あやめも知らぬ恋

氷のように冷たく、低く唸るような声がした。

せっかく紫暮がこの場を去るチャンスを作ってくれたのに、私はとっさの反応で地面に足をつけようと体重を下半身に集中させる。

何も感じたくないと自衛心が壊れ、紫暮の肩の向こうへと顔を上げてしまっていた。


「叔父様……」

その先には南条家の当主であり、叔父の白彦がいた。

機嫌悪そうに眉根を寄せる姿は、私の心に鉛を乗せ、呼吸をするたびに空気を濁りで喉が圧迫された。

フェルト生地の茶色い丸帽子に、袴姿。

厚手の焦げ茶色の外套を羽織り、杖で地面を数回叩きだす。


「お、お父様! この方、瀧澤様なんですって! ほら、あの女に求婚してきた――」

何のことだと白彦は片眉をあげ私を一瞥したかと思えば、水銀色の髪の方に意識を持っていかれ、目を見開いていく。

目を細めて振り返った紫暮に意表を食らったようで、唾を飲み込んで地面を叩く杖を止めた。


「久しぶりだな、白彦殿。俺のこと、覚えているだろうか?」

「お前、姉上の……」

鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして白彦は杖を落としてしまう。

慌てて久美子が拾うも、なかなか受け取ろうとしない白彦を不思議に思い首を傾げていた。

紫暮の瞳に光はない。

まさに最強の人そのものの鋭い瞳孔をして、外らしい凍てつく針を白彦にぶつける。

自分に向けられたものではないとわかっていても、誰かを威圧する空気にはどうしても鳥肌が立ってしまっていた。

私はとっさに腕を擦る。


(姉上って、お母様のことよね……?)

私と楓の母・綾芽。

私たちがずいぶん幼い頃に亡くなったが、巫女として南条家を支えた時期があるほど立派な人だった。

残念ながら私たちを産むと同時に巫女は引退して、南条家で隅に追いやられてしまい、私たちを不安にさせないよう気丈に振る舞っていたけれど。

この様子だと紫暮は母の綾芽と関わりが深そうだ。

白彦が認識しているとなれば、それだけ重要な関係性。