四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

昨夜の気まずさと、ほとんど眠れなかったせいで、頭の奥が少しぼんやりしたままホテルを出た。
けれど、小豆島の朝の空気は、思っていたよりずっと明るかった。

海から吹く風はやわらかくて、空は高い。
昨日の二次会で張りつめていたものが、少しずつほどけていくようだった。
でも、昨日の夜のことが、消えたわけではない。

淳一の声。
莉子さんの怒った顔。
会場の凍りついた空気。
亮平さんが、私を婚約者だと言った声。

思い出すと、胸の奥はまだ少し重い。
でも、朝の光の中で見る小豆島は、そんな重さを外へ流してくれる気がした。

「寄り道していきましょうか」

亮平さんがそう言って連れてきてくれたのは、オリーブの木が並ぶ場所だった。
銀色がかった葉が、風に揺れるたびにきらきら光る。
青い空と海を背景に、細い枝がさらさらと音を立てていた。

「……すてきっ!」

昨日の夜、あんなにぐちゃぐちゃした感情でいっぱいだったのに。
こうして朝の光の中に立つと、息がしやすい。

「小豆島といえば、やはりオリーブですから」
「お土産、買っていきたいです」
「いいですね」

売店に入ると、オリーブオイルや塩漬けのオリーブ、オリーブを使ったお菓子が並んでいた。
棚に並ぶ瓶は、どれも小さくてきれい。
光を受けたオリーブオイルは、淡い金色に透けている。
昨日の夜の重さとはまったく違う色。

私は迷った末に、小さな瓶のオリーブオイルを二本と、オリーブの塩漬けを一つ手に取る。

「これでアヒージョ作るの楽しみです〜!」

自分でも声が少し弾んでいるのがわかった。
昨夜のことは消えない。
でも、今日の私はちゃんとお腹が空くし、次に作る料理のことを考えられる。
それが、少し嬉しかった。

「いいですね。美味しいフランスパンのお店、紹介しますよ」
「助かります!!」

即答すると、亮平さんが小さく笑った。

「美咲さんは、食べ物の予定が入ると元気になりますね」
「食べ物は未来への希望なので」
「名言ですね」
「投稿に使えますかね」
「使えると思います」

肩の上で、いよぴよさんが得意げに羽を揺らす。

「胃袋広報官、完全復活なんよ」
「その肩書き、採用してないから」
「でも合っとるんよ」
「オリーブオイル漬けにするぞ」
「おしゃれな罰なんよ!?」

そんなやり取りをしていると、昨夜の重さが遠のいていく。

亮平さんは、何も急かさなかった。
昨日のことを無理に話題にすることもなく、ただ隣で、私が選ぶお土産を静かに見守ってくれている。

それがありがたい。
優しい言葉で慰められるよりも、今はその静けさの方が楽だった。
私がまた食べ物の話をして、いよぴよさんに文句を言って、少し笑えるようになるまで、亮平さんはただ待ってくれている。

会計を済ませ、紙袋を抱えて外に出る。
オリーブの葉が、また風に揺れた。
銀色の葉が光るたび、昨日の夜とは違う朝が、ちゃんとここにあるのだと思えた。

「昨日は……ありがとうございました」

ふいに言うと、亮平さんがこちらを見る。

「僕は、何も」
「いました。隣にいてくれました」

私は、紙袋の持ち手をぎゅっと握った。

本当は、もっとたくさん言いたいことがある。
背中を支えてくれてありがとう。
あの場から連れ出してくれてありがとう。
私の言葉を、格好よかったと言ってくれてありがとう。

でも、全部言うと泣きそうで。
亮平さんは一瞬だけ黙り、それから穏やかに目を細める。

「それなら、よかったです」

その声は、昨日の夜と同じくらいやさしい。
けれど朝の光の中で聞くと、温度が違って聞こえた。

帰りのフェリーに乗る頃には、空は少し白く霞んでいた。
車ごと船に乗るのも二回目になると、昨日ほど怖くはない。
行きと同じように、係員さんの誘導に従って車が停まり、私たちはデッキへ出た。

海の上を、白い航跡が伸びていく。
小豆島が少しずつ遠ざかる。

昨日、この島で、私は過去と向き合った。
完全に平気になったわけじゃない。
思い出せば、まだ胸の奥は少し痛い。

でも、もう淳一の言葉に引きずられる必要はない。
あの人が私をどう扱ったとしても、今の私までその言葉に合わせて小さくなる必要はない。

私は愛媛に来て仕事をしている。
食べて、撮って、書いて、誰かに届けようとしている。
失敗もするし、空回りもする。
でも、それでもちゃんと前に進んでいる。

そして、隣には亮平さんがいる。

「帰ったら、アヒージョ作ります」
「はい」
「……食べに来ますか?」
「いいんですか?」
「はい。ワンピースのお礼……じゃ、安すぎますかね?」
「十分です」

亮平さんが少しだけ笑う。

「では、フランスパンを持って伺います」
「本当に来る気ですね」
「誘っていただきましたので」
「そうでした」

自分から誘ったくせに、いざ本当に来ると言われると、急に胸がそわそわする。
けれど、そのそわそわは嫌なものではなかった。

昨日の夜には考えられなかった、次の食卓の予定。

苦い記憶だけを持ち帰るのではなくてよかった。
小豆島から、ちゃんと美味しいものと、次の約束を持って帰れる。
潮風の中、私は小さく息を吸った。

「……帰りましょうか。愛媛に」
「はい。帰りましょう」

亮平さんが静かに頷いた。
その言葉が、なぜかとても自然に胸に落ちた。

愛媛に帰る。

三か月前の私なら、きっとそんな言い方はしなかった。
東京に戻るでも、宿へ戻るでもなく、愛媛に帰る。

その響きが照れくさくて、でも不思議なくらいしっくりきて。
私は遠ざかっていく小豆島と海を見つめながら、次の約束に思いを馳せた。