四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

部屋に入って、私はぐったりとソファに座り込む。

さっきまでの、元婚約者と亮平さんの元カノの件。
あれだけでも、十分すぎるくらい頭が疲れている。
でも、今の私にとってそんなのは、もう小さな問題としか思えない。

今、私を悩ませているのは、部屋の構成。

ベッドは二つある。
ちゃんとツインだ。

ツインだ。
ツインなのだが。
何回確認しても、同じ部屋であることに変わりはない。

「……すみません。手違いで、ここしか空いていなかったようです」
「い、いえ。ツインですし。大丈夫です。大人なので」

自分で言っておいて、何が大丈夫なのかわからない。

大人なので。
大人だからこそ。
むしろ、大人な分だけやぶさかではないような——

なんなら、ワンピースに合わせて下着もちゃんとしてるし……
って、何を考えているの、私は!?

亮平さんは困ったような表情をしている。
そんな顔をさせている原因は、私だということに申し訳なくなる。

「僕はソファで休みます」
「いやいやいや、ベッド二つありますから!」
「念のためです」
「何の念のためですか」
「……いえ」

言いかけて、亮平さんは口を閉じた。
その沈黙が、逆に心臓に悪い。
私は慌てて視線を逸らし、クラッチバッグをぎゅっと握りしめた。
二次会でのことが、まだ頭の中でぐるぐるしている。

元婚約者の淳一。
亮平さんの元カノ。
三次会に抜け出そうぜ、なんて最低な誘い。
そして、亮平さんの声。

『彼女は僕の婚約者ですから』

婚約者。
婚約者。
婚約者。
その言葉が、延々と頭の中で繰り返される。

いや、フリだ。
あれはフリだ。
あの場から逃げるための、恋人のフリから婚約者のフリに昇格しただけ。

昇格って何。
そんな人事異動みたいな言い方でいいのか。

でも、あの時。
亮平さんが私を婚約者だと言ってくれて、確かに救われた。
淳一の言葉に飲み込まれそうになっていた私を、亮平さんがこちら側へ引き戻してくれた気がした。

だから、余計に困る。
嘘だとわかっているのに。
助けるための言葉だとわかっているのに。
その響きがまだ頭の中に残っている。

「美咲さん」
「はいっ!?」

声が裏返った。
亮平さんは驚いたように瞬きをして、それから静かに言った。

「実はずっと、言いたいことがあったんです」
「言いたい、こと……ですか?」

え。
何、この雰囲気。

相部屋に二人きり。
お互い、お酒を飲んだ二次会の帰り。
元婚約者に酷い目に遭わされた、傷心中の二十六歳の女。
しかも、さっきまで婚約者のフリをしていた相手からの「言いたいこと」。

心臓が、嫌なほど速くなる。

「すみません」
「……はい」
「このしゃべるマスコット、ずっと見えていました」
「……はい?」

思考が止まった。
亮平さんの視線は、私の肩の上に向いている。
そこには、みかん色の丸い鳥が、気まずそうに羽をたたんでいた。

「ばれてたんよ」
「いよぴよさん!?」

私は反射的にいよぴよさんを掴んだ。

「見えてる!?亮平さんに!?いつから!?いつからですか!?」
「はっきり見えるようになったのは……美咲さんと初めてお酒を飲んだ日でしょうか」
「そんな前から!?」

酔って、焼き鳥を食べて、日本酒を飲み比べて、元婚約者の愚痴を垂れ流して、最後の記憶が曖昧になったあの日。

最悪。
よりによって、最悪のタイミング。

「最初は少し心配していました」
「何をですか!」
「独り言が多くて……お疲れなのかと」
「疲れてはいましたが、心配の方向性がつらいです!」
「でも、見えるようになってからは、これと話しているんだと理解していました」

これ。
亮平さんの言い方に、いよぴよさんがぷくっと膨らむ。

「これ呼ばわりなんよ。ワシ、愛媛の広報神なんよ」
「黙って。今かなりイラついてる」
「ワシのおかげで、美咲ちゃんの正気が証明されたんよ」
「その前に、あなたが黙っていれば疑われなかったのよ」
「焼き鳥にするん?」
「相部屋じゃなかったら、七輪を買ってでもしてた」
「密室だと一酸化炭素中毒になるんよ」
「現実的な心配をしないで」

私は頭を抱えた。

いつからなのか。
どこからなのか。
何を聞かれていたのか。

いよぴよさんに向かって「焼き鳥にすっぞ」と言ったことも。
「亮平さん、顔がいい」とぼやいたことも。
「デートじゃなくて取材」と必死に言い聞かせていたことも。

いや、待って。
そこまで聞かれていたらまずい。
もう、全部がまずい。
一つもセーフなものがない。

「ふわふわした光が、美咲さんの周りを漂っているのは、度々見えていたんです」
「光……?」
「最初は、光の反射かと思っていました。けれど、あなたが楽しそうに食事をしている時や、取材に夢中になっている時に、よく見えたので」

