*
朝の執務室には、全員が揃っていた。だが、楽しくお茶会などという雰囲気ではなく、困惑の表情を浮かべている。
「玲玲、噂になっている怪談のことを話してくれ」
明龍がそう玲玲に命じて、玲玲は拱手とともに話し出した。
「まず、牡丹灯籠はご存知でしょうか」
香蘭はひとつ頷いた。もちろん知っている。怪談に明るくない香蘭でも知っている有名な話だ。
正式な名前は牡丹燈記。ある男が、牡丹の飾りがついた灯籠を持った召使を連れた美女と出会い、逢瀬を重ねる。しかし、その美女は幽霊で、召使は紙人形だと判明する。法師に札をもらって家に貼ることで難を逃れるが、酔った日に近づくなと言われた美女の家の近くに行ってしまい、棺の中に引きずり込まれてしまう。それ以来、男を加えた三人の幽霊が目撃されるようになる。
おおまかにはそういう話だったはずだ。
「最近、その牡丹灯籠が宮中に現れるという噂が流れております。牡丹の灯籠を持った侍女を連れて夜に歩く姿が多数目撃されています。顔の知られた者なので、噂の広まりが早いです」
「誰なんだ」
明龍の短い問いに、玲玲は深く頷いてから答えた。
「尚宮局の長官だった、羽瑛という方です」
尚宮局とは、人事や書物の管理をする局のことで、他の局のまとめ役の側面もある。そこの長官は正五品という高い位を有す女官で、下位の女官にはもちろん、役人たちにも影響力を持つ人物だ。
『侍女のほうはわかっているの?』
香蘭が書き付けて尋ねるが、玲玲はいいえ、とすぐに答えた。
「布で顔を隠していて、誰かはわからないようです」
玲玲は続けて噂について言い足した。
「牡丹灯籠は、自分を殺した犯人を見つけ出そうとしているという部分が、噂において一番恐れられているようです」
勇雲は、合点がいったと声を上げた。
「なるほど。それで、『自分は犯人ではない』などと意味のわからないことを言いながら部屋に籠る者が多数いるわけか」
牡丹灯籠の噂のため、宮廷の者たちが部屋から出なくなり、中元節に向けた業務に支障が出る事態となっている。
「これは死活問題だな」
香蘭は一つ気になる点があり、玲玲に聞いてみる。
『羽瑛さんは、殺されたの……?』
「亡くなった原因は不慮の事故だったと聞いておりますが……」
詳しくはわからないと玲玲は首を振った。
ふいに、明龍の執務室に役人がやってきた。その役人の顔を見て、明龍はわずかに表情を曇らせた。
「殿下、皇帝陛下がお呼びでございます。中元節のことで話があるため、香士殿も同行するようにとの仰せです」
「わかった。すぐに行く」
明龍は、話を一時中断として皆を解散させた。そして香蘭と揃って皇帝のもとへ向かう。明龍の足取りは心なしか重く、道中の会話もほとんどない。
『陛下からのお話はなんでございましょう』
「おそらくは、催促であろうな」
わずかな会話ののち、皇帝の前にやってきた。香蘭は深々と揖礼をする。
「明龍。僵尸の解決はまだなのか」
「申し訳ありません」
「この件、明龍に任せると言った。お前もそれを承知したはずだ。なぜできていない」
淡々とだが非難の色を滲ませた声で皇帝は明龍へと問いかける。明龍が何か言う前に、さらに投げかけられた。
「近頃は牡丹灯籠が出たと騒ぐ声も聞かれる。日々の仕事にまで影響が出る始末。……よいか、明龍。皇太子としての自覚を持て。その責務を果たせ」
「はっ」
短く返事をした明龍は、耐えるように唇をぐっと噛み締めていた。
「香士としての仕事も怠るでないぞ」
今までいないもののようにされていた香蘭へ、ふいに矛先が向けられて、香蘭は思わず肩を揺らした。
「中元節を無事にやり遂げられなければ、僵尸の状況は悪化するだろう。香は重要な役目を背負っておる。そのために、かつての皇帝は尚香局を作ったのだからな」
香蘭はわずかに息を飲んだ。もはや忘れられて形骸化している尚香局の由来をこの方はきちんと把握しているのだ。
「香士の責は重いものと心得よ」
