呼吸と、青と。

2.
 
 教室では、模試の結果用紙を配られていた。出席番号順に呼ばれ、結果を渡される。
 香織もノロノロと立ち上がり、特別嬉しくもない差し出しものを受け取った。
 いい加減、デジタルデータとして見られるようにならないのかな。どうも、学校では紙への信頼が厚い。パソコンで書いた長文を、紙に手書きするとかいう謎のイベントを何回か経験した。
 広げた紙に記載されている数字とアルファベットが、そのまま自分の価値を表現しているようで、少しだけ気味が悪い。高校二年生の秋、理想はまだ理想のまま。
 窓から見える灰色の空が、どこか未来を暗示しているようだった。
 もっと頑張らなきゃ、もっと、もっとって、大人になってもずっとやり続けるのだろうか。もし、そうなのだとしたら、正直、生きていたくない。今日生きるので精一杯なのに。
 香織は、紙を筒状に丸めて、机の中に入れた。そして、ざわつく教室内を見回す。
 思わず目が留まる光景があった。机に置いた紙を見つめたまま、一切動かない人がいた。
 教室中央、そこだけ世界が違うみたいに、触れるもの全てを切り裂くような空気を醸していた。
 目が微動だにしない横顔に触れる。スラッとしていて、綺麗な顔の輪郭。
 砂川涼。気さくで、賢くて、私にないもの全てを持ち合わせているクラスメート。
 涼の顔はピクリとも動かない。どうしたんだろう。結果が悪かったのかな。いや、涼ってこの教室の誰よりも偏差値高かったはず。どうせ、少しミスがあっただけで怒ってるに違いない。
 香織は気になって涼の横顔に目を凝らした。すると、気配が伝わってしまったのか、涼が突然振り返った。そして、目が合ってしまう。
 目を逸らしたかったのが、どうしてもできなかった。涼の目は冷たく刺すようで、吸い込まれるような黒さがあった。中途半端な色を許さない、圧倒的な黒。曖昧な灰色など、絶対に許されない。他の色が交じることのない、絶対の黒。
 なにか言わなきゃいけない気がした。思いつくのはなぜか謝罪の言葉ばかりだ。
 でも、なにも言えなかった。言えないまま、涼は正面に向き直り、結果用紙をクリアファイルにしまった。一連の所作があまりに静謐で、洗練とされていて、不自然なくらい綺麗だった。
 復習が大事だという、もはやことわざレベルで聞いた文句を繰り返され、返却の時間が終わる。わずか数メートルの視線の交差が、とんでもなく痛かった。痛くてたまらなかった。
 
 昼休みになり、香織は弁当箱を持っていつもの体育館裏に移動する。
 部室棟を横切ろうとしたところ、気になる人影があった。
 涼が、模試の結果用紙を手に持って、部室棟二階の小部屋に入っていくところだった。
 黒い視線を思い出す。ぼんやりと、形のない恐怖があったけれど、理由の分からない好奇心みたいなものが同居していた。香織は、弁当箱を手に持ったまま涼の姿が消えた扉の前に立った。
 思い切って、ノックもせずに中に入ると、驚いた顔の涼が古びた椅子に座っていた。模試の結果用紙が、椅子の前の机に置かれていた。
「なにしてるの」
 香織が尋ねると、涼は未だ状況が飲み込めない様子でぼやけた笑いを返した。
「香織じゃないか。どうしてここに」
「私は、ちょっとお昼ごはんを」
「こっち、体育館しかないけど……」
 かさぶたに触れられたような、くすぐったい感覚がして、香織は慌てて振り払う。
「ちょっと、用事がね。涼こそなにしてるの」
「俺もお昼ごはんだよ」
「お弁当は?」
「今、目の前にあるよ」
 涼は、模試の結果用紙を指さした。
「この紙、食べようと思って」
 これ、食べ物だよ、当たり前だけど。今にも声が聞こえてくるような自然さだった。
 香織は戸惑いそのままに、疑問をぶつけることしかできない。
「模試の結果用紙だよね」
「そうだよ。紛れもなく。正真正銘の紙だよ」
「これを食べるの?」
「そう。食べやすい大きさにして」
「インクとか、平気なのかな」
 言い方が変だったのか、涼は柔和に微笑んだ。
「分かんない。多分大丈夫なんじゃない。生肉よりは安全でしょ。寒くなってきたし」
 絶対に季節とか関係ないはずなのに、なにも言えない。お互い冗談だって分かってる。だから、正しいことを言うのに意味はない気がした。
 香織が黙っていると、涼が自嘲気味に笑った。そして、椅子に座ったまま気持ちよさそうに伸びをする。
「受験ってさ、よくできたシステムだよな。頑張れば報われるって論理を成立させるために、数字を駆使して感情を麻痺させる。本当は、人間を比較することなんかできないにも関わらず」
「数字ね……」
 香織は意味を咀嚼する前に、間の抜けた返事をしていた。涼はフッ、と嘲り笑った。一瞬の人間らしい笑顔が、どうしようもなく魅力的だった。
「もう、全部捨てるんだ。数字と肩書に心酔している親も、勝手に期待を寄せてくる先生も、人間的価値を否定している自分も、抹消するべきだ。目の前に未来をぶら下げられて、ずっと走り続ける毎日に飽きたんだ。もう、食べておしまい。以上」
 早口でまくしたてた涼は、ズボンのポケットから携帯用のハサミを取り出した。チャキチャキ、と音を立て、数字の書かれた紙を切っていく。
 香織は机にひらひらと舞う紙の破片を突っ立って見つめていた。バラバラになっていく姿は、まるで自分そのものだった。意味も理由も救ってくれなかった世界で、ただ壊れていくだけの毎日。まとまりのない心を抱えながら、今日も生きている。
 ねぇ、いなくならないはずのあなたは一体、どこに行ったんですか。
 香織は椅子を手繰り寄せ、机を挟んで涼の向かいに座った。
「私にも食べさせて」