亮平さんの横顔が固まった気がする。
「みんな面白いこと考えますよね」
「……そうですか」
「あと、その席代わってって」
「代わりません」
「え?」
「運転中ですから」
「あ、はい。そうですね」
運転中だから。
そりゃそうだ。
何も疑問に思うところじゃない。
もう一度コメント欄を見る。
『この距離感、もうデートでは?』
『取材という名のデート』
『愛媛の元カノ、今日は助手席彼女感が強い』
デートじゃないし、元カノなのか、彼女なのか。
いったい私は、ネット上で何人分の記憶を背負っているのだろう。
「うわ……」
「今度は何ですか?」
「取材という名のデートって書かれてます」
言った途端、車内の空気がわずかに静かになった気がした。
私は慌てて続ける。
「もちろん、コメントですから!みんな勝手に言ってるだけで!」
「そうですね」
亮平さんの声は、いつも通り落ち着いている。
でも、ハンドルを握る指先に、ほんの少し力が入ったように見えた。
「美咲さん」
「はい」
「今日、楽しかったですか?」
不意に聞かれて、私はスマホから顔を上げる。
「……楽しかったです」
そこは、迷わなかった。
「取材としても、すごくよかったです。写真も動画もたくさん撮れましたし、投稿も分けて出せますし。香水作りも塩ソフトも、絶対反応いいと思います」
「仕事としては?」
「大成功です」
「では、仕事ではない部分は?」
亮平さんが、こちらに視線を向けると、胸の奥が、変な音を立てた。
「え」
「今日一日、美咲さん自身は楽しかったですか」
なんてことない質問のはずなのに、意味が違って聞こえる。
海が、少しずつ遠ざかっていく。
橋の白い線も、島影も、夕方の光に溶けていく。
答えるまでの数秒が、やけに長かった。
取材としての感想なら、いくらでも言えるのに。
写真が撮れた。投稿に使える。数字が伸びそう。
でも、亮平さんが聞いているのは、たぶんそこではない。
「……楽しかったです。仕事じゃなくても、たぶん、とても楽しかったです」
何も考えずに出た言葉に、恥ずかしくなる。
何を言っているんだろう。
これではまるで、本当にデートだったと言っているみたいじゃないの。
肩の上で、いよぴよさんが小さく囁く。
「若旦那、今のはだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「美咲ちゃんもだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「両思い目前なんよ」
「海に沈めるわよ」
「物騒なんよ!」
通知は、まだ増え続けている。
でも、今日はもう全部を追わなくてもいい気がした。
明日から小分けに投稿する写真は、帰ってからゆっくり選べばいい。
展望台の写真。
神社の楠。
香水の小瓶。
塩ソフト。
たくさんの美味しい食べ物。
どれも、ちゃんと見せたいし、ちゃんと伝えたい。
でも今だけはこの帰り道の余韻を味わっていたい。
松山へ近づく頃、空はすっかり夕方の色になっていた。
車がマンスリーマンションの前に着く。
「今日はありがとうございました」
私はシートベルトを外しながら頭を下げた。
「こちらこそ。お疲れさまでした」
「明日から、しまなみ特集で投稿しますね。まずは展望台、それから神社、香水、塩ソフトの順で」
「楽しみにしています」
「あ、香水」
私は膝の上に置いていた紙袋を持ち上げる。
「本当にありがとうございました。大事に使います」
「はい」
亮平さんは目元をやわらげた。
「よければ、次にお会いする時につけてきてください」
「え」
「せっかく選びましたから」
「……はい」
答えてから、頬が熱くなる。
次に会う時。
その言葉が、妙に甘く聞こえた。
「では、また」
「はい。また」
私は紙袋を抱え直し、車のドアを閉める。
車が走り出すのを見送ってから、ようやく息を吐いた。
肩の上で、いよぴよさんが呆れたように言う。
「若旦那、もう隠す気あるんかねぇ」
「黙って」
「美咲ちゃんも、さすがにそろそろ気づくんよ」
「黙ってってば」
今日一日、取材だった。
でも、記憶に残っているのは、海の青だけじゃない。
スマホを開くと、通知はまだ増えている。
『愛媛の元カノ、しまなみ編きた』
『明日も投稿ある?』
『この子のしまなみ旅、追いたい』
『助手席目線の破壊力すごい』
そのコメントを見て、小さく笑った。