低く響く皇帝の声に気圧されて、香蘭は一歩後ろに下がった。宮廷にいる唯一の香士であることの責任が香蘭の肩にのしかかる。
「陛下。彼女には、香士の仕事に加えて僵尸および牡丹灯籠の調査に協力をしてくれています。香については、尚香局が作業も責も担います。そのための局でございましょう」
「しかと務めよ」
皇帝の言葉に香蘭は改めて揖礼で答えた。
香蘭は横に立つ明龍の顔をちらりと見上げた。香士の責任を香蘭一人に背負わせないように配慮をしてくれたのだ。自身も叱責を受ける中でも香蘭を気遣ってくれたことに感服した。
香蘭は、明龍とともに執務室に戻ってきた。明龍は、部屋に着くなり、大きく息を吐いた。眉間にぐっと皺が寄っている。
「はあああ……」
そして、香蘭に向き直ると頭を下げる。
「無駄に萎縮させてしまった。申し訳ない」
香蘭はぶんぶんと何度も首を横に振る。明龍が謝ることなんて何もない。
「中元節の件と言っていたから、一緒に来てもらったが、まさかあのように圧をかけるとは思わなかった。断ればよかった」
『皇帝陛下の命令を断るなんて、殿下にご迷惑をかけてしまいます』
香蘭はそう書き付けて見せるが、明龍は眉間の皺は深いままだ。
「俺に仕える者が嫌な思いをするのは、本意ではない」
きっぱりと言い切る明龍に確かな優しさを見て、香蘭は心があたたかくなるのを感じた。
『緊張はしましたが、大丈夫です。ありがとうございます』
そして、香蘭は書くかどうか迷ったものの、明龍の表情を見て、問いかけた。
『殿下は、嫌な思いをされていませんか』
明龍は文字を追っていた目を大きく見開いた。苦笑いを浮かべて明龍は肩をすくめた。
「顔に出ていたか。陛下の言う通り、皇太子の自覚が足りないのかもな」
『そのようなことは決して』
香蘭はすばやく書き付けて明龍の目の前に差し出した。明龍の口端にわずかに緩んだかと思えば、すぐに凛とした表情に戻った。
「まずは牡丹灯籠への対策を考えなければな」
香蘭は、玲玲からの話をまとめつつ、明龍へこれはどう調べるかなど相談を書き付ける。それを見つつ、明龍が方針を言い、さらに筆を進める。
紙にはたくさんの文字が踊り、次第に見づらくなってしまう。また、どうしても声で話すよりも時間がかかってしまうのだ。
「筆談は書く手間があるな。……香蘭、記憶力はいいか?」
ふいに、明龍がそのようなことを聞いてきた。
香士として香料の種類、効能、作り方などいろいろなことを覚えるため、悪いほうではないはずだ。明龍の質問の意図が読めず、香蘭は曖昧に頷く。
「身振り手振りである程度の意思疎通ができればと思ってな。挨拶は拱手で問題ない。肯定は首を縦に、否定は横に振る、でいいだろう」
香蘭は、明龍の意図を理解して頷いた。書かずに伝えられるのなら、そっちのほうが早いし、便利になる。
「例えば、『ありがとう』はこう」
明龍は親指を立てて拳を握り、その親指を、礼をするように前に曲げて見せた。香蘭は明龍の動作を見ながら手の動きを真似する。明龍がそうそう、と少し楽しそうな気配を覗かせて頷いていた。
「次は『誰』だとこう、『どこ』だとこうだな」
『誰』では、顔を指さしてから、人差し指を立てて顔と指を横に振る仕草、『どこ』では手のひらに拳を乗せてから顔と指を横に振る仕草を示した。
香蘭は同じように真似をして、覚えられるように頭の中で一つ一つを結び付けていく。続けて、『頑張って』『よろしく』『よくやった』『お疲れ様』などの挨拶のようなもの、『忙しい』『食べる』『わからない』『元気』など状態を表すものを教えてもらった。
「それから、これは少し覚えるのが面倒だが」
明龍はそう前置きをしてから、音一つ一つを手の形に当てはめたものを説明し始めた。確かにすべての音と手の形の対応を覚えるのは大変そうだが、習得すればかなり細かいことも伝えられるだろう。
明龍がこの手振りでの会話にかなり慣れているように感じられた。この場で思い付いたものではないだろう。香蘭はたった今教わった、『誰』という手振りと『これ』という手の形で問いかけてみた。
