2.
真叶と元喫煙室で過ごすのが習慣になったのは、部屋に通い始めて二週間ほど経った頃だ。まだ少し暑さの残る秋の入口だった。
ホームルームの時間、担任の先生が会議だかなんだかで、授業が自習になった。生徒同士でふざけ始まるのも気に食わなかったので、文庫本片手に元喫煙室に籠もることにした。栞を外し、本を開いた時、スライド式の扉がゆっくりと開いた。
「失礼するね。私も、ここにいていいかな」
真叶は驚くこちらの様子をよそに、淡々と告げた。
「どうして、ここに?」
悠人は自然に尋ねていた。真叶は控え目な笑顔で答える。
「尾けてきたんだ。氷見、フッとバレないように教室から出ていったから。どこに行くのかなと思って。足取りも軽やかだったし。ちょっと興味あったから。それ、面白い?」
真叶は本を指していた。悠人は裏表紙を見つめる。
「面白くはないけど、面白くないわけでもない」
「どういうこと?」
「心が動くような体験ではないってこと」
「じゃあ、なんで読んでるの?」
「なんでだろう。中身は半分どうでもいいんだ。読書という行為によって、自分が人間であることを確かめているのかもしれない。言語を使って、想像力が正常に働いていることを確認してるんだ」
悠人は、他のクラスメートと同じように、奇異な目を向けられるに違いないと予想していたが、実際の反応は違った。真叶は柔和に笑った。
「面白い考え方だね。私も、自分のことが正常だって思えない」
上手な返事が浮かばず、悠人は代わりに椅子を用意した。
「ありがとう。素敵な隠れ場所だね。氷見って、よく教室から姿消すなと思ってたら、秘密基地持ってたんだね。ちょっとだけ煙草の匂いするけど、煙草でも吸ってたの?」
悠人は慌てて頭を振った。
「いやいや、吸ってない。この部屋、元々喫煙室として使われてたみたい。今は備品倉庫って扱いだけど。昔、大人達が使ってたみたいだよ」
「だからか。煙草の匂い自体は嫌いじゃないから、問題ないけど」
「教室戻らなくていいの。代わりに来る先生に怒られるかもよ」
「大丈夫、私のことも、誰も気にしてないから。私の存在は透明な空気に等しいから」
悠人にとって、真叶の言葉は少々意外だった。
真叶に対しては、普通のクラスメートだという感想しか持っていなかった。どこにでもいそうな普通の高校生だと捉えていた。目立つこともないが、隠れることもない。特別、コミュニケーションに苦労しているわけでも、勉強で遅れをとっているわけでもないように見えた。適度に輪に入り、適度に一人でいる。
だから、正直、学校生活を充分に満喫している普通の高校二年生という印象しか持っていなかった。
「いつもの様子を見るに、空気には見えないけど。孤立している様子もないし」
真叶は悠人の言葉を咀嚼して、数秒虚空を見つめてから口を開いた。
「空気って、人間の目は見えないけど、当たり前にそこにあるもの。私も一緒なの。ただ、理由も意味もなく、そこにあるだけの空気みたいな人間。人間みたいに生きているだけ」
「友達だっているんじゃないの。打ち解けているように見えるけど」
「友達ごっこしてるだけだよ。皆、どうせ陰では悪口言ってるんだから。それに、私は愛してくれる家族がいるわけでもないし。特別に思ってくれる人は誰もいない」
真叶は笑ったまま言い切り、靴を脱ぎ始めた。
スカートの中が見えそうになって、悠人は慌てて目をそむける。
「なにしてるのさ」
「見て、これ」
悠人は言われるがまま目線を戻した。
学習机に、裸の右足が乗せられていた。綺麗で細い白い足だった。が、一つだけ、どうしても黒い部分があった。くるぶしに、黒くて大きいアザがある。
悠人は唾を飲み込んだ。どうしてもくるぶしから目が離せない。
「小さい頃、父親に殴られた跡。笑っちゃうよね」
「笑えないけど」
「笑ってよ」
「やめてくれ。迷惑だ」
「面白いでしょ。この黒さ」
「面白くない。さっさと靴下履きなって」
「いやぁ、成長したら少しは元の肌色に戻るのかなと思ってたら、全然治らないもんね。もう、一生元には戻らないかもしれない」
「痛々しいからやめてくれ。笑い話じゃない」
悠人は強い口調で言った。真叶は自嘲するような笑みを消す。
「急に、ごめん。ちょっと、聞いてほしかったのかも。氷見って、教室でもどこか他の人と違うところあるからさ、もしかしたら、分かってくれるかもって……」
真叶は申し訳なさそうに眉を歪めていた。
心が痛むのと同時に、心の底で固まっていたものが溶け出すような感覚があった。
悠人は直感に従い、左腕だけシャツの袖をまくった。いくつもの線が交わる真っ赤な腕があらわれる。悠人は腕を真叶に見せた。
「お返し」
「綺麗だね」真叶はハッキリと言った。
「爪で引っ掻くと、傷跡は残らずに証拠はすぐに消える。でも、見た目はかなり派手になる。だから、あんまり痛くないし、誰にも怒られない方法なんだ」
腕に刻まれた線は、一日限りの芸術作品。
無言で見つめ合った後、悠人は口を開いた。
「お互い、どう考えてもちゃんと生きてる」
