後宮の香女官は彼方を想う

 新月の夜は、いろいろなものを覆い隠してくれる。

 後宮といえども、隅から隅まですべての手入れが行き届いているわけではない。一人の少女が座る部屋は、部屋というには粗末で壁の木材同士に隙間があり、風が通り抜けていく。少女――(トウ)香蘭(コウラン)は、女官としての仕事を終えて私室に帰ってきたところだ。

 ――今日は、少し遅くなっちゃった

 香蘭は丈夫そうな木箱の中から、銀色に輝く球体を丁寧に取り出した。月が出ていればその光を反射して美しく輝くであろう見事な銀には細かな花の意匠が施されている。香蘭が上半分を蓋のように開けると、中には皿と丸薬のような(こう)が一つ。香にそっと火をつけると、煙があがった。煙にくゆらせるように櫛を置く。

 まっすぐに伸びる湯気とは違い、質量を持った煙がゆったりと白くたなびいている。時折、渦を巻くようにして空間に広がっていき、だんだんと濃く、多くなっていた。

「魂在何許(魂はどこにあるのか) 香煙引到焚香處(香の煙に導かれ、香の焚かれるところ)」

 香蘭がすらすらと言い慣れた文言を口にすると、煙の奥に一人の女性が浮かび上がってきた。豊かな黒髪を高く結い上げた、目を惹く佳人は香蘭よりも年上で、目元が似ている。彼女が少し困ったように笑う。

「香蘭、反魂香(はんごんこう)の使いすぎはよくないわよ」
「使いすぎなんてないよ、姐姐(おねえちゃん)

 部屋を覆う香は、濃い蜜のような香りの中に、桂花(けいか)――金木犀の花の香り、そして雨上がりのような香りが顔を見せる。大きく息を吸い込めばくらくらと酔ってしまいそうなくらいに甘い。

「姐姐、今日は差し入れで点心をもらったの。形が崩れたものだけなんだけど」

 香蘭は持ってきた点心を姉の春香(シュンカ)に見せる。皮が破けていて、中の餡が見えてしまっているが、一応は形を保っている。

「姐姐にも美味しいものを食べてほしいの」
「ありがとう、香蘭」

 春香は礼を言いつつも、点心には手を伸ばさずに微笑むだけ。それが困った表情であることは、香蘭にだってわかっていた。言ってもさらに困らせるだけだとわかっているのに、口にしてしまった。

「姐姐、どうして死んでしまったの……」

 香蘭の絞り出すような声は、新月の夜の風が攫うようにして連れていった。


***


「香蘭、本当に後宮へ行くの」

 母は困惑した表情と声でそう香蘭へ尋ねた。問いかけの形だが、行くなと言っているのは明らかだった。

「行くつもりだよ」
「まだ春香の喪が明けたばかりじゃないか。確かに、香士(こうし)を後宮へという要請はある。だが、春香の代わりに香蘭が行く必要はないだろう」

 父は香蘭の両肩に手を置いて、切々と語りかける。香士とは、香を専門的に扱う専門職の者のことだ。香士の家系である董家に生まれた春香と香蘭はともに香士の道を進んでいた。姉の春香に関しては流行り病で亡くなるまでは、という注釈付きだが。

 香蘭が黙って聞いていると、父はさらに続ける。

「今まで通り、この家で香を作り、依頼があればそれに応えていけばいい。……反魂香は常連さんにだけ譲る。それでいい」
「そうよ。もしも道士のお仕事に興味があるなら、私から姐さんに話してみてもいいのよ」

 母は父の言葉に重ねるように言う。母の姉、香蘭から見れば伯母にあたる人は道士として働いている。母方は道士の家系だそうで、一応香蘭もその血を受け継いでいることになる。

「わたしは、後宮に行く。姐姐の行くはずだった場所だから」

 香蘭の肩にはらりと一束の髪がこぼれ落ちる。春香は長く髪を伸ばしていていつも高く結い上げていた。香蘭も同じように結い上げたのだが、髪の長さが足りずにあちこちにおくれ毛が出ている。

