深夜の田所探偵事務所。
新宿の街はまだ騒がしいが、この部屋だけは、時間が止まったように静かだった。
田所は机に広げた資料を、何度目か分からないくらい見返していた。
夏野はソファに腰掛け、黙ってそれを見守っている。
「……何か、引っかかってるんですよね」
夏野が静かに言った。
「副社長説が崩れて、甲斐さんが浮かび上がった。でも、まだ“決定打”がない」
「そう。今あるのは全部“状況証拠”だ」
田所は清掃員の動線図を指差す。
「十九時十五分。机は元の位置。十九時三十五分。机はズレている」
「この二十分間に、社長は倒れ、誰かが机を動かし、さらに別の誰かが戻そうとしている」
夏野が言う。
「三人が関与している構図は、ほぼ確定ですね」
「問題は、“最初に社長が倒れた瞬間”に誰がいたかだ」
山岸から電話が入った。
「田所、会議室の入退室ログ、もう一度洗い直した」
「何か出たか?」
「不思議なことに、“誰も入っていない”ことになってる」
「……またか」
田所は苦笑した。
「つまり、記録に残らない入り方をした人間がいる」
「物理的には、非常階段から入るしかない」
「非常階段のカメラは?」
「古くて、そもそも設置されていない」
夏野が言う。
「非常階段を使える人って、限られてますよね」
「そう。社員でも、日常的に使うのは一部だけだ」
田所は言った。
「サーバールームの管理者は、停電時に非常階段を使う訓練をしている」
「……甲斐さん」
「そう。非常階段を“自然に使える人間”だ」
山岸が言った。
「だが、非常階段を使った証拠はない」
「証拠がないこと自体が、この事件の特徴だ」
田所はホワイトボードに、時系列を書き始めた。
19:10
副社長と経理部長が口論。
19:15
清掃員、会議室前を通過。異常なし。
19:20〜19:30
神崎が社内を走り回る。
早乙女は喫煙所。
秘書はデスク。
19:35
清掃員、再通過。机がズレている。
「この間、誰が“完全に空白”だ?」
夏野が即答する。
「甲斐さんです」
「そう。“何も記録されていない人間”は、“どこにでも行ける”」
山岸が言う。
「だが、動機が弱い」
田所は甲斐の人事評価表を見つめる。
「評価は平凡。昇進もない。リストラ対象でもない。表向きは、社長とトラブルもない」
「……殺す理由がない」
「いや、“理由が見えない”だけだ」
田所は別の資料を取り出す。
社内システムのログ一覧。
「甲斐はな、全社員のアクセス履歴を見られる立場だ」
「つまり、誰がどんな不正をしているか、全部知っている」
夏野が言う。
「副社長の横領、経理部長の粉飾、秘書の不倫、人事の精神状態……」
「そう。この事件で出てきた“黒い情報”、全部、最初に把握していたのは甲斐だ」
山岸が言った。
「……じゃあ、社長も何か知ってた?」
「知ってた。そして、それを“利用していた”可能性が高い」
田所は静かに言う。
「社長は、全員の弱みを握って、会社をコントロールしていた」
「その情報源が、システム管理だった」
夏野が息を呑む。
「……甲斐さん、社長の“道具”だった?」
「そうだ。だが、一番“全部を知っている”人間は、いずれ耐えきれなくなる」
山岸が低く言う。
「それが動機……?」
「まだ“仮説”だ。だが、この事件の一番の特徴は――」
田所はホワイトボードを指差す。
「社長の死で、全員の不正が“結果的に消えている”」
「副社長の横領、経理の粉飾、秘書の不倫、人事の問題……全部、社長の死と同時に表沙汰にならなくなった」
夏野が言う。
「……まるで、“全員を救った”みたい」
「そう。社長の死は、結果的に“全員の罪をリセットした”」
山岸が目を細める。
「そんな都合のいい殺人、あるか?」
「ある。“全員の地獄を見続けてきた人間”ならな」
部屋の空気が、
少しだけ重くなった。
夏野が小さく言う。
「甲斐さん、誰のためでもなく、“全部を終わらせた”……?」
田所は答えなかった。
だがその沈黙は、もう“疑い”ではなく、ほとんど“確信”に近いものだった。
「残っているのは、たった一つだ」
田所は言った。
「“甲斐が、その時間に、確実にそこにいた”という、動かない証拠」
「それさえ見つかれば、この事件は終わる」
窓の外、新宿のネオンが、静かに瞬いていた。
真実はもう、すぐそこまで来ていた。
