「……ここ、校舎なんだけど」
「それくらいわかってますよ。わかったうえでやってるんで、……顔、隠さないでください」
俺は自分の顔をかばっていた手を下にさげる。
瀬名とまともに視線がぶつかってしまって、逃げられない、と感じた。
「……決めたんです」瀬名は俺の後ろの壁に手をついて言う。
「ナユ先輩見かけたら、そのたびにキスしてやろうって――」
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夏が終わった。
俺は腑抜けになっていた。
「……だる……」
いつもなら体育館の片隅で柔軟と筋トレと走りこみと発声練習をしている時間。部を引退した俺にもう参加権はない。
やっている最中はきつい、こんなのやりたくない、と思う。でも実際やらなくていいとなると落ちつかなかった。体はハードトレーニングに慣れてしまっていて、どうして動かないんだ、時間だろ、と俺をせっついてきている。
その声を無視するために俺はつぶやいたのだった。だる、と。
本校舎の非常階段の四階の踊り場から見える空はきれいでずっと見ていると落ちていきそうだ。茜色の空に灰色がかかった雲が浮かび、帰りを急ぐように速足で流れていく。
ああ、俺も帰らなきゃ。帰って過去問を一ページでも多く解かなきゃ。そう思ってはみたけれど体は動かない。コンクリートの床と背中がくっついてしまったみたいだ。
グラウンドから野球部の掛け声が聞こえてくる。その中に三年生はいない。当然。
演劇も野球も甲子園が終わったら終わり、とつぶやいてみた。それを、聞かれた。
「なにセンチメンタルな気分になってるんですか」
顔を見なくても声でわかった。瀬名は鞄を下ろすと踊り場の隅に片膝を立てて座る。
「……おまえ、部活は?」と俺はあおむけになったまま尋ねた。
「しばらく休みです。みんなコンクールで燃えつきちゃったんで。下手にやるくらいならいっそ休みにしようって先生が」
「そっか……」
「来週からは基礎トレだけは再開するそうですけど」
意外と知られていないが、演劇部にも夏の大会というものがある。
地区予選。県大会。そして、全国大会。
俺たちN高演劇部の戦績ははっきり言ってよくない。いつも地区予選止まりだ。でも去年と今年はちがった。
瀬名覚。
こいつが演出担当として入部してくれたから。
やせ型だけどすらりとしていて、177cmある俺よりも背が高い。右目の下に茶色いほくろがある。切れ長の目はいつも涼しげで周りすべてを俯瞰して見ているようだ。
役者として舞台に立っても通用する容姿をしているけど、彼が希望したのは裏方。演出だった。
そして去年、まだ仮入部中の瀬名が一番にやったことは――
『藍川那由多先輩、ですよね。先輩にその髪の色似合わないです。黒にしてください。あと視線がぶれがちです。役者のためらいは客席には百倍になって伝わります。なるべく一点を見つめるようにして。で、堂々としててください。あんた顔いいのにもったいないです』
当時二年生だった俺への――新入部員歓迎のための劇でほとんどモブ同然の役をやっていた俺へのダメ出しだった。
『はぁ……?』
劇が終わるなり投げつけられた言葉に最初は面食らった。この一年大丈夫か、とも思った。
でも視線があっちにいったりこっちにいったりしているというのは顧問の先生にも指摘されたことがあって、ひょっとしたら、という想いもあとから生まれてきた。
――俺は舞台の端に立つことしか能がないと思っていた。自分でもその程度の役者だと思っていた。
でも。
チャンスがあるなら、それをつかみたい。
その次の日、地毛の茶髪を黒髪に染めてきた俺を見て瀬名は言った。いいですね、と。
『俺の言うこと聞いてればあんたは一年以内に主役になれますよ。プロだって夢じゃない。保証します』
『……信じていいの?』
『信じたいと思ったから髪染めてきたんじゃないんですか?』
そのとおりだった。
俺は言いかえせず、それからも瀬名が容赦なくぶつけてくるダメ出し――もとい、『演出』に無我夢中でしたがって――
二年の夏。主役として、コンクールの舞台に立っていた。
N高演劇部は県大会を突破し、全国大会に初めて名を刻んだ。
客席で見ていた家族や友達は主演の俺を褒めてくれた。でも演劇部部員はみんな知っていた。
すべては瀬名のしたこと。
役者も裏方も、みんなこの天才演出家のアドバイスどおりに動いただけにすぎないことを。
「……優秀賞ってすごいよな……」
「なんですか?」
俺のつぶやきに瀬名が不審そうな顔をする。
今年のN高の戦績は全国大会優秀賞+舞台美術賞。最優秀賞は逃がしたとはいえ、二年前まで弱小だったことを考えればとてつもない躍進だ。
べつに、と俺は空を見上げて答える。
「瀬名ってマジで天才なんだなって思っただけだよ。おまえがくるまで顧問のさつき先生ですらみんなケガしないようにがんばろうねーってスタンスだったんだぜ。大会なんてただの記念。とりあえず参加しておきますかってだけ。……それなのに優秀賞なんてさ……」
「俺はあなたがいるうちに獲っておきたかったです。最優秀賞」
「……来年は獲ってくれんの?」
瀬名がこくりとうなずいた気配がした。
「まずは水代を毎回部活にださせます。弱みにぎってでも」
「ほどほどにしとけよ」
顔も身長も演技もいいのにやる気だけがない一年を思いだして俺は苦笑する。
そしてしたくもないあくびをしたあとに目元をぬぐって起きあがった。「なあ、腹減ったしどっかでなんか食ってかない?」と瀬名に言う。
「いいですね。推しに貢ぐチャンスなら大歓迎です。好きなもの食べてください」
「後輩におごらせる先輩がどこにいるんだよ」
「それ以前に俺とナユ先輩は推しとファンの関係なので……」
「――推しとか言ってもさぁ」
いつもみたいに無表情で淡々と俺を褒めてくる瀬名に背中を向け、俺はぼそっとつぶやく。
「おまえのナユ先輩は、もう舞台に立つことねえじゃん」
瀬名は口をつぐんだ。
ちょうど三拍。数を数えたのかは知らないけど、ちょうど三拍開けて彼は「そうですね」と返してくる。
「演劇やってないナユ先輩も俺は好きですけど。そのきれいな顔さえついてればいいんで」
「……おまえ、ほんと俺の顔好きだよな」
「顔以外には一切興味なくてお恥ずかしい」
「ほんとだよ。中身にも興味持てよ」
軽口を叩きあいながら俺と瀬名は階段を降りる。
大学では演劇はやらない。これで終わりにする。瀬名には一番最初に告げてあった。
『高校最後に優秀賞もらえてさ、もう思いのこすことなんてないじゃん?』
瀬名はなにも言わなかった。なんでですかも大学でもつづけてくださいもなかった。
ただ、長いまつげを伏せて。
わかりましたとだけ言った。
そんな、夏の終わり。



