雨はもう止んでいたが、新宿の歩道にはまだ水たまりが残っていた。
田所は、事務所の窓からぼんやりと外を眺めていた。
ネオンが濡れた路面に歪んで映り、まるで街そのものが、何かを誤魔化しているように見える。
「……最初から、そこにあったんだよな」
ぽつりと呟く。
夏野が振り向いた。
「何がですか?」
「一番最初に見た写真。会議室の入口にあった“傘立て”」
山岸が言う。
「また傘か。そんなもん、事件と関係あるのか?」
「関係しかない」
田所は、例の写真を机に広げた。
会議室のドア横。
金属製の傘立てに、五本の傘。
そのうち四本は、濡れている。
一本だけ、青い長傘が――乾いていた。
「事件当日は雨だった。十九時台に外出した人間の傘は、必ず濡れる」
「……つまり」
夏野が小さく言う。
「その青い傘の持ち主は、“外に出ていない”」
「だが、その人物は“外に出た”と証言している」
山岸が眉をひそめる。
「誰だ?」
田所は資料をめくる。
「甲斐恒一。事件当日、『十九時ごろ、サーバールームの点検で一度外に出た』と証言している」
「サーバールームはビル内だろ?」
「そう。だが甲斐は、“外気に当たって頭を冷やした”とも言ってる」
夏野が言う。
「……でも、傘は乾いている」
「つまり、外に出たという証言が嘘」
山岸が電話越しに唸る。
「それだけで、殺人の証拠になるか?」
「ならない。だが“時間の証拠”にはなる」
田所は続ける。
「甲斐は“外に出た時間”を作ることで、“その時間、会議室にいなかった”というアリバイを作っている」
「でも実際には、外に出ていない。つまり――」
夏野が言葉を継ぐ。
「その時間、“どこにいたのか分からない”」
「そう。“傘の乾き”は、甲斐のアリバイを消す唯一の物証だ」
山岸が言った。
「だが、傘が乾いていた理由なんて、いくらでも言い訳できるだろ」
「できない。なぜなら、この傘――」
田所は別の写真を出す。傘の柄の部分のアップ。
「新品だ。持ち手に、ほとんど摩耗がない」
夏野が目を見開く。
「……つまり、普段使っていない傘?」
「そう。
“外出用の傘”じゃない。“室内に置きっぱなしの傘”だ」
山岸が静かに言う。
「甲斐は、外に出たふりをして、実際には出ていない」
「そしてその時間、“誰にも記録されずに動けた”」
田所は、ホワイトボードに大きく書いた。
傘 = 偽アリバイの物証
「この事件、ログは全部消せる。映像も消せる。だが“物の状態”は消せない」
夏野が言った。
「……人は嘘をつけても、物は嘘をつかない」
「そう。この傘だけは、事件の最初から、ずっと真実を言っていた」
山岸はしばらく黙ってから言った。
「……他にも、似たような“物の証拠”があるか?」
田所は頷いた。
「紙コップの位置。机の傷。非常階段の靴跡。全部、“人の記憶”じゃなく、“物の状態”だけを追えば、同じ人物に収束する」
「甲斐か」
「ほぼ、間違いない」
夏野が静かに言った。
「じゃあ、次は――」
「甲斐に、“この傘の話”をする」
山岸が低く笑った。
「……ついにだな」
田所は窓の外を見た。雨はもう降っていない。
だが事件の中では、まだ一人だけ、傘を差したまま立っている人間がいる。
「人は、自分がついた嘘を忘れる」
田所は言った。
「だが、自分が使わなかった傘のことは、絶対に忘れる」
それはもう、言い逃れのできない種類の証拠だった。
真実は、青い長傘の先端から、静かに滴り落ち始めていた。
田所は、事務所の窓からぼんやりと外を眺めていた。
ネオンが濡れた路面に歪んで映り、まるで街そのものが、何かを誤魔化しているように見える。
「……最初から、そこにあったんだよな」
ぽつりと呟く。
夏野が振り向いた。
「何がですか?」
「一番最初に見た写真。会議室の入口にあった“傘立て”」
山岸が言う。
「また傘か。そんなもん、事件と関係あるのか?」
「関係しかない」
田所は、例の写真を机に広げた。
会議室のドア横。
金属製の傘立てに、五本の傘。
そのうち四本は、濡れている。
一本だけ、青い長傘が――乾いていた。
「事件当日は雨だった。十九時台に外出した人間の傘は、必ず濡れる」
「……つまり」
夏野が小さく言う。
「その青い傘の持ち主は、“外に出ていない”」
「だが、その人物は“外に出た”と証言している」
山岸が眉をひそめる。
「誰だ?」
田所は資料をめくる。
「甲斐恒一。事件当日、『十九時ごろ、サーバールームの点検で一度外に出た』と証言している」
「サーバールームはビル内だろ?」
「そう。だが甲斐は、“外気に当たって頭を冷やした”とも言ってる」
夏野が言う。
「……でも、傘は乾いている」
「つまり、外に出たという証言が嘘」
山岸が電話越しに唸る。
「それだけで、殺人の証拠になるか?」
「ならない。だが“時間の証拠”にはなる」
田所は続ける。
「甲斐は“外に出た時間”を作ることで、“その時間、会議室にいなかった”というアリバイを作っている」
「でも実際には、外に出ていない。つまり――」
夏野が言葉を継ぐ。
「その時間、“どこにいたのか分からない”」
「そう。“傘の乾き”は、甲斐のアリバイを消す唯一の物証だ」
山岸が言った。
「だが、傘が乾いていた理由なんて、いくらでも言い訳できるだろ」
「できない。なぜなら、この傘――」
田所は別の写真を出す。傘の柄の部分のアップ。
「新品だ。持ち手に、ほとんど摩耗がない」
夏野が目を見開く。
「……つまり、普段使っていない傘?」
「そう。
“外出用の傘”じゃない。“室内に置きっぱなしの傘”だ」
山岸が静かに言う。
「甲斐は、外に出たふりをして、実際には出ていない」
「そしてその時間、“誰にも記録されずに動けた”」
田所は、ホワイトボードに大きく書いた。
傘 = 偽アリバイの物証
「この事件、ログは全部消せる。映像も消せる。だが“物の状態”は消せない」
夏野が言った。
「……人は嘘をつけても、物は嘘をつかない」
「そう。この傘だけは、事件の最初から、ずっと真実を言っていた」
山岸はしばらく黙ってから言った。
「……他にも、似たような“物の証拠”があるか?」
田所は頷いた。
「紙コップの位置。机の傷。非常階段の靴跡。全部、“人の記憶”じゃなく、“物の状態”だけを追えば、同じ人物に収束する」
「甲斐か」
「ほぼ、間違いない」
夏野が静かに言った。
「じゃあ、次は――」
「甲斐に、“この傘の話”をする」
山岸が低く笑った。
「……ついにだな」
田所は窓の外を見た。雨はもう降っていない。
だが事件の中では、まだ一人だけ、傘を差したまま立っている人間がいる。
「人は、自分がついた嘘を忘れる」
田所は言った。
「だが、自分が使わなかった傘のことは、絶対に忘れる」
それはもう、言い逃れのできない種類の証拠だった。
真実は、青い長傘の先端から、静かに滴り落ち始めていた。



