温泉から戻ると、部屋では夕食の支度が始まっていた。
低い座卓の上に、白い器や小さな蓋物が少しずつ並べられていく。
仲居さんが手際よく料理を置くたび、湯上がりでぼんやりしていた私の意識が、ぐんぐん覚醒していった。
湯気。
器の白。
小鉢に添えられた緑。
柑橘の皮の、鮮やかな黄色。
「本日のご夕食でございます」
「……え、すごい!」
鯛のお造り。
小さな鍋には、薄く切られた魚と野菜。
炊き込みではなく、ほぐした鯛を出汁と卵でいただくタイプの鯛めし。
揚げたてらしいじゃこ天。
柑橘の皮が散らされた酢の物。
白い器に入った、みかん色のジュレ。
品数が多い。
色がきれい。
何より、どれもこれも全部美味しそう。
さっき温泉で「駅弁を食べすぎた」と反省したはずなのに、胃袋がもう次の戦いに備え始めている。
人間の欲とは恐ろしい。
「写真を撮ってもいいですか?」
「もちろんでございます」
スマホを握る私を見て、仲居さんがにこりと笑う。
その許可を得た瞬間、私の中の何かが切り替わった。
角度。
明るさ。
器の配置。
湯気。
箸を置く位置。
背景に余計なものが入らないか。
座卓の周りを移動しながら、夢中でシャッターを切った。
畳に膝をつき、少し身体を乗り出す。
光が器の縁に当たる角度を見ながら、スマホの画面を指で明るくした。
「まず全体。次に鯛めし。じゃこ天は寄りで……あ、湯気が消える前に撮らなきゃ」
「急に仕事の顔になったけんねぇ」
肩の上で、いよぴよさんが感心したように言う。
「黙って。今、忙しい」
「ワシも撮る?」
「見えないでしょうが」
「心の目で写すんよ」
「そういう精神論、求人票の『やりがいのある職場』くらい信用できない」
言いながらも、ひたすら連射。
気づけば、同じ鯛めしだけで二十枚以上。
じゃこ天は十五枚。
柑橘ジュレに至っては、器の透け感がきれいで、無駄に三十枚近く撮っていた。
無駄ではない。
たぶん。
少なくとも、未来の私が何かの投稿に使うかもしれない。
使わなくても、見返した時にお腹が空く写真にはなる。
「……瀬川様」
ふいに声をかけられて振り向くと、襖のそばに曽我部さんが立っていた。
「失礼しました。お食事はいかがでしょうか」
「あっ、すみません!まだ食べてなくて!」
慌ててスマホを下ろす。
食事の前に料理を撮りまくっている女を見られた。
しかも、座卓の周りをうろうろしながら。
曽我部さんは座卓の上と、私の手元のスマホを見比べて、目元を和ませる。
「ずいぶん熱心に撮っていらっしゃいますね」
「その、明日から広報って聞いていたので。せっかくなら記録しておこうかなと」
言い訳のように言ってから、我ながら驚いた。
あれだけ怪しい内定だの、四国転生だの、ブラックだの文句を言っていたくせに。
私はもう、広報の仕事らしいことをしようとしている。
たぶん、料理がきれいだったからだ。
この宿を少しでもよく見せたい、というより、目の前にあるものを雑に扱いたくなかった。
そう思ってしまうくらいには、この場所に心を動かされている。
曽我部さんの声が、やわらかくなった。
「ありがとうございます」
「え?」
「料理長も喜ぶと思います。食べる前に、そこまで丁寧に見てくださる方は多くありませんから」
褒められた、のだろうか。
わからないけれど、指先が落ち着かなくなる。
スマホの画面を消そうとして、うっかりもう一枚シャッターを切ってしまった。
「すみません」
「いえ。よろしければ、あとでお写真を拝見しても?」
「えっ」
「瀬川さんがどう切り取られるのか、気になります」
仕事の話なのに、そんなふうにまっすぐ言われると、変に緊張する。
「……見せられるものが撮れていたら」
「楽しみにしています」
曽我部さんは膳の方へ視線を落とした。
「温かいうちにどうぞ。鯛めしは、まずそのまま召し上がってから、途中で出汁をかけるのがおすすめです」
「はい!」
返事が勢いよくなりすぎて、いよぴよさんが肩で小さく笑う。
「食べる気満々やけんねぇ」
「黙って」
「では、ごゆっくり」
曽我部さんが一礼して部屋を出ていく。
襖が閉まるのを確認して、私は箸を手に取る。
まずは鯛めし。
白いご飯の上に、ほぐした鯛と薬味を少しのせる。