真叶と元喫煙室で過ごすのが習慣になったのは、部屋に通い始めて二週間ほど経った頃だ。まだ少し暑さの残る秋の入口だった。
ホームルームの時間、担任の先生が会議だかなんだかで、授業が自習になった。生徒同士でふざけ始まるのも気に食わなかったので、文庫本片手に元喫煙室に籠もることにした。栞を外し、本を開いた時、スライド式の扉がゆっくりと開いた。
「失礼するね。私も、ここにいていいかな」
真叶は驚くこちらの様子をよそに、淡々と告げた。
「どうして、ここに?」
悠人は自然に尋ねていた。真叶は控え目な笑顔で答える。
「尾けてきたんだ。氷見、フッとバレないように教室から出ていったから。どこに行くのかなと思って。足取りも軽やかだったし。ちょっと興味あったから。それ、面白い?」
真叶は本を指していた。悠人は裏表紙を見つめる。
「面白くはないけど、面白くないわけでもない」
「どういうこと?」
「心が動くような体験ではないってこと」
「じゃあ、なんで読んでるの?」
「なんでだろう。中身は半分どうでもいいんだ。読書という行為によって、自分が人間であることを確かめているのかもしれない。言語を使って、想像力が正常に働いていることを確認してるんだ」
悠人は、他のクラスメートと同じように、奇異な目を向けられるに違いないと予想していたが、実際の反応は違った。真叶は柔和に笑った。
「面白い考え方だね。私も、自分のことが正常だって思えない」
上手な返事が浮かばず、悠人は代わりに椅子を用意した。
「ありがとう。素敵な隠れ場所だね。氷見って、よく教室から姿消すなと思ってたら、秘密基地持ってたんだね。ちょっとだけ煙草の匂いするけど、煙草でも吸ってたの?」
悠人は慌てて頭を振った。
「いやいや、吸ってない。この部屋、元々喫煙室として使われてたみたい。今は備品倉庫って扱いだけど。昔、大人達が使ってたみたいだよ」
「だからか。煙草の匂い自体は嫌いじゃないから、問題ないけど」
「教室戻らなくていいの。代わりに来る先生に怒られるかもよ」
「大丈夫、私のことも、誰も気にしてないから。私の存在は透明な空気に等しいから」
悠人にとって、真叶の言葉は少々意外だった。
真叶に対しては、普通のクラスメートだという感想しか持っていなかった。どこにでもいそうな普通の高校生だと捉えていた。目立つこともないが、隠れることもない。特別、コミュニケーションに苦労しているわけでも、勉強で遅れをとっているわけでもないように見えた。適度に輪に入り、適度に一人でいる。
だから、正直、学校生活を充分に満喫している普通の高校二年生という印象しか持っていなかった。
「いつもの様子を見るに、空気には見えないけど。孤立している様子もないし」
真叶は悠人の言葉を咀嚼して、数秒虚空を見つめてから口を開いた。
「空気って、人間の目は見えないけど、当たり前にそこにあるもの。私も一緒なの。ただ、理由も意味もなく、そこにあるだけの空気みたいな人間。人間みたいに生きているだけ」
「友達だっているんじゃないの。打ち解けているように見えるけど」
「友達ごっこしてるだけだよ。皆、どうせ陰では悪口言ってるんだから。それに、私は愛してくれる家族がいるわけでもないし。特別に思ってくれる人は誰もいない」
真叶は笑ったまま言い切り、靴を脱ぎ始めた。
スカートの中が見えそうになって、悠人は慌てて目をそむける。
「なにしてるのさ」
「見て、これ」
悠人は言われるがまま目線を戻した。
学習机に、裸の右足が乗せられていた。綺麗で細い白い足だった。が、一つだけ、どうしても黒い部分があった。くるぶしに、黒くて大きいアザがある。
悠人は唾を飲み込んだ。どうしてもくるぶしから目が離せない。
「小さい頃、父親に殴られた跡。笑っちゃうよね」
「笑えないけど」
「笑ってよ」
「やめてくれ。迷惑だ」
「面白いでしょ。この黒さ」
「面白くない。さっさと靴下履きなって」
「いやぁ、成長したら少しは元の肌色に戻るのかなと思ってたら、全然治らないもんね。もう、一生元には戻らないかもしれない」
「痛々しいからやめてくれ。笑い話じゃない」
悠人は強い口調で言った。真叶は自嘲するような笑みを消す。
「急に、ごめん。ちょっと、聞いてほしかったのかも。氷見って、教室でもどこか他の人と違うところあるからさ、もしかしたら、分かってくれるかもって……」
真叶は申し訳なさそうに眉を歪めていた。
心が痛むのと同時に、心の底で固まっていたものが溶け出すような感覚があった。
悠人は直感に従い、左腕だけシャツの袖をまくった。いくつもの線が交わる真っ赤な腕があらわれる。悠人は腕を真叶に見せた。
「お返し」
「綺麗だね」真叶はハッキリと言った。
「爪で引っ掻くと、傷跡は残らずに証拠はすぐに消える。でも、見た目はかなり派手になる。だから、あんまり痛くないし、誰にも怒られない方法なんだ」
腕に刻まれた線は、一日限りの芸術作品。
無言で見つめ合った後、悠人は口を開いた。
「お互い、どう考えてもちゃんと生きてる」



