都庁前署の会議室。
だが、田所雄三はそこにいなかった。
彼はいつも通り、新宿三丁目の探偵事務所の椅子に座り、机の上に並んだ資料を見つめていた。
山岸は電話の向こう側で言う。
「……全員集まった。副社長、経理部長、営業部長、人事、秘書、甲斐。お前は来ないのか?」
「行かない」
即答だった。
「ここで十分だ」
「……本当に最後まで来ないつもりか?」
「最後だからこそ行かない。現場で言う言葉と、ここで言う言葉は、意味が違う」
山岸はため息をついた。
「じゃあ始めるぞ。今、全員に聞こえる様にスピーカー切り替える」
田所の電話もスピーカーに切り替えると事務所のスピーカーから、六人分のざわめきが流れ込んできた。
「私は本件の捜査協力者の田所雄三と申します」
田所は椅子から立たないまま言った。
「今日は質問じゃない。説明をします」
副社長・三浦の声。
『……説明?』
「はい。この事件の構造です」
田所は資料を一枚ずつ並べながら話し始めた。
「まず、社長・黒木慎吾は十九時十五分から三十五分の間に倒れた」
「これは清掃員の証言と、机の位置の変化で確定しています」
「次に、机は二回動かされている。一度は事故に見せるため。もう一度は、それを確認するため」
経理部長・城戸が言う。
『……つまり、二人以上が現場に触った』
「そうです。副社長と、あなたです」
副社長が低く言った。
『……』
「副社長は、社長を見つけ、机を事故に見える位置に動かした」
「経理部長は、その後で現場を確認し、“戻そうとして”逆に痕跡を増やした」
城戸が声を荒げる。
『待って、私は……!』
「あなたは殺していない。だが“触った”」
「神崎さんは社内を走り回り、早乙女さんは資料を捨て、小宮山さんはスマホとUSBを整理した」
「つまりこの事件、実行犯以外の全員が“証拠を汚している”」
山岸が電話越しに言う。
「じゃあ、最初に手を出したのは誰だ?」
田所は、資料の一番端に置いた一枚を見る。
甲斐恒一の調書。
「唯一、“何もしていない人間”です」
スピーカーの向こうが、静かになる。
「全員、何かした記録が残っている。だが甲斐さんだけ、“完全に静止している”」
「これは潔白ではない。“完璧すぎる不在”です」
甲斐の声。
『……証拠は?』
「証拠なら、最初からありました」
田所は、あの写真を手に取る。
「傘立ての写真。青い長傘が一本だけ乾いていた」
「雨の日に外出したと言った人間の傘が、乾いている」
「つまり、外に出たという証言は嘘」
甲斐は黙った。
「非常階段の靴跡。安全靴の跡。社内設備用の靴です」
「ログは消せる。映像も消せる。だが“物の状態”は消せない」
「あなたは、ログを消し、非常階段を使い、会議室に入り、社長と最初に接触した」
「そして社長は、机に頭を打って死亡した」
山岸が低く言う。
「……否定するか?」
甲斐の声は、初めて少しだけ震えた。
『……動機は?俺が殺す理由は何だ』
田所は即答した。
「あなたは、全員の不正を知っていた」
「副社長の横領。経理の粉飾。秘書の関係。人事の精神状態」
「そして社長は、それを“あなた経由で”握っていた」
「あなたは、全員の地獄を毎日見ていた」
「だから、この会社を終わらせた」
『……』
「社長が死ねば、全員の不正は表に出ない。結果的に、全員が救われる」
「あなたは誰のためでもなく、“全部を終わらせるため”に殺した」
甲斐はしばらく沈黙した。
やがて、低い声で言った。
『……あんた、一度も現場に来てないだろ』
「はい」
『……なのに、全部、見てるな』
「いいえ」
田所は静かに言った。
「見てない。“読んでいる”だけです」
「人間の嘘と、物の状態を」
「現場に行かなくても、事件は資料の中に全部ある」
山岸が言う。
「……認めるか?」
甲斐は、しばらく黙ってから言った。
『……ログを消したのは俺だ』
『非常階段を使ったのも俺だ』
『……社長に、“全部終わらせたい”って言ったのも、俺だ』
スピーカーの向こうで、誰かが息を呑む音がした。
田所は椅子に深くもたれたまま、言った。
「あなたは、誰よりも動いていた」
「だが同時に、誰よりも“動かなかった”」
「だから、誰にも見えなかった」
電話の向こうで、甲斐が小さく笑った。
『……探偵って、歩かなくてもいいんだな』
「歩かない方が、よく見えることもあります」
田所は、机の資料をそっと閉じた。
彼は一歩も立たず、一度も現場に行かず、誰も追いかけず、ただ椅子に座ったまま、事件を終わらせた。
新宿の雑踏は、今日も変わらず騒がしい。
だがこの部屋の中では、すべての真実が、最初から最後まで、一度も外に出ることなく、静かに解かれていた。
