は断言してくれて嬉しいのと、少し恥ずかしいのとで思わず固まってしまう。明龍も少しぎこちない動きで手を離した。

 明龍は一つ咳払いをして話を戻した。

「皇帝陛下のもとへ、皇太子の名を出して見舞いにきたと言うものがいれば、胡姫であるから、それが誰であろうと捕らえろと命じていたんだ。僵尸の騒動が長引けば手が回らない可能性があったから、早く収束できてこちら側もどうにかなったようだ」
「さすがです、殿下!」

 勇雲が感激の笑みを浮かべて明龍を褒めたたえていた。明龍は本来の勇雲の姿ではないから多少戸惑っているようだが、それを受け止めた。

「また姿を変えてくる可能性もあったが、小鈴のままでわかりやすかった。ようやく会えたな、胡姫」

 小鈴の姿をした胡姫は布で口を塞がれているが、射抜くように鋭くこちらを睨みつけていた。あんたのせいだ、と言っているのが目でわかる。

「胡姫! 小鈴を返して!」

 玲玲が怒りを込めてそう声を上げた。可愛らしい小鈴の顔で、胡姫は激しく睨み返した。勇雲は香蘭に確かめるように問いかけた。

「小鈴を解放するには、先ほどのように反魂香の粉で可能だろうか」
「あんな傀儡と一緒にされたら困るわ」

 胡姫は口を塞がれていた布を噛みちぎったらしい。捕まっているというのに、挑発するように続ける。

「僵尸に使った方法があたしに効くわけがないし、この子どもの魄を壊せば奥で死にかけてる魂も二度と戻らないだろうね」
「もう一度、塞いでおけ」

 明龍の指示で胡姫は再び口を塞がれる。兵士の手も噛んでいて、被害が一つ増えていたが。
 香蘭は、胡姫にも見えるように紙に書いて見せた。

『反魂香は、“返“魂香とも書く』

 胡姫の表情が強張った。香蘭はそれを見逃さなかった。やはり、あの夢で見たこと聞いたこと、そして辿り着いたことが答えなのだ。明龍に向けて手振りで伝える。

「場所を変えてもいいですか」




 外廷から移った先は後宮だ。淑妃の宮の庭を借りたいと申し出たら、涼雨を助けてくれた恩があるからと、瑤花妃は了承してくれた。

 重要なのは後宮であることじゃなく、瑤花妃の庭には赤土がないことだ。先日、侍女たちに聞き取りをした際に、総出で取り除いたと言っていたのを思い出した。

『魄を操る術には赤土が必要なんです。それがここにはない。術を無効にするまでできなくても、弱まると思います』

 香蘭は、伯母からの手紙にあった、赤土は葬儀で使われるものであること、そして胡姫本人から聞き出したことを合わせて説明した。

「小鈴、勇雲をここなら戻せるということか」
 明龍の願うような問いかけに、香蘭は拱手とともに答えた。

『はい。推測ではありますが、胡姫の反応からしてほぼ確実だと思います。――わたしと反魂香であれば』

 勇雲の魄もここまで運んでもらっている。横たわっている勇雲の顔色はあまりよくない。時間がかかりすぎれば危険な状態だろう。それは胡姫に長時間乗っ取られている小鈴も同じことだ。

『はじめます』

 香蘭は、銀の香炉を取り出した。皿にはもちろん反魂香。香にそっと火を付ければ、質量を持った白い煙がゆったりとたなびく。風に揺られたり、渦を巻いたりしながら反魂香は、濃く空間を支配していく。金木犀と雨上がりの甘い香りが頬を撫でる。

「……っ」

 香蘭の手が無意識に震え出していた。もしも、香蘭が失敗したら小鈴も勇雲も取り戻せないのだ。それを考えると震えが止まらなくなる。考えないようにと思っても、さらに思考はそっちに流れていく。

