あやめも知らぬ恋


「花純。おもしろい建物があるぞ」

指の先を追い、あっと驚かされる。

「わぁ! なんてキレイなエメラルドグリーン!」

「大きな時計!」

蛍は時計台を見上げて感極まった様子で走り出す。

危なっかしい姿と慌てて追いかけ、後ろから肩を掴んで蛍と同じ目線から時計台を見上げる。

空に向かって段々とした石造りの建物で、品のあるエメラルドグリーンの屋根の上には大きな時計が四方に時を表示していた。

今では時を示すのも西洋から取り入れた数え方に変わっていた。

「時計のお店ね。あんなにも大きな時計ははじめて見るわ」

「色んなもの、届けられたから知ってる」

「えっ?」

どういう意味だろうと訊ねたかったが、蛍のもの寂しそうな横顔に言葉を引っ込めた。

ずっと疑問には思っていたが、南条家でも蛍の出自は伏せられていた。


何故、母親の元から離れることになったのか。

ここまで幼い子を手放すとなればそれ相応の理由があるはずだ。

それを蛍に聞くのは酷というもの……。

一般的な三歳児にしてはおとなしく賢い子だからこそ、先に先にと防御癖がついている。

その分、糸が切れたように暴れまわることもあるので接するのが難しかった。


「……楓とも、いつか見に来たいね」


――時打ちの鐘が鳴る。

時計塔から鳴る”時の音”に人々は耳を傾け、三十分に一度の響きに心を突き動かされた。

音がやんでもその名残は肌を痺れさせる形で頬を痺れさせてきた。

しばらく時計台を見つめた後、憂いた表情の蛍を一瞥して紫暮に視線を戻す。

それから紫暮に手を引かれ、銀座の町並みをぶらぶらと歩いた。


新しいものがどんどん入り込む世の中で、第一線を走る銀座。

先程までの憂いは時の音で吹き飛ばされたのか、新鮮そのものの世界に気持ちはどんどん浮き立っていった。