新宿の街はまだ騒がしいが、この部屋だけは、時間が止まったように静かだった。
田所は机に広げた資料を、何度目か分からないくらい見返していた。
夏野はソファに腰掛け、黙ってそれを見守っている。
「……何か、引っかかってるんですよね」
夏野が静かに言った。
「副社長説が崩れて、甲斐さんが浮かび上がった。でも、まだ“決定打”がない」
「そう。今あるのは全部“状況証拠”だ」
田所は清掃員の動線図を指差す。
「十九時十五分。机は元の位置。十九時三十五分。机はズレている」
「この二十分間に、社長は倒れ、誰かが机を動かし、さらに別の誰かが戻そうとしている」
夏野が言う。
「三人が関与している構図は、ほぼ確定ですね」
「問題は、“最初に社長が倒れた瞬間”に誰がいたかだ」
山岸から電話が入った。
「田所、会議室の入退室ログ、もう一度洗い直した」
「何か出たか?」
「不思議なことに、“誰も入っていない”ことになってる」
「……またか」
田所は苦笑した。
「つまり、記録に残らない入り方をした人間がいる」
「物理的には、非常階段から入るしかない」
「非常階段のカメラは?」
「古くて、そもそも設置されていない」
夏野が言う。
「非常階段を使える人って、限られてますよね」
「そう。社員でも、日常的に使うのは一部だけだ」
田所は言った。
「サーバールームの管理者は、停電時に非常階段を使う訓練をしている」
「……甲斐さん」
「そう。非常階段を“自然に使える人間”だ」
山岸が言った。
「だが、非常階段を使った証拠はない」
「証拠がないこと自体が、この事件の特徴だ」
田所はホワイトボードに、時系列を書き始めた。
19:10
副社長と経理部長が口論。
19:15
清掃員、会議室前を通過。異常なし。
19:20〜19:30
神崎が社内を走り回る。
早乙女は喫煙所。
秘書はデスク。
19:35
清掃員、再通過。机がズレている。
「この間、誰が“完全に空白”だ?」
夏野が即答する。
「甲斐さんです」
「そう。“何も記録されていない人間”は、“どこにでも行ける”」
山岸が言う。
「だが、動機が弱い」
田所は甲斐の人事評価表を見つめる。
「評価は平凡。昇進もない。リストラ対象でもない。表向きは、社長とトラブルもない」
「……殺す理由がない」
「いや、“理由が見えない”だけだ」
田所は別の資料を取り出す。
社内システムのログ一覧。
「甲斐はな、全社員のアクセス履歴を見られる立場だ」
「つまり、誰がどんな不正をしているか、全部知っている」
夏野が言う。
「副社長の横領、経理部長の粉飾、秘書の不倫、人事の精神状態……」
「そう。この事件で出てきた“黒い情報”、全部、最初に把握していたのは甲斐だ」
山岸が言った。
「……じゃあ、社長も何か知ってた?」
「知ってた。そして、それを“利用していた”可能性が高い」
田所は静かに言う。
「社長は、全員の弱みを握って、会社をコントロールしていた」
「その情報源が、システム管理だった」
夏野が息を呑む。
「……甲斐さん、社長の“道具”だった?」
「そうだ。だが、一番“全部を知っている”人間は、いずれ耐えきれなくなる」
山岸が低く言う。
「それが動機……?」
「まだ“仮説”だ。だが、この事件の一番の特徴は――」
田所はホワイトボードを指差す。
「社長の死で、全員の不正が“結果的に消えている”」
「副社長の横領、経理の粉飾、秘書の不倫、人事の問題……全部、社長の死と同時に表沙汰にならなくなった」
夏野が言う。
「……まるで、“全員を救った”みたい」
「そう。社長の死は、結果的に“全員の罪をリセットした”」
山岸が目を細める。
「そんな都合のいい殺人、あるか?」
「ある。“全員の地獄を見続けてきた人間”ならな」
部屋の空気が、
少しだけ重くなった。
夏野が小さく言う。
「甲斐さん、誰のためでもなく、“全部を終わらせた”……?」
田所は答えなかった。
だがその沈黙は、もう“疑い”ではなく、ほとんど“確信”に近いものだった。
「残っているのは、たった一つだ」
田所は言った。
「“甲斐が、その時間に、確実にそこにいた”という、動かない証拠」
「それさえ見つかれば、この事件は終わる」
窓の外、新宿のネオンが、静かに瞬いていた。
真実はもう、すぐそこまで来ていた。



