*
明龍は、長官に話を聞きに来たようだった。奥で少し話したあとには、明龍は香蘭へと視線を向けた、ような気がした。香蘭は揖礼をしたまま顔を上げないようにする。
つかつかと香蘭に歩み寄ってくる足音を、床を見つめながら聞いていた。
「殿下、そんな黙黙なんて放っておいて、あたしたちとお話しませんか」
同僚の女官たちが、さっと香蘭と明龍の間に入ってきた。明龍の眉間の皺が深くなったようだったが、彼女たちは気がついていない。
「何か今朝の雨について知っていることはあるか」
彼女たちは皇太子に声をかけられたことに舞い上がり、甲高い声で我先にと答える。
「ええ、もちろん」
「いろいろと知っておりますから、ぜひお話しを」
「いえ、わたくしと」
明龍は呆れたようにため息をつくと、鋭い視線とともに言い放った。
「不要だ。去れ」
呆然と立ち尽くす彼女たちを放って、明龍は香蘭のところまで歩み寄ってくる。通り過ぎることを期待して揖礼を続けていたが、ぴたりと香蘭の前で足が止まった。
「顔を上げよ」
本当に顔を上げていいのか迷い、ちらりと側近らしき男性へと視線を向ける。
「殿下のおっしゃる通りに」
にこにこと人のいい笑顔でそう促された。香蘭は揖礼をやめてそっと顔を上げる。
正面から見た皇太子は、見上げるほどに背が高く威圧感がある。眉間に皺の酔った険しい表情をしているが、元来整った顔立ちをしているのだろうとわかった。
「君が新しく入った香士だな」
香蘭は返答として拱手の形を取った。明龍が長官に奥の部屋を使うと伝えて歩き出した。香蘭にも一瞥をくれた。ついて来いということだろう。
「あら、殿下、その子は口が利けませんのよ」
「そうです。話を聞いても無駄ですよ」
噛みつくように彼女たちは声を上げた。告げ口するような底意地の悪い物言いは、皇太子と話せなかった腹いせなのだろう。だが、口が利けないとわかったら引き下がってくれるかもしれないと、香蘭は希望を込めて明龍へ向けて頷いた。
「筆談で構わない」
だめだったようだ。香蘭は諦めて明龍のあとに続く。
部屋で向き合うと、明龍はすぐに本題に入った。
「血の雨のことは知っているか」
『存じております。目撃しましたし、噂も聞きました』
香蘭は持ってきた筆で紙にそう書き付けて、明龍に見せる。香のこと以外は話すのが苦手だったが、こうして筆談だと幾分か話すのが苦ではないことに最近気がついた。
明龍はどうやら今朝の血の雨のことを調べているらしい。だが、皇太子がわざわざ出向いて調査するのだろうか、女官に聞き込みまでして。
「あれは、血ではない」
明龍がそう断言した。香蘭は、紙に書こうとしたが頷くだけで済むと気づき、こくんと一つ頷いた。
「驚かないのだな」
『あれほどの量が降っていたのに、血の匂いがしませんでしたから』
これはさすがに紙に書いてみせた。明龍は、なるほど、香士は香りそのものに敏感なのか、と独り言のように呟いていた。
実際、その通りである。香蘭は、幼いころから家で取り扱う香木や販売する香に慣れ親しんできた。両親は、これは何の香り? という香蘭の問いにきちんと答えてくれる人だった。香りと名前の知識は香蘭の中にたくさん積もっている。それは、姉の春香とて同じ、いや春香のほうがより優れていた。
――後宮に来るのだって、本当は姐姐のはずだった
知識においても、香を作る腕においても、春香が尚香局へ来るはずだったのだ。流行り病に侵されて帰らぬ人とならなければ、ここは春香の居るべき場所だ。
香蘭が春香に勝っていたことといえば、幻と言われた反魂香を作れるということだけだ。後宮でそんな依頼を受けることなどないから、役には立たないが。
「君は、反魂香を作れるのか」
「――ッ」
香蘭は自分の毛が逆立ったのを感じた。たった今考えていたことを、見抜かれたのかと思った。声を失っていなければ、悲鳴をあげていたところだ。顔に出ないように頑張ったつもりだが、どう見えているかわからない。返答を書く手がわずかに震える。