「ん? ああ、この手振りを教わった相手が誰かということか」
聞きたいことが伝わって、香蘭は嬉しくて微笑みながら頷いた。こんな風に素直に笑ったのは久しぶりかもしれない。子どもっぽい反応をしてしまった気がして、すぐに顔を戻した。
「幼い頃に父上が――皇帝陛下が考えて俺に教えてくれたんだ。お互いに距離があるところで、今日あったことや聞いてほしいことを伝えたり、仕事のことを聞いたりしていたんだ」
皇帝が教えたとは思わず、香蘭は驚いて目を丸くした。明龍に対して厳しい態度の皇帝しか見ていないから、幼いころは違ったのだろうかと、正直に驚いた。
「皇帝陛下は、お忙しいから親子といえども、長い時間一緒に過ごせるわけではない。だから、宮の前を通るときや、政務中の隙間を縫って、手振りで話していたんだ。懐かしい」
明龍は昔を懐かしむように目を細めた。香蘭は手振りで答えようとしたものの、まだ習得しきれていないから、結局紙に書き付ける。
『殿下と皇帝陛下はとても仲がよろしいのですね』
「まあ、昔の話だ。今はただ、皇帝陛下と皇太子、それだけだ。……この嘘を聞く力がなければきっと、幾分かましだったのだろうが」
明龍の声音には、いろいろな感情が入り混じっていて心境を推し量ることが難しい。ただ、少し悲しそうに感じる。
香蘭は何か言葉をかけようと思ったが、ふさわしいものが見つからない。
「困らせてすまない。忘れてくれ。俺が皇太子として、責務を果たすことができれば、きっと皇帝陛下も認めてくださるだろう。それだけのことだ」
明龍が謝ることはないし、話してくれたことを忘れたくないとも思った。
聞かせてくれたのなら、香蘭も話そうと筆を取った。
『わたしは、香士の家に生まれましたが、宮廷に来るのは姉のはずでございました。両親と出仕のことで口論になり、家を飛び出してここへ来ました』
きっと心のどこかで誰かに聞いてほしいと思っていたのだろう。筆が進んでいく。
『姉のほうが、香士としても人としても優秀でした。両親も、わたしよりも姉を出仕させたかったのです。……わたしは、亡くなった姉の代わりです』
見れば、明龍が眉間の皺を深めて香蘭の綴った文字たちを見つめていた。香蘭は、はっとして紙をくしゃくしゃにして隠すように手に持った。
つい、聞いてほしいという思いだけで書き付けてしまった。こんなことを聞かされても困るだろうに。
「……ここにいることが本当に嫌であれば、君を家に帰すこともできる。理由はいくらでも俺が作る」
『嫌ではございません』
香蘭は、すぐにそう書き付けて見せた。本心からの文字だった。
――じゃあ、どうしてわたしはここにいるの
反魂香を使えるからか。しかし、絶対に宮廷でなければ、という理由にはならない。
ふと、景月と珀静の二人の笑顔を思い出した。二人を繋ぐことができたのは、春香の代わりに作った香ではなく、香蘭自身の、香蘭にしかできない香だ。
――わたしは、自分の意志でここにいたいと、思っているの
言い難い自分自身の変化に、香蘭は戸惑う。それ以上、考えることができなくなって、たどたどしく筆を走らせた。
『香士として、仕事を全うします』
それだけ告げると、明龍に拱手をしてから自分の部屋に戻った。
香蘭は、長い時間天井を見つめていた。家を飛び出したときのこと、春香と話したこと、香士の仕事、そして明龍付きの女官として調査をする日々、何度も何度も反芻して、それでも香蘭がここにいる明確な答えはわからなかった。
――でも、これだけは伝えないと
香蘭は筆を取った。いつもの筆談用の紙ではなく、少し上等で丈夫な紙に丁寧に文字を書き連ねる。両親へあてた手紙だ。たくさん考えた結果、数行で収まってしまった。
『勝手に家を出てごめんなさい。わたしは、元気にしています。香士の仕事はやりがいがあります。また手紙を書きます』
帰りたいとも、ここにいたいとも書けなかった。だが、明龍と皇帝の絆の証である手振りを知って、香蘭も両親へ何か伝えたいと思ったのだ。
