『ディープ・ブルー』
1.
「はい」
いつもの慣例にならって、氷見悠人《ひみゆうと》は、缶コーヒーを差し出した。
「ありがと」
受取人である早川真叶《はやかわまかな》が、受け取った缶のプルタブを引っ張る。
「氷見さ、今日も遅刻してなかった?」
「起きられなくて。ちゃんと、悪いことだとは思ってる。反省もしてる」
「私の耳には、開き直ってるように聞こえるけど。だから、怒られるんじゃないの」
「反省してるって。頭も下げたし」
「大人を満足させるためだって意図しか感じなかったけど」
「どうだろう。物事の解釈は自由だね」
悠人はコーヒーの液体を舌の上で転がした。苦みがじんわりと脳に伝わる。
「怒られてる人を見るのって、朝から気分悪いものだね」
「真叶って意外と優しいよな」
「いや、怒られてるのが氷見だからだよ。教室で怒鳴り散らすの、今すぐやめて欲しい」
「俺は別に構わないんだけど。黙って過失を認めていれば、いつかは終わるし」
真叶はバツが悪そうな顔をして、学習机の上に缶を置いた。
「学級委員の人にもチクッと言われてたよね」
悠人はもう一度、舌の上でコーヒーの液体を転がした。
「遅刻をしてはいけないって、至極正しい話だし、彼が悪いわけじゃない。怠惰認定されることに怒りはない」
「氷見のせいで心がドロドロになるんだよね」
「もっと喜んでもらえるとありがたい。グロテスクな映画観たときの反応じゃないか。まぁ、実際気持ち悪いんだろうけど」
窓越しに、ボールの跳ねる音が聞こえてきた。おそらく体育館のバスケット連中だろう。冬の寒さも気に留めず、元気なことだ。
「煙草吸えたら生きやすくなるのかな」
真叶が学習机の上に置かれている灰皿を見つめながら言った。
今、我々は元喫煙室にいる。体育館横、部室棟二階の一番右手。
部屋の中央に、銀色の灰皿が置かれた学習机一つ、その横に錆びた椅子が二つあるだけの寂れた空間。三畳から四畳くらいだろうか。
昔、どうも先生たちが喫煙に使っていたようだ。以前、高そうなシガレットケースが部屋の隅に落ちていた。今は部活用備品倉庫となっているが、特に備品も見当たらないので、意図不明の謎の空間である。
遅刻したときに、授業の途中で教室に入るのもな、と校舎をうろついていたら、この部屋を見つけた。以降、学校生活から逃げたくなったときには、時間を潰すのに使っている。
悠人は、缶を学習机に置いた。
「どうだろう。お金かかりそうだよね。ストレス解消のためにストレス溜める結末を迎えそう。大人って本末転倒好きだよね」
「氷見が言うと、説得力ある」
「皮肉が似合う人間になるなんて、五歳の頃は思ってなかったよ。残念だ。本当に」
悠人は楽しげな声のする窓際に寄り、一度窓を開けた。そして、辺りを見回してから再び窓を閉めた。
「煙草を使って生きていけるなら、喜んで愛煙家になるよ」
「大人っていいよね。煙草だけじゃなくてお酒も許されてるし。暴飲暴食してもストレス解消だって名づければ、納得してもらえるもん。天国じゃん」
真叶はぐびっと缶を傾けた。悠人は真叶の向かいに座り直す。
「酒にまみれて生きてみたいよ。いいよな、日向の奴って酒に溺れることができて。今すぐにでも溺れそうだ。分かった、俺、深海魚だから気持ち悪いんだ。生き延びるためのブサイクな造形が必要だったんだ。誰も明かりを灯してくれないし」
「深海魚って、チョウチンアンコウみたいなフォルムってこと?」
「そう。気持ち悪いでしょ」
「私は好きだけどね、割と。どうせ私も同じだし」
「気持ち悪いでしょ。いや、だって、シュッとしてないじゃん。サメとかイルカに比べたら。可愛くもない。ペンギンみたいに」
「氷見ってさ、英文の和訳みたいに喋る人だったっけ」
真叶は笑っていた。綺麗な笑顔に釣られて、悠人も笑う。
「しかし、違う。そうではない」
「気持ち悪い。語順が」
「悪気持ちいい語順ですよ」
「もう、やめよ。頭バグりそう。今日、忘れずに持ってきたよ」
真叶は少しだけ真剣味を足した声で言った。悠人は首を横に振る。
「真叶さ、綺麗な世界に戻りなよ。まだ真叶は戻れる」
「今更、やめてよ」
真叶の寂しそうな瞳とぶつかり、悠人は言葉を落とす。代わりとして、笑顔に努めた。
「ごめん。愚問だった」
「氷見こそ、ちゃんとした世界に戻りなよ。地上に戻るんだよ」
「いや、絶対に無理だ。地上の息を吸った瞬間、潜水病でころっと死ぬ。もう気圧が戻らない」
「私も一緒だよ」
「にゃるほど」
「だる」
黙る悠人に、真叶は天井を見上げたままゆっくりと言う。
「煙草の香りを一緒に味わってる以上、共犯で間違いないでしょ」
1.