『そのようなものは作れません』
手短にそう書き付けた紙を明龍に差し出す。
「ほう」
明龍が興味を持ったような声を漏らした。眉間に寄った皺が少し薄くなったようにも見えた。
「反魂香が何か、を知っているのだな。先ほど聞いた長官は、それは何でございますか、と聞き返してきたが?」
「――」
間違えた、と気がついた香蘭は下を向いた。焦るあまりに返答を誤ったのだ。これでは、反魂香を知っているうえに、作れることを隠したい、ということまで明かしてしまったようなものだ。
「反魂香を、作れるのだな」
再度、そう問われて香蘭は頷くしかなかった。
「協力してもらおうか」
どちらにせよ、皇太子からの命令を一介の女官が断れるはずがない。理由はわからないが、必要に迫られて反魂香を探しに来たと思われる。香蘭は、震える手を抑え込んで紙に書き付けた。
『後宮での反魂香の使用を禁止なさらないのなら、ご協力いたします』
「ここで反魂香を使いたいと。なぜだ」
『亡くなった姉と会うためです。叶わないのなら、今ここですべての反魂香を水に浸けて使えなくいたします』
皇太子相手に取引を持ちかけるなんて、不敬とみなされる可能性だってある。だが、春香と会えなくなってしまうのは嫌だ。春香との時間だけは、絶対に守らなければならない。
「本当に幽霊と話せると示せば、許可しよう」
明龍は表情を変えることもなく、そう言った。取引は成立のようだ。香蘭は緊張で詰めていた息を吐く。
その後、明龍から簡潔に血の雨が人為的に引き起こされたもので、犯人の目撃情報のために幽霊に話が聞きたいという考えで、尚香局へ来たことを聞かされた。
「すぐに使えるか」
『いえ、話を聞きたいのであれば、夜に』
香蘭はそう伝えて、今夜改めて明龍と落ち合うことになった。
明龍は、長官に話を聞きに来たようだった。奥で少し話したあとには、明龍は香蘭へと視線を向けた、ような気がした。香蘭は揖礼をしたまま顔を上げないようにする。
つかつかと香蘭に歩み寄ってくる足音を、床を見つめながら聞いていた。
「殿下、そんな黙黙なんて放っておいて、あたしたちとお話しませんか」
同僚の女官たちが、さっと香蘭と明龍の間に入ってきた。明龍の眉間の皺が深くなったようだったが、彼女たちは気がついていない。
「何か今朝の雨について知っていることはあるか」
彼女たちは皇太子に声をかけられたことに舞い上がり、甲高い声で我先にと答える。
「ええ、もちろん」
「いろいろと知っておりますから、ぜひお話しを」
「いえ、わたくしと」
明龍は呆れたようにため息をつくと、鋭い視線とともに言い放った。
「不要だ。去れ」
呆然と立ち尽くす彼女たちを放って、明龍は香蘭のところまで歩み寄ってくる。通り過ぎることを期待して揖礼を続けていたが、ぴたりと香蘭の前で足が止まった。
「顔を上げよ」
本当に顔を上げていいのか迷い、ちらりと側近らしき男性へと視線を向ける。
「殿下のおっしゃる通りに」
にこにこと人のいい笑顔でそう促された。香蘭は揖礼をやめてそっと顔を上げる。
正面から見た皇太子は、見上げるほどに背が高く威圧感がある。眉間に皺の酔った険しい表情をしているが、元来整った顔立ちをしているのだろうとわかった。
「君が新しく入った香士だな」
香蘭は返答として拱手の形を取った。明龍が長官に奥の部屋を使うと伝えて歩き出した。香蘭にも一瞥をくれた。ついて来いということだろう。
「あら、殿下、その子は口が利けませんのよ」
「そうです。話を聞いても無駄ですよ」
噛みつくように彼女たちは声を上げた。告げ口するような底意地の悪い物言いは、皇太子と話せなかった腹いせなのだろう。だが、口が利けないとわかったら引き下がってくれるかもしれないと、香蘭は希望を込めて明龍へ向けて頷いた。