「……香蘭、髪も服も春香の真似をする必要はないんだ」
「髪はもっと伸びたら姐姐みたいにできるんだけどね」

 香蘭はおくれ毛を手櫛で収めながらそう微笑んだ。姉の真似をしなくていいと両親は言うが、もういないのなら、その姿を誰かが留めておかなければ、本当にいなくなってしまうじゃないか。

 ――それに、二人だって

 香蘭は知っている。両親が夜中に春香の名前を呼びながら泣いていることを。春香の部屋の物を一切動かさずにそのままにしていることを。

 だが、香蘭の前では平静を装っていて、無理をしなくていいと言う。無理をしているのはどちらのほうか。こういうとき、春香ならば持前の社交性と笑顔できちんと話ができたのだろう。香のこと以外、話すのが苦手な香蘭をいつも助けてくれた。

「……姐姐じゃなくて、わたしだったらよかったのに」
「――ッ」

 母の息を飲む音とともに、香蘭の頬が熱を持った。母の手のひらが香蘭の頬を叩いたのだ。穏やかな母が唇を噛みしめ、目には涙を浮かべて怒りを露わにしていた。

 そんな顔をさせたかったわけじゃない。香蘭は喉が張り付いたように何も言えなくなり、そのまま転がるように家を飛び出した。

 その足で後宮へ向かい、香蘭が女官として勤めはじめて一か月が経った。



 瑞陽(ずいよう)国の宮廷は、国のほぼ中央に位置している。この国はその名の通りに陽の光が国全体に届く温暖な気候だ。もう数十年と争いは起こっていない、平和な国。

 ただ、個人個人が平和かといえば、それは別の話。宮廷のうちに存在する後宮は、やはり女の階級社会だ。

 香蘭はこの日も誰よりも早く職場に到着していた。白の(ブラウス)に瑠璃色の(スカート)を合わせて着ている。派手になりすぎないような披帛(スカーフ)を選んできた。髪は今日も姉の春香がしていたように高く結い上げている。あちこちに出ているおくれ毛は見なかったことにする。

 ――早く、姐姐のように長く伸びてほしいのに

 香蘭は、自分の(テーブル)で書簡に目を通す。すると誰かがやってくる音がして、慌てて立ち上がって部屋の端に寄った。

「はあ、うんざりだわ」
「本当に。女官の務めなんて、面倒なだけですわ」

 髪も服も手入れの行き届いた少女たちが口々にそう言いながら、香蘭のいる部屋にやってくる。香蘭の姿を見つけると、つかつかと歩み寄って体をぶつけてきた。

「――ッ」

 端に避けていたのに、わざとぶつかってきたのだ。そして、よろけたところを別の少女に足をひっかけられた。香蘭は体を支えきれずに床に倒れ込んでしまう。

「あらあら」

 頭上から嘲笑が聞こえてきた。彼女たちは良家の子女たちで、香蘭に対していつもこうだった。今年十七になる香蘭と年齢はほぼ同じであるものの、仲良くなれる気配は微塵もない。

 ここは、尚香局(しょうこうきょく)。皇族や貴族、妃嬪たちから依頼を受けて香を作る専門の局だ。宮廷の儀式ではよく香を使用するため、外部から香士を呼ぶよりも、宮廷内に部署を作ったほうが効率的であり、優秀な香士を保護することにも繋がる。と皇帝が言ったのはもう十代も前の頃。

 今ではその設立の経緯も忘れられ、仕組みも形骸化し、皇帝が直々に設立した部署、というところだけが残っている。そのため、嫁入り前の子女たちが箔をつけるための場になっている。外部から香士を招いていたことから、後宮の女官でありながら数年務めた後には良縁の嫁ぎ先が待っている。

「転がっていたら邪魔じゃないの」
「どんくさい子」
「ただの商家の娘が紛れ込んでいるなんてねえ。さっさと帰ってもいいんですのよ?」

 彼女らの言う通り、香蘭は商家の出だ。ただし、香蘭は十数年ぶりに尚香局へ入った香士である。董家は香木を扱う商家で、香を作り販売もしている。

 ちなみに、尚香局では女官の立場でありながら、良家の子女たちということで私室を用意されているのだが、香蘭は元々物置部屋だったところをあてがわれている。彼女たちに言わせると、商家の娘にはこれでちょうどいい、とのことだ。反魂香を人に見られずに使えるので、確かにちょうどいい。