朝の執務室には、全員が揃っていた。だが、楽しくお茶会などという雰囲気ではなく、困惑の表情を浮かべている。
「玲玲、噂になっている怪談のことを話してくれ」
明龍がそう玲玲に命じて、玲玲は拱手とともに話し出した。
「まず、牡丹灯籠はご存知でしょうか」
香蘭はひとつ頷いた。もちろん知っている。怪談に明るくない香蘭でも知っている有名な話だ。
正式な名前は牡丹燈記。ある男が、牡丹の飾りがついた灯籠を持った召使を連れた美女と出会い、逢瀬を重ねる。しかし、その美女は幽霊で、召使は紙人形だと判明する。法師に札をもらって家に貼ることで難を逃れるが、酔った日に近づくなと言われた美女の家の近くに行ってしまい、棺の中に引きずり込まれてしまう。それ以来、男を加えた三人の幽霊が目撃されるようになる。
おおまかにはそういう話だったはずだ。
「最近、その牡丹灯籠が宮中に現れるという噂が流れております。牡丹の灯籠を持った侍女を連れて夜に歩く姿が多数目撃されています。顔の知られた者なので、噂の広まりが早いです」
「誰なんだ」
明龍の短い問いに、玲玲は深く頷いてから答えた。
「尚宮局の長官だった、羽瑛という方です」
尚宮局とは、人事や書物の管理をする局のことで、他の局のまとめ役の側面もある。そこの長官は正五品という高い位を有す女官で、下位の女官にはもちろん、役人たちにも影響力を持つ人物だ。
『侍女のほうはわかっているの?』
香蘭が書き付けて尋ねるが、玲玲はいいえ、とすぐに答えた。
「布で顔を隠していて、誰かはわからないようです」
玲玲は続けて噂について言い足した。
「牡丹灯籠は、自分を殺した犯人を見つけ出そうとしているという部分が、噂において一番恐れられているようです」
勇雲は、合点がいったと声を上げた。
「なるほど。それで、『自分は犯人ではない』などと意味のわからないことを言いながら部屋に籠る者が多数いるわけか」
牡丹灯籠の噂のため、宮廷の者たちが部屋から出なくなり、中元節に向けた業務に支障が出る事態となっている。
「これは死活問題だな」
香蘭は一つ気になる点があり、玲玲に聞いてみる。
『羽瑛さんは、殺されたの……?』
「亡くなった原因は不慮の事故だったと聞いておりますが……」
詳しくはわからないと玲玲は首を振った。
ふいに、明龍の執務室に役人がやってきた。その役人の顔を見て、明龍はわずかに表情を曇らせた。
「殿下、皇帝陛下がお呼びでございます。中元節のことで話があるため、香士殿も同行するようにとの仰せです」
「わかった。すぐに行く」
明龍は、話を一時中断として皆を解散させた。そして香蘭と揃って皇帝のもとへ向かう。明龍の足取りは心なしか重く、道中の会話もほとんどない。
『陛下からのお話はなんでございましょう』
「おそらくは、催促であろうな」
わずかな会話ののち、皇帝の前にやってきた。香蘭は深々と揖礼をする。
「明龍。僵尸の解決はまだなのか」
「申し訳ありません」
「この件、明龍に任せると言った。お前もそれを承知したはずだ。なぜできていない」
淡々とだが非難の色を滲ませた声で皇帝は明龍へと問いかける。明龍が何か言う前に、さらに投げかけられた。
「近頃は牡丹灯籠が出たと騒ぐ声も聞かれる。日々の仕事にまで影響が出る始末。……よいか、明龍。皇太子としての自覚を持て。その責務を果たせ」
「はっ」
短く返事をした明龍は、耐えるように唇をぐっと噛み締めていた。
「香士としての仕事も怠るでないぞ」
今までいないもののようにされていた香蘭へ、ふいに矛先が向けられて、香蘭は思わず肩を揺らした。
「中元節を無事にやり遂げられなければ、僵尸の状況は悪化するだろう。香は重要な役目を背負っておる。そのために、かつての皇帝は尚香局を作ったのだからな」
香蘭はわずかに息を飲んだ。もはや忘れられて形骸化している尚香局の由来をこの方はきちんと把握しているのだ。
「香士の責は重いものと心得よ」
低く響く皇帝の声に気圧されて、香蘭は一歩後ろに下がった。宮廷にいる唯一の香士であることの責任が香蘭の肩にのしかかる。
