四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

駅前に停まっていた車は、思っていたよりずっと落ち着いた色のワゴン車。
黒に近い濃紺のボディはよく磨かれていて、観光地の送迎車らしい派手さはないのに、妙に品がある。

「どうぞ。お荷物はこちらへ」
「す、すみません……ありがとうございます」

キャリーバッグを軽々と積み込む曽我部さんの横顔を、ついまじまじと見てしまう。

やっぱりイケメン。
さっき駅で見た時も思ったけれど、近くで見るとさらに整っている。
まつ毛、長くない?
鼻筋もきれいだし、横顔だけで温泉旅館のパンフレットが作れそうだ。

いや、もう表紙でいい。
『若旦那が迎えに来る宿』みたいな見出しをつけたら、予約数が三割くらい伸びるのでは?

後部座席のドアを開けてもらい、私はおそるおそる乗り込む。

「具合、かなり悪そうですね」

運転席に座った曽我部さんが、バックミラー越しにこちらを見る。

「あー……ちょっと、その……食べすぎました」
「食べすぎ?」
「新幹線で駅弁を二つ食べて、岡山でもう一つ追加して、さらにじゃこ天も……」

指折り数えて言いながら、自分でもひどいと思う。
本当に何をしに来たんだ、私は。
四国の広報に来たのか、駅弁の在庫処分に来たのか、もうよくわからない。

けれど彼は笑わなかった。
呆れたような顔もしない。

「それは確かに、少し召し上がりすぎかもしれませんね」

口元を緩めて、やわらかくそう言った。

「少し、ですか?」
「旅先では、食べたいものが増えますから」
「……優しい」

口からこぼれた言葉に、自分でぎょっとする。

「いえ、何でもありません」

その言い方があまりにも自然で、救われた気がした。
笑われると思っていた失敗を、旅のせいにしてもらえる。
たったそれだけなのに、胃の重さとは別のところが、ほんの少し軽くなった。

車が静かに走り出す。

松山駅前の広い道を抜けると、窓の向こうに見慣れない町並みが流れていく。
高層ビルもタワマンもない、低めの建物が続く通り。
行き交う人たちの服装は東京とそう変わらないのに、どこか歩く速さがゆるやかに見える。
信号待ちの向こうには、オレンジ色と緑色の路面電車がごとごとと走っていった。

「わ……路面電車」

思わず声が漏れる。

「伊予鉄です。道後温泉まで行きますよ」
「観光で来た感がすごい……」
「観光ではなく、お仕事だと伺ってますが」
「そうでした……」

現実に引き戻され、ぐったりとシートにもたれた。
それでも、窓の外を見るのはやめられない。

知らない町なのに、怖さより先に物珍しさが勝ってしまう。
これでは広報神の思うつぼ。
でも、路面電車は可愛い。

少し進むと、通りの向こうに山が見えた。
町のすぐそばに緑があって、さらにしばらく走ると、道の先にふっとやわらかな湯の町らしい空気が漂い始める。

土産物屋らしい店。
浴衣姿の観光客。
昔ながらの看板と、新しそうなカフェが同じ通りに並んでいる。
古いものと新しいものが、無理に混ざっているのではなく、同じ湯気の中で肩を並べているみたい。

「道後って、もっと昔ながらの感じかと思ってました」
「古いものは多いですが、最近は若い方にも来ていただけるように、新しい店も増えています」
「へえ……」
「うちも、そういう意味では古いだけの旅館ではないつもりです」

その言い方に、誇りがにじむ。
バックミラー越しに曽我部さんを見る。
落ち着いた口調のままなのに、自分の旅館の話になった途端、声の温度が上がった気がした。

「……若旦那っぽい」
「はい?」
「いえ、何でもありません」

肩の上で、いよぴよさんが小さく笑う。

「ちゃんと若旦那なんよ」
「うるさい。タレかけっぞ」
「……何かおっしゃいましたか?」
「独り言です!」

危ない。
本当に気をつけないと。
いや、もうさっき駅前でかなり怪しかった気もする。
これ以上、温泉地に現れた危険人物として記憶されたくない。

車はゆるやかに坂を上り、やがて細い路地へ入ると、観光地のにぎやかさが少し遠のいて、空気がすっと静かになる。
エンジン音の向こうで、どこかの店先の風鈴がかすかに鳴った。

「着きました」

そう言われて顔を上げる。

車窓の向こうに見えたその宿は、いかにも老舗旅館という威圧感ではなかった。
古いものを大事にしながら、きれいに磨き上げられた、静かな佇まい。
引き戸の前に打ち水がされていて、石畳がしっとりと濡れている。
小さな庭の緑が、夏の光を受けて揺れていた。