だが、田所雄三はそこにいなかった。
彼はいつも通り、新宿三丁目の探偵事務所の椅子に座り、机の上に並んだ資料を見つめていた。
山岸は電話の向こう側で言う。
「……全員集まった。副社長、経理部長、営業部長、人事、秘書、甲斐。お前は来ないのか?」
「行かない」
即答だった。
「ここで十分だ」
「……本当に最後まで来ないつもりか?」
「最後だからこそ行かない。現場で言う言葉と、ここで言う言葉は、意味が違う」
山岸はため息をついた。
「じゃあ始めるぞ。今、全員に聞こえる様にスピーカー切り替える」
田所の電話もスピーカーに切り替えると事務所のスピーカーから、六人分のざわめきが流れ込んできた。
「私は本件の捜査協力者の田所雄三と申します」
田所は椅子から立たないまま言った。
「今日は質問じゃない。説明をします」
副社長・三浦の声。
『……説明?』
「はい。この事件の構造です」
田所は資料を一枚ずつ並べながら話し始めた。
「まず、社長・黒木慎吾は十九時十五分から三十五分の間に倒れた」
「これは清掃員の証言と、机の位置の変化で確定しています」
「次に、机は二回動かされている。一度は事故に見せるため。もう一度は、それを確認するため」
経理部長・城戸が言う。
『……つまり、二人以上が現場に触った』
「そうです。副社長と、あなたです」
副社長が低く言った。
『……』
「副社長は、社長を見つけ、机を事故に見える位置に動かした」
「経理部長は、その後で現場を確認し、“戻そうとして”逆に痕跡を増やした」
城戸が声を荒げる。
『待って、私は……!』
「あなたは殺していない。だが“触った”」
「神崎さんは社内を走り回り、早乙女さんは資料を捨て、小宮山さんはスマホとUSBを整理した」
「つまりこの事件、実行犯以外の全員が“証拠を汚している”」
山岸が電話越しに言う。
「じゃあ、最初に手を出したのは誰だ?」
田所は、資料の一番端に置いた一枚を見る。
甲斐恒一の調書。
「唯一、“何もしていない人間”です」
スピーカーの向こうが、静かになる。
「全員、何かした記録が残っている。だが甲斐さんだけ、“完全に静止している”」
「これは潔白ではない。“完璧すぎる不在”です」
甲斐の声。
『……証拠は?』
「証拠なら、最初からありました」
田所は、あの写真を手に取る。
「傘立ての写真。青い長傘が一本だけ乾いていた」
「雨の日に外出したと言った人間の傘が、乾いている」
「つまり、外に出たという証言は嘘」
甲斐は黙った。
「非常階段の靴跡。安全靴の跡。社内設備用の靴です」
「ログは消せる。映像も消せる。だが“物の状態”は消せない」
「あなたは、ログを消し、非常階段を使い、会議室に入り、社長と最初に接触した」
「そして社長は、机に頭を打って死亡した」
山岸が低く言う。
「……否定するか?」
甲斐の声は、初めて少しだけ震えた。
『……動機は?俺が殺す理由は何だ』
田所は即答した。
「あなたは、全員の不正を知っていた」
「副社長の横領。経理の粉飾。秘書の関係。人事の精神状態」
「そして社長は、それを“あなた経由で”握っていた」
「あなたは、全員の地獄を毎日見ていた」
「だから、この会社を終わらせた」
『……』
「社長が死ねば、全員の不正は表に出ない。結果的に、全員が救われる」
「あなたは誰のためでもなく、“全部を終わらせるため”に殺した」
甲斐はしばらく沈黙した。
やがて、低い声で言った。
『……あんた、一度も現場に来てないだろ』
「はい」
『……なのに、全部、見てるな』
「いいえ」
田所は静かに言った。
「見てない。“読んでいる”だけです」
「人間の嘘と、物の状態を」
「現場に行かなくても、事件は資料の中に全部ある」
山岸が言う。
「……認めるか?」
甲斐は、しばらく黙ってから言った。
『……ログを消したのは俺だ』
『非常階段を使ったのも俺だ』
『……社長に、“全部終わらせたい”って言ったのも、俺だ』
スピーカーの向こうで、誰かが息を呑む音がした。
田所は椅子に深くもたれたまま、言った。
「あなたは、誰よりも動いていた」
「だが同時に、誰よりも“動かなかった”」
「だから、誰にも見えなかった」
電話の向こうで、甲斐が小さく笑った。
『……探偵って、歩かなくてもいいんだな』
「歩かない方が、よく見えることもあります」
田所は、机の資料をそっと閉じた。
彼は一歩も立たず、一度も現場に行かず、誰も追いかけず、ただ椅子に座ったまま、事件を終わらせた。
新宿の雑踏は、今日も変わらず騒がしい。
だがこの部屋の中では、すべての真実が、最初から最後まで、一度も外に出ることなく、静かに解かれていた。