「陛下。彼女には、香士の仕事に加えて僵尸および牡丹灯籠の調査に協力をしてくれています。香については、尚香局が作業も責も担います。そのための局でございましょう」
「しかと務めよ」
皇帝の言葉に香蘭は改めて揖礼で答えた。
香蘭は横に立つ明龍の顔をちらりと見上げた。香士の責任を香蘭一人に背負わせないように配慮をしてくれたのだ。自身も叱責を受ける中でも香蘭を気遣ってくれたことに感服した。
香蘭は、明龍とともに執務室に戻ってきた。明龍は、部屋に着くなり、大きく息を吐いた。眉間にぐっと皺が寄っている。
「はあああ……」
そして、香蘭に向き直ると頭を下げる。
「無駄に萎縮させてしまった。申し訳ない」
香蘭はぶんぶんと何度も首を横に振る。明龍が謝ることなんて何もない。
「中元節の件と言っていたから、一緒に来てもらったが、まさかあのように圧をかけるとは思わなかった。断ればよかった」
『皇帝陛下の命令を断るなんて、殿下にご迷惑をかけてしまいます』
香蘭はそう書き付けて見せるが、明龍は眉間の皺は深いままだ。
「俺に仕える者が嫌な思いをするのは、本意ではない」
きっぱりと言い切る明龍に確かな優しさを見て、香蘭は心があたたかくなるのを感じた。
『緊張はしましたが、大丈夫です。ありがとうございます』
そして、香蘭は書くかどうか迷ったものの、明龍の表情を見て、問いかけた。
『殿下は、嫌な思いをされていませんか』
明龍は文字を追っていた目を大きく見開いた。苦笑いを浮かべて明龍は肩をすくめた。
「顔に出ていたか。陛下の言う通り、皇太子の自覚が足りないのかもな」
『そのようなことは決して』
香蘭はすばやく書き付けて明龍の目の前に差し出した。明龍の口端にわずかに緩んだかと思えば、すぐに凛とした表情に戻った。
「まずは牡丹灯籠への対策を考えなければな」
香蘭は、玲玲からの話をまとめつつ、明龍へこれはどう調べるかなど相談を書き付ける。それを見つつ、明龍が方針を言い、さらに筆を進める。
紙にはたくさんの文字が踊り、次第に見づらくなってしまう。また、どうしても声で話すよりも時間がかかってしまうのだ。
「筆談は書く手間があるな。……香蘭、記憶力はいいか?」
ふいに、明龍がそのようなことを聞いてきた。
香士として香料の種類、効能、作り方などいろいろなことを覚えるため、悪いほうではないはずだ。明龍の質問の意図が読めず、香蘭は曖昧に頷く。
「身振り手振りである程度の意思疎通ができればと思ってな。挨拶は拱手で問題ない。肯定は首を縦に、否定は横に振る、でいいだろう」
香蘭は、明龍の意図を理解して頷いた。書かずに伝えられるのなら、そっちのほうが早いし、便利になる。
「例えば、『ありがとう』はこう」
明龍は親指を立てて拳を握り、その親指を、礼をするように前に曲げて見せた。香蘭は明龍の動作を見ながら手の動きを真似する。明龍がそうそう、と少し楽しそうな気配を覗かせて頷いていた。
「次は『誰』だとこう、『どこ』だとこうだな」
『誰』では、顔を指さしてから、人差し指を立てて顔と指を横に振る仕草、『どこ』では手のひらに拳を乗せてから顔と指を横に振る仕草を示した。
香蘭は同じように真似をして、覚えられるように頭の中で一つ一つを結び付けていく。続けて、『頑張って』『よろしく』『よくやった』『お疲れ様』などの挨拶のようなもの、『忙しい』『食べる』『わからない』『元気』など状態を表すものを教えてもらった。
「それから、これは少し覚えるのが面倒だが」
明龍はそう前置きをしてから、音一つ一つを手の形に当てはめたものを説明し始めた。確かにすべての音と手の形の対応を覚えるのは大変そうだが、習得すればかなり細かいことも伝えられるだろう。
明龍がこの手振りでの会話にかなり慣れているように感じられた。この場で思い付いたものではないだろう。香蘭はたった今教わった、『誰』という手振りと『これ』という手の形で問いかけてみた。