すすめられた通り、最初はそのまま。
「……いただきます」
一口食べると、鯛の旨みと出汁の香りがふわっと広がった。
「美味しい……」
湯上がりの身体に、温かいご飯とやさしい味が染みる。
今日一日でどれだけ移動して、どれだけ文句を言って、どれだけ混乱したかわからない。
それでも今は、目の前のご飯がちゃんと美味しい。
その事実だけで、救われた気がした。
二口目を食べる。
「何これ、美味しい……」
三口目。
「待って、これ、毎日食べたら人としてだめになるやつ……」
「人としては知らんけど、広報としては正しい反応なんよ」
「美味しい……!」
「聞いとらんねぇ」
次はじゃこ天。
箸で持ち上げると、揚げたての香ばしい匂いがふわっと鼻をくすぐった。
思っていたよりずっと厚みがあって、外側はかりっとしている。
中はふわっとしているのに、魚の旨みがぎゅっと詰まっていた。
「え~!?岡山で買った冷えていたじゃこ天と全然違う!」
もう一口食べる。
噛んだ途端、じゅわっと旨みが広がって、箸を持つ手に力が入った。
「違う。これ、海を手で持てる形にしたやつだ」
「急に詩人になるけんねぇ」
「うるさい。美味しいものを食べてる時は語彙が増えるの」
鍋の魚も、酢の物も、柑橘ジュレも、どれも丁寧で美味しい。
同じ美味しいなのに、一品ずつ全部違う。
やさしい美味しい。
目が覚める美味しい。
ほっとする美味しい。
あと一口だけ、と言いながら止まらなくなるほど美味しい。
酢の物に散らされた柑橘の皮は、口の中をさっぱりさせてくれる。
ジュレは透き通ったみかん色で、スプーンを入れるとぷるんと揺れた。
甘いのに重くなくて、最後までちゃんと愛媛がいる。
気がつくと、私はほとんど黙ったまま食べ続けていた。
さっきまでいよぴよさんに文句を言っていた口が、今は完全に食事専用になっている。
「美咲ちゃん」
「美咲ちゃん……?って、馴れ馴れしいな」
「駅弁で気持ち悪いって言っとらんかった?」
「温泉で治った」
「都合のいい胃袋なんよ。広報向きの胃袋なんよ」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
低い座卓の上に、白い器や小さな蓋物が少しずつ並べられていく。
仲居さんが手際よく料理を置くたび、湯上がりでぼんやりしていた私の意識が、ぐんぐん覚醒していった。
湯気。
器の白。
小鉢に添えられた緑。
柑橘の皮の、鮮やかな黄色。
「本日のご夕食でございます」
「……え、すごい!」
鯛のお造り。
小さな鍋には、薄く切られた魚と野菜。
炊き込みではなく、ほぐした鯛を出汁と卵でいただくタイプの鯛めし。
揚げたてらしいじゃこ天。
柑橘の皮が散らされた酢の物。
白い器に入った、みかん色のジュレ。
品数が多い。
色がきれい。
何より、どれもこれも全部美味しそう。
さっき温泉で「駅弁を食べすぎた」と反省したはずなのに、胃袋がもう次の戦いに備え始めている。
人間の欲とは恐ろしい。
「写真を撮ってもいいですか?」
「もちろんでございます」
スマホを握る私を見て、仲居さんがにこりと笑う。
その許可を得た瞬間、私の中の何かが切り替わった。
角度。
明るさ。
器の配置。
湯気。
箸を置く位置。
背景に余計なものが入らないか。
座卓の周りを移動しながら、夢中でシャッターを切った。
畳に膝をつき、少し身体を乗り出す。
光が器の縁に当たる角度を見ながら、スマホの画面を指で明るくした。
「まず全体。次に鯛めし。じゃこ天は寄りで……あ、湯気が消える前に撮らなきゃ」
「急に仕事の顔になったけんねぇ」
肩の上で、いよぴよさんが感心したように言う。
「黙って。今、忙しい」
「ワシも撮る?」
「見えないでしょうが」
「心の目で写すんよ」
「そういう精神論、求人票の『やりがいのある職場』くらい信用できない」
言いながらも、ひたすら連射。
気づけば、同じ鯛めしだけで二十枚以上。
じゃこ天は十五枚。
柑橘ジュレに至っては、器の透け感がきれいで、無駄に三十枚近く撮っていた。
無駄ではない。
たぶん。
少なくとも、未来の私が何かの投稿に使うかもしれない。
使わなくても、見返した時にお腹が空く写真にはなる。
「……瀬川様」