ここで、半年。

内定承諾書の文字が、頭の片隅をよぎる。
まだ何も始まっていないのに、胸の奥が落ち着かなくなった。



車を降りた瞬間、ふわりと木と湯の匂いがした。

目の前にあるのは、黒々とした瓦屋根と、やわらかな生成り色の暖簾。
門まわりや柱には年季が入っているはずなのに、不思議と古びた感じはない。
むしろ、長い時間をかけて丁寧に手入れされてきたものだけが持つ、静かな美しさがあった。

玄関先の石畳は打ち水をされていて、陽射しを受けてしっとりと光っている。
脇には小さな植え込みがあり、背の低い木のあいだに、白い花がひっそり咲いていた。
東京の駅前とは違う、少し湿った空気。
けれど嫌な重さではなく、身体の力をそっと抜かれるような匂い。

「……きれい」
「ありがとうございます」

曽我部さんが嬉しそうに表情をやわらげた。
その反応があまりに自然で、ここを褒められることが本当に嬉しいのだとわかる。

中へ案内されると、さらに驚いた。

旅館の中はもっと和風一色なのかと思っていたのに、広いロビーには白木のカウンターと低めのソファがゆったりと置かれ、間接照明がやわらかく壁を照らしている。
床は艶のある木目で、ところどころに畳のスペースがあり、その上に置かれた座布団やテーブルはどこか現代的。

奥には中庭が見える。
石灯籠の向こうに、小さな水の流れ。
けれどその手前にはガラス張りのラウンジがあって、古い庭と新しい空間が不思議なくらい自然に馴染んでいた。

ロビーの一角には砥部焼らしい白磁の花器が飾られ、売店には今治タオルや柑橘のジャム、小さなアロマオイルまで並んでいる。
いかにも観光客向けのお土産、というより、ここで過ごした時間をお土産に持ち帰るためのものに見えた。

「老舗って、もっとこう……」
「もっと古くて暗い感じを想像していましたか?」

言い当てられて、私はぎくりとした。

「すみません、もっと古民家的なのを想像していました」
「よく言われます」

曽我部さんは気を悪くした様子もなく、静かに答える。

「創業は古いですが、数年前に客室の一部とロビーを改装しました。昔から来てくださるお客様にも、新しく来てくださる方にも心地よく過ごしていただける宿でありたいと思っています」

へえ、では済まない。
思っていた以上にちゃんとしている。
いや、ちゃんとしているなんて言い方は失礼かもしれない。
古さに甘えず、でも古さを捨ててもいない。

私は無意識に、今朝まで自分がいた東京の安アパートを思い出す。
積み上がった転職本。
空き缶にペットボトル。
開きっぱなしのノートパソコンに表示されているのは、お祈りメールでいっぱいの画面。

そこから来た先が、この空間。
高低差がすごい。
同じ日本のはずなのに、部屋の湿った空気ごと置いてきたみたいだった。

「こちらでチェックインをどうぞ」

白木のカウンターへ案内される。
差し出された冷たいグラスの中には、薄いみかん色の飲み物が入っていた。
グラスの表面についた水滴が、指先にひやりと触れる。

「ウェルカムドリンクです。河内晩柑のジュースを少し炭酸で割っています」

ひと口飲む。
酸っぱすぎず、甘すぎず、喉に落ちるとすっと身体がほどけるみたいに。
予讃線で揺られ、駅弁とじゃこ天に敗北した胃袋まで、少しずつ機嫌を直していく。

「……美味しい」
「気に入っていただけてよかったです」

そういう声は穏やかなのに、微笑まれるとどきどきしてしまう。
人当たりがいいだけなのだとわかっている。
旅館の人なのだから、きっとこれくらい自然にするのだろう。
それでも、真正面からやわらかく笑われると、どう反応していいかわからなくなる。

きっとこの人は、ここが好きなのだ。
この宿が。
この町が。
ここで流れる時間が。

「……明日から、ここを取材するんですよね」
「はい。まずはうちからです」
「ハードル高いな……」
「そうですか?」
「だって、第一印象がよすぎるので。下手に撮ったら私の腕のせいになります」

曽我部さんが、ふっと笑った。
ほんのわずかな笑みだったのに、それだけで空気がやわらかくなる。

「では、期待しています。瀬川さん」

名前を呼ばれて、なぜか胸の奥が小さく鳴った。
仕事相手に苗字を呼ばれただけ。
それだけなのに、耳に残る声の低さが、妙にはっきりしている。

そのとき肩の上で、いよぴよさんが言う。

「もうちょいしたら『美咲さん』になるけんねぇ」
「塩焼きにすっぞ」

私は小声で即座に返した。

「……やはり少し、お疲れのようですね」
「違います!」

違う、とは言ったけれど。
肩に乗った広報神を黙らせたい気持ちとは別に、胸の奥に残ったものを否定しきれない。
これから始まる愛媛での生活が、ちょっとだけ楽しみになってしまったのは事実だった。