「ん? ああ、この手振りを教わった相手が誰かということか」
聞きたいことが伝わって、香蘭は嬉しくて微笑みながら頷いた。こんな風に素直に笑ったのは久しぶりかもしれない。子どもっぽい反応をしてしまった気がして、すぐに顔を戻した。
「幼い頃に父上が――皇帝陛下が考えて俺に教えてくれたんだ。お互いに距離があるところで、今日あったことや聞いてほしいことを伝えたり、仕事のことを聞いたりしていたんだ」
皇帝が教えたとは思わず、香蘭は驚いて目を丸くした。明龍に対して厳しい態度の皇帝しか見ていないから、幼いころは違ったのだろうかと、正直に驚いた。
「皇帝陛下は、お忙しいから親子といえども、長い時間一緒に過ごせるわけではない。だから、宮の前を通るときや、政務中の隙間を縫って、手振りで話していたんだ。懐かしい」
明龍は昔を懐かしむように目を細めた。香蘭は手振りで答えようとしたものの、まだ習得しきれていないから、結局紙に書き付ける。
『殿下と皇帝陛下はとても仲がよろしいのですね』
「まあ、昔の話だ。今はただ、皇帝陛下と皇太子、それだけだ。……この嘘を聞く力がなければきっと、幾分かましだったのだろうが」
明龍の声音には、いろいろな感情が入り混じっていて心境を推し量ることが難しい。ただ、少し悲しそうに感じる。
香蘭は何か言葉をかけようと思ったが、ふさわしいものが見つからない。
「困らせてすまない。忘れてくれ。俺が皇太子として、責務を果たすことができれば、きっと皇帝陛下も認めてくださるだろう。それだけのことだ」
明龍が謝ることはないし、話してくれたことを忘れたくないとも思った。
聞かせてくれたのなら、香蘭も話そうと筆を取った。
『わたしは、香士の家に生まれましたが、宮廷に来るのは姉のはずでございました。両親と出仕のことで口論になり、家を飛び出してここへ来ました』
きっと心のどこかで誰かに聞いてほしいと思っていたのだろう。筆が進んでいく。
『姉のほうが、香士としても人としても優秀でした。両親も、わたしよりも姉を出仕させたかったのです。……わたしは、亡くなった姉の代わりです』
見れば、明龍が眉間の皺を深めて香蘭の綴った文字たちを見つめていた。香蘭は、はっとして紙をくしゃくしゃにして隠すように手に持った。
つい、聞いてほしいという思いだけで書き付けてしまった。こんなことを聞かされても困るだろうに。
「……ここにいることが本当に嫌であれば、君を家に帰すこともできる。理由はいくらでも俺が作る」
『嫌ではございません』
香蘭は、すぐにそう書き付けて見せた。本心からの文字だった。
――じゃあ、どうしてわたしはここにいるの
反魂香を使えるからか。しかし、絶対に宮廷でなければ、という理由にはならない。
ふと、景月と珀静の二人の笑顔を思い出した。二人を繋ぐことができたのは、春香の代わりに作った香ではなく、香蘭自身の、香蘭にしかできない香だ。
――わたしは、自分の意志でここにいたいと、思っているの
言い難い自分自身の変化に、香蘭は戸惑う。それ以上、考えることができなくなって、たどたどしく筆を走らせた。
『香士として、仕事を全うします』
それだけ告げると、明龍に拱手をしてから自分の部屋に戻った。
香蘭は、長い時間天井を見つめていた。家を飛び出したときのこと、春香と話したこと、香士の仕事、そして明龍付きの女官として調査をする日々、何度も何度も反芻して、それでも香蘭がここにいる明確な答えはわからなかった。
――でも、これだけは伝えないと
香蘭は筆を取った。いつもの筆談用の紙ではなく、少し上等で丈夫な紙に丁寧に文字を書き連ねる。両親へあてた手紙だ。たくさん考えた結果、数行で収まってしまった。
『勝手に家を出てごめんなさい。わたしは、元気にしています。香士の仕事はやりがいがあります。また手紙を書きます』
帰りたいとも、ここにいたいとも書けなかった。だが、明龍と皇帝の絆の証である手振りを知って、香蘭も両親へ何か伝えたいと思ったのだ。