ふいに声をかけられて振り向くと、襖のそばに曽我部さんが立っていた。
「失礼しました。お食事はいかがでしょうか」
「あっ、すみません!まだ食べてなくて!」
慌ててスマホを下ろす。
食事の前に料理を撮りまくっている女を見られた。
しかも、座卓の周りをうろうろしながら。
曽我部さんは座卓の上と、私の手元のスマホを見比べて、目元を和ませる。
「ずいぶん熱心に撮っていらっしゃいますね」
「その、明日から広報って聞いていたので。せっかくなら記録しておこうかなと」
言い訳のように言ってから、我ながら驚いた。
あれだけ怪しい内定だの、四国転生だの、ブラックだの文句を言っていたくせに。
私はもう、広報の仕事らしいことをしようとしている。
たぶん、料理がきれいだったからだ。
この宿を少しでもよく見せたい、というより、目の前にあるものを雑に扱いたくなかった。
そう思ってしまうくらいには、この場所に心を動かされている。
曽我部さんの声が、やわらかくなった。
「ありがとうございます」
「え?」
「料理長も喜ぶと思います。食べる前に、そこまで丁寧に見てくださる方は多くありませんから」
褒められた、のだろうか。
わからないけれど、指先が落ち着かなくなる。
スマホの画面を消そうとして、うっかりもう一枚シャッターを切ってしまった。
「すみません」
「いえ。よろしければ、あとでお写真を拝見しても?」
「えっ」
「瀬川さんがどう切り取られるのか、気になります」
仕事の話なのに、そんなふうにまっすぐ言われると、変に緊張する。
「……見せられるものが撮れていたら」
「楽しみにしています」
曽我部さんは膳の方へ視線を落とした。
「温かいうちにどうぞ。鯛めしは、まずそのまま召し上がってから、途中で出汁をかけるのがおすすめです」
「はい!」
返事が勢いよくなりすぎて、いよぴよさんが肩で小さく笑う。
「食べる気満々やけんねぇ」
「黙って」
「では、ごゆっくり」
曽我部さんが一礼して部屋を出ていく。
襖が閉まるのを確認して、私は箸を手に取る。
まずは鯛めし。
白いご飯の上に、ほぐした鯛と薬味を少しのせる。
すすめられた通り、最初はそのまま。
「……いただきます」
一口食べると、鯛の旨みと出汁の香りがふわっと広がった。
「美味しい……」
湯上がりの身体に、温かいご飯とやさしい味が染みる。
今日一日でどれだけ移動して、どれだけ文句を言って、どれだけ混乱したかわからない。
それでも今は、目の前のご飯がちゃんと美味しい。
その事実だけで、救われた気がした。
二口目を食べる。
「何これ、美味しい……」
三口目。
「待って、これ、毎日食べたら人としてだめになるやつ……」
「人としては知らんけど、広報としては正しい反応なんよ」
「美味しい……!」
「聞いとらんねぇ」
次はじゃこ天。
箸で持ち上げると、揚げたての香ばしい匂いがふわっと鼻をくすぐった。
思っていたよりずっと厚みがあって、外側はかりっとしている。
中はふわっとしているのに、魚の旨みがぎゅっと詰まっていた。
「え~!?岡山で買った冷えていたじゃこ天と全然違う!」
もう一口食べる。
噛んだ途端、じゅわっと旨みが広がって、箸を持つ手に力が入った。
「違う。これ、海を手で持てる形にしたやつだ」
「急に詩人になるけんねぇ」
「うるさい。美味しいものを食べてる時は語彙が増えるの」
鍋の魚も、酢の物も、柑橘ジュレも、どれも丁寧で美味しい。
同じ美味しいなのに、一品ずつ全部違う。
やさしい美味しい。
目が覚める美味しい。
ほっとする美味しい。
あと一口だけ、と言いながら止まらなくなるほど美味しい。
酢の物に散らされた柑橘の皮は、口の中をさっぱりさせてくれる。
ジュレは透き通ったみかん色で、スプーンを入れるとぷるんと揺れた。
甘いのに重くなくて、最後までちゃんと愛媛がいる。
気がつくと、私はほとんど黙ったまま食べ続けていた。
さっきまでいよぴよさんに文句を言っていた口が、今は完全に食事専用になっている。
「美咲ちゃん」
「美咲ちゃん……?って、馴れ馴れしいな」
「駅弁で気持ち悪いって言っとらんかった?」
「温泉で治った」
「都合のいい胃袋なんよ。広報向きの胃袋なんよ」
「それ褒めてる?」
「たぶん」