「香蘭」

 明龍が名前を呼びながら、大きな両手で香蘭の手を包み込んだ。ぐっとお互いの体温がわかるくらいにしっかりと握られている。

「何があっても手は離さない。一人ではない。君を信じている」
 明龍は短い言葉で、香蘭の震えを止めてみせた。一つ頷いて、香蘭はしっかりと文言を口にする。

「魂在何許(魂はどこにあるのか) 香煙引到焚香處(香の煙に導かれ、香の焚かれるところ)」

 答えは、ここにあったのだ。

 反魂香は、『返魂香』とも表す。それはただの別名だと思っていたが、そこに反魂香の本質が隠されていた。『魂を正しきところへ返す香』であると、香蘭は蝶の夢を通して気づいた。
文言ははじめから香が魂を導くとあったのに、気づくのが遅くなってしまった。

 ――でも、まだ間に合う

 意味を理解し、祈りを込めて口にした文言は、自然に広がっていた香の煙を動かした。白い煙は意思を持って動き、勇雲の周りをゆっくりと旋回していく。足元から順に上へのぼっていくと、頭からふわりと何かが抜け出した。その何かも白くて、反魂香の白い煙に紛れているが、羽を広げた蝶にも見える。

「お帰りなさい」

 香蘭の声に合わせて、蝶の姿をしたものは勇雲の本来の魄の上にまっすぐと飛んでいく。溶け込むように勇雲の魄へ吸い込まれていった。

「うっ」
 勇雲の口からうめき声が聞こえた。

「勇雲!」
 明龍が声をかけると、ゆっくりと目を開けた。

「殿下……。痛っ! え、痛い……」

 魄の怪我は治り切っていないために、勇雲は起きて早々に涙目になっている。明龍は、安堵と呆れのため息をついていた。香蘭の手を握る両手が、ほっと緩んだ。

 次は、小鈴だ。香蘭は胡姫を見据える。目の前で勇雲の魂が戻っていくのを見た胡姫は、顔が青ざめている。

「待って! ふざけないで。……これ以上、奪わないでよ」
「……っ」

 香蘭は胡姫の言葉に揺らいでしまった。今、初めて彼女の本心を聞いたような気がした。明龍の手が、香蘭の揺らぎを感じ取ったのだろう。ぐっと力が込められた。
 言うべきことを、言わなければ。

「お帰りなさい」

 香蘭は声を震わせながら、文言を発した。胡姫は抵抗をしているらしく、体を取り巻く白い煙はどんどんと濃くなっていく。香蘭は思わず胡姫へ声を張り上げた。

「小鈴を解放して。元の場所へ帰って」
「そんなのないわ! 魂だけになって移動するために、魄は捨てた。あたしはとっくに死んでる。あいつももう間に合わない、帰る場所なんてない!」

 それほどの覚悟で復讐をしようとしていたのか。香蘭はぐっと唇を噛んだ。あれほどの技術を持っていながら、選んだ思いと方法が復讐であることが、無性に悲しく思えた。

 やがて、小鈴の頭からふわりと蝶の形をしたものが抜け出てきた。帰る魄がないからか、彷徨っていたが、胡人の近くへ飛んでいった。中に入るつもりかと警戒したが、胡人の中から消えそうなほどに小さな蝶が抜け出てきた。

「あれは」

 仮死状態にあって、消え入りそうだった胡人の魂が抜け出た。魂を正しきところへ返す香の中であっても、魄を離れたのなら命を終えたということだ。

 胡姫は、小さな蝶を連れて空高く飛び去っていった。

「あれ? みんなどうしたの?」
 小鈴が眠そうに目をこすりながら、きょろきょろと見回している。小鈴自身が目を覚ましたようだ。

「小鈴!」
 玲玲が飛びつくように小鈴を抱きしめる。確かめるように、何度も何度も頭を撫でていた。

「良かった……」

 香蘭は張り詰めていた息を吐き切った。明龍は終わるまでずっと、香蘭の手を握っていてくれた。その手が離れていき、少しの心細さを感じていたら、次の瞬間には腕の中にすっぽりと抱きしめられた。

「……ありがとう。君は、本当にすごい人だ」
 香蘭は明龍の背中に手を回して、抱きしめ返した。

「こちらこそ、ありがとうございます」

 カアと空を飛ぶ烏が一鳴きを響かせた。その鳴き声が、二つの声が重なっているように聞こえた。もしかして胡姫と胡人が中に、という考えがよぎるが、顔を上げたときには烏は遠くの空へ飛んでいったあとで、確かめることはできない。

 追う必要はないだろう。宮廷の脅威は去ったのだから。