呼吸と、青と。

 3.
 
「心の底から普通になりたいよ」
 悠人は、秋風薫る記憶の渦を絶ち、ポツリと呟いた。
 椅子を移動させ、真叶の横に座る。
「普通って面白いのかな。私にはよく分からないけど」
「少なくとも、学校に来て三秒で怒鳴り散らされることはなくなる」
「やっぱり、怒られたこと、気にしてるじゃん」
「単純に感心するんだ。相手のことを本気で怒れることに。壊れた人間を変えようとしてる。俺って、正常な人間に見えるのかな。生まれた瞬間に壊れた人間なのにさ。よく努力を語れるよ」
「先生たちって努力好きだよね」
「綺麗な人間を綺麗だと言うのは簡単だけど、醜い人間を醜いと宣言するのは難しいからね。人は、そばにいる血だらけの人間より、遠くの綺麗な夢を見る。将来の目標とか、追いかけてたまるかよ。生き延びるので精一杯なのに」
 悠人は、頭の後ろで手を組んだ。そのまま後ろに倒れて、いつまでも夢の中で眠っていたい願望が疼く。
「氷見、荒れてきたね」
「元からですけど。なにか問題でも?」
「ううん。やっぱり、氷見の世界は美しい」
「どこがだよ」
「図と地が反転してるところ」
「生きてるのに、死ぬことばっかり考えてる奴はそう多くないだろうね。生きながら死んでるようなものだ。どうせ、贅沢な話だって怒られるんだろうけど。お願いだから、綺麗な場所から話しかけないで欲しい」
「わかる。地上から話しかけないで欲しいよね」
「もう、人生に期待するのはやめたんだ。不平等も理不尽も、今に始まった話じゃないし」
「どうやって生きていこうね」
「呼吸しなければいい」
 悠人は続ける。
「人間の呼吸はもう諦めよう。酸素を吸って吐くなんて、俺たちには到底無理だから」
 沈黙が流れる。体育館から楽しげな歓声が聞こえた。どうも、勝敗が決したらしい。
 ふと、隣の真叶に目をやると、真叶もこちらを見ていた。目が合う。悠人は真叶の瞳に告げた。
「ありがとう」
 真叶は、なにも言わなかった。その代わり、とびっきりの笑顔を浮かべ、何度か頷いた。いつのまにか、真叶の手には口紅が握られている。
「忘れずに持ってきたよ。はい、氷見、腕出して。くすぐったいかも」
 言われるがまま、悠人は左腕を真叶の方へ差し出した。
 ドロっとした感触、肌の上に真っ赤な色が塗られる。いくつもの線の上、光沢のある綺麗な真紅が重なった。誰にも見えない傷を、世界に示すための赤。
 真叶は肘から手首にかけて、無造作に口紅を塗った。まるで、子どもがクレヨンで自由に絵を描くように。
「よし、これでおっけ」
 真叶は満足そうに言った。今度は悠人の番だ。真叶の手から口紅を受け取る。
 真叶は裸足になって、学習机の上に右足を乗せた。
「なんか、私だけいつも恥ずかしいんだけど。足、臭かったら嫌だし」
「この期に及んで匂いなんか気にしない。もう、正常か異常かなんてどうだっていい。ここは深海だから、道徳が通用する世界じゃないよ」
「そうだね。ごめん」
 悠人は、真叶のくるぶしに口紅を当てた。口紅の先、グチャっと触れた感覚が指を伝って脳に届く。ゆっくりと、ゆっくりと、黒を塗りつぶすように、円状に赤を広げる。
 ちゃんと見えているよ、ちゃんと知っているよ、って傷を上書きする。苦しいよね、辛かったよね、一人じゃないよ、って手に力を込める。
 少しして、くるぶし全体が赤く染まった。黒い色は、もう見えない。
「できた」
 口紅を学習机に置き、真叶の方に向き直ったと同時に、左の手首に体温を感じた。まだどこかむず痒い赤色の上に、真叶の唇が重なった。
 ぷっくりとした熱は、包み込むようなやわらかさがあって、身をほだしてくれる。
 冷たく、毎日刺すような世界の中で、この温もりだけが、ずっとあたたかい。寒い夜、毛布が心まであたためてくれているような、そんな感覚。
 描いた線は、過酷な現実を耐え抜くための傷。少しくらい、腕が赤くたって、誰も傷つかない。なのに、大人は言う、やめろ、と。一方的に正しさを主張して、唯一の居場所を粉々にする。
 いつからだろう。人に期待するのをやめてしまったのは。小さい頃の記憶はほとんどない。奈落の底に沈んでいくような恐怖を、生まれてからずっと味わっている。
 手首の熱が冷めないうちに、真叶は唇を離した。
 真叶の頬は朱に染まっている。唇周りがどうしようもなく赤い。悠人はすぐさま真叶の赤いくるぶしに、口づけを返す。そして、唇に神経を集中させた。
 冷たい骨の感触が伝わってくる。真叶の抱えている痛みがそこにはあった。 希望を切り裂くような圧倒的な孤独と、生きていることへの強烈な罪悪感。真叶にとって、生きることはどれだけ苦しい行いなのだろうか。
 一体どうしたら、不平等で、理不尽で、救いのない世界を壊せるだろう。叫びたくて仕方がなかった。なにより、自分の無力さを徹底的に糾弾したかった。
 悠人は顔を上げ、ぐちゃぐちゃになっているであろう唇を、真叶の唇に寄せた。混沌とした熱をお互いに押し付け合う。
 感情の一切を出し切って、悠人は唇を離す。
 真叶の目には、涙が溜まっていた。悠人にも、込み上げてくるものがあった。
「大丈夫、氷見は大丈夫だから」
 真叶が涙混じりの声で言った。
 悠人は言葉を返せなかった。ただ、ボロボロと涙がこぼれるだけだった。
 もうじき、昼休みが終わる。
 
 ディープ・ブルー 完