「ほら、これをやっておいて」
「あたしのもね」

 書き付けを香蘭へ投げてくる。その中には木簡も含まれていて、角が香蘭の腕に当たった。思わず痛みで顔をしかめるが、声は上げない。

「嫌ならそう言えば? 黙黙(モーモー)のくせに」

 いつも、彼女たちはこの蔑称を使う。口の利けない憐れな子、という意味だ。だが、香蘭は声を我慢しているわけでも、口が利けないわけでもない。

 声を代償にしているだけだ。

 香蘭の使う反魂香――返魂香とも書く――は、幽世の者と会話をする代償に、現世の者と話せなくなるのだ。幽世の者と話した時間や状況に応じて、一週間から半月ほど。香蘭にとってはそんなことはどうでもよかった。姉の春香と会えて話ができるのなら、なんでもいい。

――昨日はついついあんなことを言っちゃった、反省しなきゃ。

 春香には綺麗で豪華な後宮の話をしなくては、と切り替える。後宮を春香に見せるために後宮へ来たのだから。香蘭は床に散らばった書簡や木簡を拾い集めて自分の席に戻る。

「それにしても、この時間でこれって人が少ないですわね」
「今朝のあれよ、不気味だって出てこない子もいるわ」
「あたしだって、来たくなかったわよ」

 彼女たちは、苛立ったような口調で話しているが、その顔には恐怖が張り付いていた。今日は一段と声が大きかったのも、これを紛らわすためだったのだろう。

 今朝、日が昇ってすぐのことだった。宮廷の上空に雲が広がり、大雨が降ったのだ。大雨だけなら何も不吉なことはない。降ったのはただの雨ではなく……真っ赤な血の雨だった。

 確かに人は少なめだし、香蘭もここへ来るまでに、噂話をしている人とすれ違った。

「黙黙の顔を見なさいよ」
「まあ、血の雨で宮廷に呪いが降りかかっているんじゃないか、って言われているのに、平然としているなんて信じられないわ」
「心がないのかしら」

 そう言われてからも、香蘭は顔色を変えないままだった。

 ――だって、あれは

「まあ! あの御方は!」

 唐突に、彼女たちの中から上ずった甲高い声が上がった。部屋の外に誰かがいるようだが、香蘭の位置からは見えない。

「どうしてここにいらっしゃったのかしら。あの御方は後宮嫌いではなかったの?」
「そうそう、女嫌いなのでしょう?」
「でも、男性官吏にも厳しいところを見た人もいるそうで。人間嫌いなんじゃないかって噂よ」

 本人たちは声を潜めて話しているつもりなのだろうが、こちらまで筒抜けだ。

「でも、ねえ……?」

 彼女たちは口元に笑みを広げる。その言葉の先は言わなかったが、お互いに共有しているようだ。『身分も容姿も申し分ない私たちならきっと気に入られる』といったところか。

 例の人物が部屋に入るやいなや、彼女たちは入り口付近に吸い寄せられるように集まっていった。
彼女たちの背中越しに見えるのは、杏黄(きょうおう)色の生地に、襟元には金色の刺繍が施された装束を身に纏った、男性だった。

「ようこそいらっしゃいました、殿下」

 装束と殿下という呼びかけから彼がこの国の皇太子、(リュウ)明龍(メイロン)だと理解した。香蘭は直接会ったことはないし、ただの女官が会う機会なんて普通はない。それがこんなところまで来るのは何事だろうか。

「――!」

 香蘭は距離が離れているからと、入り口のほうを見つめていたために不意にこちらを向いた明龍と目が合ってしまった。香蘭は慌てて揖礼をした。

 香蘭の背中につうっと汗が流れる。皇太子がわざわざやってきた理由が、もしも反魂香であるのなら、かなりまずい。そもそも反魂香の存在自体を知る者は少ないが、幽世に干渉するという点において、禁術の類になるはずだ。実家でも信頼のおける常連にしか存在を明かしていない。彼らが皇太子へ伝えることはあり得ない。

 尚香局の同僚にも長官にも、もちろん反魂香の話はしていない。言葉を交わせないのだから、言うこともできないのだけれど。でも、どこからか情報が漏れていたら。

 ――どうしよう、姐姐