「はい」
いつもの慣例にならって、氷見悠人《ひみゆうと》は、缶コーヒーを差し出した。
「ありがと」
受取人である早川真叶《はやかわまかな》が、受け取った缶のプルタブを引っ張る。
「氷見さ、今日も遅刻してなかった?」
「起きられなくて。ちゃんと、悪いことだとは思ってる。反省もしてる」
「私の耳には、開き直ってるように聞こえるけど。だから、怒られるんじゃないの」
「反省してるって。頭も下げたし」
「大人を満足させるためだって意図しか感じなかったけど」
「どうだろう。物事の解釈は自由だね」
悠人はコーヒーの液体を舌の上で転がした。苦みがじんわりと脳に伝わる。
「怒られてる人を見るのって、朝から気分悪いものだね」
「真叶って意外と優しいよな」
「いや、怒られてるのが氷見だからだよ。教室で怒鳴り散らすの、今すぐやめて欲しい」
「俺は別に構わないんだけど。黙って過失を認めていれば、いつかは終わるし」
真叶はバツが悪そうな顔をして、学習机の上に缶を置いた。
「学級委員の人にもチクッと言われてたよね」
悠人はもう一度、舌の上でコーヒーの液体を転がした。
「遅刻をしてはいけないって、至極正しい話だし、彼が悪いわけじゃない。怠惰認定されることに怒りはない」
「氷見のせいで心がドロドロになるんだよね」
「もっと喜んでもらえるとありがたい。グロテスクな映画観たときの反応じゃないか。まぁ、実際気持ち悪いんだろうけど」
窓越しに、ボールの跳ねる音が聞こえてきた。おそらく体育館のバスケット連中だろう。冬の寒さも気に留めず、元気なことだ。
「煙草吸えたら生きやすくなるのかな」
真叶が学習机の上に置かれている灰皿を見つめながら言った。
今、我々は元喫煙室にいる。体育館横、部室棟二階の一番右手。
部屋の中央に、銀色の灰皿が置かれた学習机一つ、その横に錆びた椅子が二つあるだけの寂れた空間。三畳から四畳くらいだろうか。
昔、どうも先生たちが喫煙に使っていたようだ。以前、高そうなシガレットケースが部屋の隅に落ちていた。今は部活用備品倉庫となっているが、特に備品も見当たらないので、意図不明の謎の空間である。
遅刻したときに、授業の途中で教室に入るのもな、と校舎をうろついていたら、この部屋を見つけた。以降、学校生活から逃げたくなったときには、時間を潰すのに使っている。
悠人は、缶を学習机に置いた。
「どうだろう。お金かかりそうだよね。ストレス解消のためにストレス溜める結末を迎えそう。大人って本末転倒好きだよね」
「氷見が言うと、説得力ある」
「皮肉が似合う人間になるなんて、五歳の頃は思ってなかったよ。残念だ。本当に」
悠人は楽しげな声のする窓際に寄り、一度窓を開けた。そして、辺りを見回してから再び窓を閉めた。
「煙草を使って生きていけるなら、喜んで愛煙家になるよ」
「大人っていいよね。煙草だけじゃなくてお酒も許されてるし。暴飲暴食してもストレス解消だって名づければ、納得してもらえるもん。天国じゃん」
真叶はぐびっと缶を傾けた。悠人は真叶の向かいに座り直す。
「酒にまみれて生きてみたいよ。いいよな、日向の奴って酒に溺れることができて。今すぐにでも溺れそうだ。分かった、俺、深海魚だから気持ち悪いんだ。生き延びるためのブサイクな造形が必要だったんだ。誰も明かりを灯してくれないし」
「深海魚って、チョウチンアンコウみたいなフォルムってこと?」
「そう。気持ち悪いでしょ」
「私は好きだけどね、割と。どうせ私も同じだし」
「気持ち悪いでしょ。いや、だって、シュッとしてないじゃん。サメとかイルカに比べたら。可愛くもない。ペンギンみたいに」
「氷見ってさ、英文の和訳みたいに喋る人だったっけ」
真叶は笑っていた。綺麗な笑顔に釣られて、悠人も笑う。
「しかし、違う。そうではない」
「気持ち悪い。語順が」
「悪気持ちいい語順ですよ」
「もう、やめよ。頭バグりそう。今日、忘れずに持ってきたよ」
真叶は少しだけ真剣味を足した声で言った。悠人は首を横に振る。
「真叶さ、綺麗な世界に戻りなよ。まだ真叶は戻れる」
「今更、やめてよ」
真叶の寂しそうな瞳とぶつかり、悠人は言葉を落とす。代わりとして、笑顔に努めた。
「ごめん。愚問だった」
「氷見こそ、ちゃんとした世界に戻りなよ。地上に戻るんだよ」
「いや、絶対に無理だ。地上の息を吸った瞬間、潜水病でころっと死ぬ。もう気圧が戻らない」
「私も一緒だよ」
「にゃるほど」
「だる」
黙る悠人に、真叶は天井を見上げたままゆっくりと言う。
「煙草の香りを一緒に味わってる以上、共犯で間違いないでしょ」