「筆談で構わない」
だめだったようだ。香蘭は諦めて明龍のあとに続く。
部屋で向き合うと、明龍はすぐに本題に入った。
「血の雨のことは知っているか」
『存じております。目撃しましたし、噂も聞きました』
香蘭は持ってきた筆で紙にそう書き付けて、明龍に見せる。香のこと以外は話すのが苦手だったが、こうして筆談だと幾分か話すのが苦ではないことに最近気がついた。
明龍はどうやら今朝の血の雨のことを調べているらしい。だが、皇太子がわざわざ出向いて調査するのだろうか、女官に聞き込みまでして。
「あれは、血ではない」
明龍がそう断言した。香蘭は、紙に書こうとしたが頷くだけで済むと気づき、こくんと一つ頷いた。
「驚かないのだな」
『あれほどの量が降っていたのに、血の匂いがしませんでしたから』
これはさすがに紙に書いてみせた。明龍は、なるほど、香士は香りそのものに敏感なのか、と独り言のように呟いていた。
実際、その通りである。香蘭は、幼いころから家で取り扱う香木や販売する香に慣れ親しんできた。両親は、これは何の香り? という香蘭の問いにきちんと答えてくれる人だった。香りと名前の知識は香蘭の中にたくさん積もっている。それは、姉の春香とて同じ、いや春香のほうがより優れていた。
――後宮に来るのだって、本当は姐姐のはずだった
知識においても、香を作る腕においても、春香が尚香局へ来るはずだったのだ。流行り病に侵されて帰らぬ人とならなければ、ここは春香の居るべき場所だ。
香蘭が春香に勝っていたことといえば、幻と言われた反魂香を作れるということだけだ。後宮でそんな依頼を受けることなどないから、役には立たないが。
「君は、反魂香を作れるのか」
「――ッ」
香蘭は自分の毛が逆立ったのを感じた。たった今考えていたことを、見抜かれたのかと思った。声を失っていなければ、悲鳴をあげていたところだ。顔に出ないように頑張ったつもりだが、どう見えているかわからない。返答を書く手がわずかに震える。
『そのようなものは作れません』
手短にそう書き付けた紙を明龍に差し出す。
「ほう」
明龍が興味を持ったような声を漏らした。眉間に寄った皺が少し薄くなったようにも見えた。
「反魂香が何か、を知っているのだな。先ほど聞いた長官は、それは何でございますか、と聞き返してきたが?」
「――」
間違えた、と気がついた香蘭は下を向いた。焦るあまりに返答を誤ったのだ。これでは、反魂香を知っているうえに、作れることを隠したい、ということまで明かしてしまったようなものだ。
「反魂香を、作れるのだな」
再度、そう問われて香蘭は頷くしかなかった。
「協力してもらおうか」
どちらにせよ、皇太子からの命令を一介の女官が断れるはずがない。理由はわからないが、必要に迫られて反魂香を探しに来たと思われる。香蘭は、震える手を抑え込んで紙に書き付けた。
『後宮での反魂香の使用を禁止なさらないのなら、ご協力いたします』
「ここで反魂香を使いたいと。なぜだ」
『亡くなった姉と会うためです。叶わないのなら、今ここですべての反魂香を水に浸けて使えなくいたします』
皇太子相手に取引を持ちかけるなんて、不敬とみなされる可能性だってある。だが、春香と会えなくなってしまうのは嫌だ。春香との時間だけは、絶対に守らなければならない。
「本当に幽霊と話せると示せば、許可しよう」
明龍は表情を変えることもなく、そう言った。取引は成立のようだ。香蘭は緊張で詰めていた息を吐く。
その後、明龍から簡潔に血の雨が人為的に引き起こされたもので、犯人の目撃情報のために幽霊に話が聞きたいという考えで、尚香局へ来たことを聞かされた。
「すぐに使えるか」
『いえ、話を聞きたいのであれば、夜に』
香蘭はそう伝えて、今夜改めて明龍と落ち合うことになった。



