『イディオット・ブルー』
1.
「上手に泳げる人の気持ちって、考えたことある?」
佐山香織《さやまかおり》は、部屋に入るなり尋ねていた。
視線の先で、回答者である砂川涼《すながわりょう》は眠そうな目を擦っていた。窓際の壁に背中を預けて立っている。艶のある髪が、小窓から吹き込む柔らかい風になびいていた。
香織はスカートの裾を払い、古びた椅子に腰掛けた。
「なに、急に。まるでカバの質問内容じゃん」
涼の澄んだ声。ドロドロに汚れていた胸の内側が綺麗になる。
「カバの質問内容ってどういうこと?」
「カバって泳げないんだよ。水辺にいるイメージあると思うけど、実は浅い川の水底を歩いてるんだってさ。質量的に、水だと沈んじゃうんだ」
「カバってさ、泳げるなら泳ぎたいって夢見るのかな」
「どうだろう。生存に適応的な機能だけを残した結果、泳げなくなってるんだろうから、別に泳げなくても構わないんじゃないかな。ナマケモノが怠けることで生き延びているようにさ。ま、憧れは多少あるかもしれないけど」
悠々と喋る涼の口ぶりに、香織は笑う。
「涼って、点数にならない知識を潤沢に持ってるよね」
「無駄の寄せ集めを贅沢と呼ぶのさ。人間には贅沢の自由が与えられている」
贅沢、か。香織は部屋の中を見回した。
学校の中で、唯一息ができる場所、時代に取り残された元喫煙室。住所は、体育館横、部室棟正面二階の一番右手。
部屋の中央に、銀色の灰皿が置かれた学習机一つ。その横に、これまた古い椅子が二つあるだけの寂しい小部屋だ。
昔、どうも先生たちが喫煙に使っていたらしい。噂で聞いたことがある。
今は部活用備品倉庫となっているけれど、備品は見当たらず、部屋は謎に綺麗だ。
前にこれでもかってぐらい、真っ赤な口紅が部屋の隅に転がっていた。誰のものか探ろうとしたけれど、持ち主に関するヒントは一切見当たらなかった。本当に、謎の多い部屋だ。
香織は、窓際で風を浴びている涼に向き直った。
「ところで、水中歩いてるってすごい話だね。歩けたら楽しいだろうな」
「底の存在を確認できると、怖くなさそうだよね」
「カバがさ、間違えて深い海に辿り着いちゃったら、深いところまで沈んでいくのかな」
涼は笑いながら、机を挟んで香織の向かいに座った。
「妄想が怖い。衝撃映像だ」
「いや、素朴な疑問としてさ。ちょっと気になっただけ」
「ご存知の通り、重さで沈むだろうけど、まずもって、海に行く理由がなさそう。生存に直結しないことは、する必要がないんだろうから」
「いいな。単純に生きられるのって最高じゃん」
「あくまで、人間の視点から動物を眺めているだけであって、カバにはカバなりの辛さもあるのかもしれないけどね。俺らは知らないことの方が多いわけだし。宇宙人だって、死にたくなる日はあるのかもしれない」
香織は深く頷いた。心の底から納得できる。涼と話していると、常識とか、当たり前にきつく縛られて、今にも叫んでしまいそうな心が解けていく。もっと、溶かして欲しい。もっと、柔らかくして欲しい。もっと、優しく包んで欲しい。
香織は机の上に肘をついた。
「宇宙人か。面白いね。ね、涼、私たちって宇宙人だと思う?」
「これまた突拍子もない疑問だな。地球規模で考えたら宇宙人なんじゃない。地球も、宇宙の惑星じゃん。地球に住んでいる惑星人なわけだから、人間も分類としては宇宙人だ」
「じゃあ、この世界は宇宙人同士が生活している世界ってことだね」
涼が切れ長の目をより一層細めて笑った。
「おいおい、どうしちゃったんだよ。香織、壺とか買った?」
「買ってないよ。宇宙人同士の割には、みんな普通に生きてるなって。都合のいい言葉交わして、仲間だよねって確認しながらよく生きてるよ。本当は、分かりあえないって薄々気づいているのに。海に来ようとしないカバばっかりだよ」
「ずいぶん新手の悪口だな。カバに失礼」
「だって、本当にカバばっかりじゃん。浅瀬でピチャピチャ遊んでるカバばっかり。ちょっとくらい履き違えてこっちに来いって言いたくなる。馬鹿ばっかりだよ」
「香織、さては、言葉遊びしたかっただけでしょ」
香織は涼の半分呆れたような顔に頷いた。涼ならきっと、頷いただけでなにが言いたいのか、きっと分かってくれる。そう、私たちは宇宙人。
涼は、ため息と一緒に香織を見た。そして、一拍置いて、口を開いた。
「地球の食事は舌に合いそうかい?」
「いや、多分無理。昨日も無理だった」
「宇宙食の用意あるけど、今日はどうする?」
「もちろん食べるでしょ。不必要な食事こそ、人間の贅沢なんだから」
香織は、スクールバックから筆箱を取り出した。傍らでは、涼が白紙のルーズリーフを一枚、机の上に置いた。
やっと、食べられる。



