あやめも知らぬ恋

夏のハツラツとした草原を駆けまわった母との思い出が過ぎる。

同時に母が亡くなった後、南条家の当主となり私たち双子をますます冷遇したことも。

思い出したくもない日々だが、消えることのない時間。

それを否定すれば楓と一緒に乗り越えてきた時間まで失ってしまう。

それだけ互いが支えになっていた分、四年前に楓が行方不明になってからの日々は心細かった。

まさか子どもを作っていて、一度も父親として会っていないほどの異常事態までは思っていなかったけれど。


(紫暮様は一体何者なの? どうして私を番と勘違いしてしまったの……)

落ちつきない心臓の上に手を置いて、視線をさ迷わせる。

そんな明らかな空気の悪さに、恐れ知らずの久美子が前に出て恥じらう乙女の顔をした。


「お父様。この方は瀧澤様だそうです。龍人なんですって。もう……なんの間違いか。私、この方にならぜひお嫁に……」

「黙りなさい久美子!」

「ひっ!?」

白彦が久美子に怒声をあげているのははじめて見たかもしれない。

不本意でも萎縮してしまい、ますます汗がにじんで、せっかく着せてもらった空色のワンピースが肌に張りついてしまっていた。


「綾芽姉さんならとうに死んだ。なぜ、竜人がまた南条家に……」

「南条家に用があったつもりはない。俺は番である花純を迎えにきたに過ぎない」

「つ、番だと!?」


誰が聞いても信じられないだろう。

竜人が人間を番に選ぶことさえ珍しいのに、よりにもよって鬼子を選んだ。

びくびくと怯えるばかりの意志薄弱な花純が選ばれたとなれば、さすがの白彦も臆しているわけにはいかないと拳を握りしめる。


「そ、その娘は鬼子だ。いくらなんでも竜人に嫁がせるわけにはいかないな」

「気にしない。そちらが気にするならばもうこの家には近づかないと約束しよう」


きっぱりと紫暮は意志を告げると、早くも白彦に関心をなくしてその場にしゃがんで花純の頬に手を伸ばす。

白くて長い指だが、爪が少しだけ尖っている。

近くで見れば見るほど獣のような瞳孔だと、人との違いを見せつけられて全身の血の巡りが早くなった。