亮平さんは、困ったように笑った。

「その光が、徐々に大きくなっていって」
「え、何ですかそれ。私、発光してたんですか?」
「正確には、あなたの肩のあたりに」
「それ、間違いなくいよぴよさんじゃないですか!」
「今となっては、そうだったんだと思います」

亮平さんは小さく息をつき、窓の外へ視線を向ける。
小豆島の夜は静かで、遠くに海の気配だけがあった。
窓ガラスには、部屋の明かりと、亮平さんの横顔が薄く映っている。

「好きな人が、光って見えるとか……」

亮平さんは、窓の外を見たまま、小さく呟いた。

「そんな思春期みたいなこと、あるわけないと思っていたんですが」

亮平さんは、こちらを見ないまま続けている。
けれど、何も頭に入らない。
いよぴよさんはずっと、亮平さんにばれていることを知っていたんだ。
道理で、いよぴよさんは亮平さんのことを一切気にせず、がんがん私に話しかけてくるわけだ。

「亮平さん、今何か言いました?」
「いえ、何でもありません。独り言です」
「独り言で済ませるには、不穏な単語が聞こえた気がします」
「美咲さん」
「はい」

亮平さんが、ようやくこちらを見た。
その目が、あまりにも穏やかで、私は続きの言葉を飲み込んでしまう。
どうして黙っていたんですかと、問い詰めるつもりだったのに。
そんな目で見られると、何も言えなくなる。

「見えていることを、言いそびれていました。すみません」
「……怒るところなのか、安心するところなのか、わからないです」

本当にわからなかった。

恥ずかしい。
顔から火が出るほど、ものすごく恥ずかしい。
でも、いよぴよさんを見えていた亮平さんが、それでも私のそばにいてくれたことに、ちゃんと安心できている自分もいる。

いよぴよさんが、ぼそっと言う。

「若旦那、ずっと見えとったのに見えんフリしてたんよ。なかなか策士やけんねぇ」
「いよぴよさん」
「はいなんよ」
「余計なことを言うと、明日の朝食からみかんジュースを抜きます」
「横暴なんよ!?」
「あと、デザートの柑橘も没収です」
「それは神への冒涜なんよ!」

亮平さんといよぴよさんのやり取りに、笑ってしまう。
私といよぴよさんのやり取りも、傍から見たらこんな感じなのだろうか。
さっきまでの緊張が、徐々にほどける。
亮平さんも、ほんのわずかに笑った。

「でも、安心しました」
「何がですか?」
「あなたが、ここに来てからずっと一人で頑張っていたわけではなかったことです」

その言葉に、胸が熱くなった。
一人じゃないというのは、いよぴよさんがいたから、という意味なのか。

「……亮平さんも、いましたよ」

気づいたら、そう言っていた。
慌てて視線を逸らす。
頬が熱い。

「取材に連れて行ってくれたり、車を出してくれたり、色々教えてくれたり。伸びない時も、一緒に考えてくれたり。だから、一人じゃなかったです」

言いながら、だんだん恥ずかしくなる。

何を言っているんだろう。
でも、嘘ではなかった。
愛媛に来た時、私は確かに一人だった。
怪しい内定承諾書に縋って、失業手当も終わって、これからどうするのかもわからなくて。

でも、今は違う。
いよぴよさんがいて。
亮平さんがいて。
私は、知らない土地で、知らないままではなくなっている。

「そう言っていただけるなら、よかったです」

その声があまりに優しくて、私はまた何も言えなくなった。
いよぴよさんが、小さく羽をばたつかせる。

「この空気、ワシ邪魔やけんねぇ」
「今さら!?」
「でも出ていかんけん」
「邪魔だとわかっていて居座るんだ」
「広報神やけん。現場主義なんよ」
「本当に邪魔」

亮平さんが小さく笑った。
その笑い方が、二次会で見せていたものとは違って、肩の力が抜けているように見えた。

その夜、結局それ以上のことは何も起こらなかった。
亮平さんは本当にソファで寝ようとしたけれど、私が全力で止めて、結局ベッドを使ってもらった。
部屋の灯りを落とす時、妙に緊張したけれど、亮平さんは最後まで紳士だった。

紳士すぎて、逆に心臓に悪いくらいに。
けれど、私はベッドに入ってからもなかなか眠れなかった。

亮平さんには、いよぴよさんが見えていた。
そして、好きな人が光って見える、なんて言葉を口にしかけた。

いや、まさか。
そんなこと、あるわけがない。
そう思うのに、隣のベッドの気配がやけに近くなる。

亮平さんは、もう眠っただろうか。
それとも、私と同じように起きているんだろうか。
聞けるはずもないことを考えながら、私は布団の端をぎゅっと握りしめた。

暗い部屋の中、かすかに柑橘の香りがした。
しまなみ海道で作った、あの香水。
そして、微かに感じる、亮平さんの香水の匂い。

その香りが、小豆島の夜の中で、静かに私の胸をざわつかせている。