「……明日から、ちゃんと見せるから」
今日見た景色を。
今日食べたものを。
今日、胸が動いたときめきを。
ただし。
亮平さんの手の温度と、香水を渡された時の顔だけは、私の中にしまっておく。
そう決めて、部屋へ戻った。
その夜、写真フォルダを何度も何度も見返して、結局なかなか寝られなかった。
今日撮った写真は四百枚以上。
でも、投稿に使わない写真もある。
二つ並んだ塩ソフト。
香水の小瓶を見つめる私の指先。
車窓に薄く映った亮平さんの横顔。
それから、ピントがぶれているのに、なぜか消せない一枚。
展望台へ向かう道で、繋いだ手元がほんの少しだけ写っていた写真。
たぶん、歩きながらスマホを持ち直した時に、偶然撮れてしまったのだと思う。
手だけ。
誰に見せても、何の写真かわからないかもしれない。
でも、私にはわかる。
あの時の風も、指先の温度も、離す理由を探しながら離さなかった自分のずるさも。
その写真を、そっと非公開のフォルダに移す。
仕事用でも、広報用でもない、今日の私だけの記録として。
眠れない理由が、選ぶ写真が多すぎるから。
そういうことにしておいた。
それだけではないことには、まだ気づかないふりをした。
「みんな面白いこと考えますよね」
「……そうですか」
「あと、その席代わってって」
「代わりません」
「え?」
「運転中ですから」
「あ、はい。そうですね」
運転中だから。
そりゃそうだ。
何も疑問に思うところじゃない。
もう一度コメント欄を見る。
『この距離感、もうデートでは?』
『取材という名のデート』
『愛媛の元カノ、今日は助手席彼女感が強い』
デートじゃないし、元カノなのか、彼女なのか。
いったい私は、ネット上で何人分の記憶を背負っているのだろう。
「うわ……」
「今度は何ですか?」
「取材という名のデートって書かれてます」
言った途端、車内の空気がわずかに静かになった気がした。
私は慌てて続ける。
「もちろん、コメントですから!みんな勝手に言ってるだけで!」
「そうですね」
亮平さんの声は、いつも通り落ち着いている。
でも、ハンドルを握る指先に、ほんの少し力が入ったように見えた。
「美咲さん」
「はい」
「今日、楽しかったですか?」
不意に聞かれて、私はスマホから顔を上げる。
「……楽しかったです」
そこは、迷わなかった。
「取材としても、すごくよかったです。写真も動画もたくさん撮れましたし、投稿も分けて出せますし。香水作りも塩ソフトも、絶対反応いいと思います」
「仕事としては?」
「大成功です」
「では、仕事ではない部分は?」
亮平さんが、こちらに視線を向けると、胸の奥が、変な音を立てた。
「え」
「今日一日、美咲さん自身は楽しかったですか」
なんてことない質問のはずなのに、意味が違って聞こえる。
海が、少しずつ遠ざかっていく。
橋の白い線も、島影も、夕方の光に溶けていく。
答えるまでの数秒が、やけに長かった。
取材としての感想なら、いくらでも言えるのに。
写真が撮れた。投稿に使える。数字が伸びそう。
でも、亮平さんが聞いているのは、たぶんそこではない。
「……楽しかったです。仕事じゃなくても、たぶん、とても楽しかったです」
何も考えずに出た言葉に、恥ずかしくなる。
何を言っているんだろう。
これではまるで、本当にデートだったと言っているみたいじゃないの。
肩の上で、いよぴよさんが小さく囁く。
「若旦那、今のはだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「美咲ちゃんもだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「両思い目前なんよ」
「海に沈めるわよ」
「物騒なんよ!」
通知は、まだ増え続けている。
でも、今日はもう全部を追わなくてもいい気がした。
明日から小分けに投稿する写真は、帰ってからゆっくり選べばいい。
展望台の写真。
神社の楠。
香水の小瓶。
塩ソフト。
たくさんの美味しい食べ物。
どれも、ちゃんと見せたいし、ちゃんと伝えたい。
でも今だけはこの帰り道の余韻を味わっていたい。
松山へ近づく頃、空はすっかり夕方の色になっていた。
車がマンスリーマンションの前に着く。
「今日はありがとうございました」
私はシートベルトを外しながら頭を下げた。
「こちらこそ。お疲れさまでした」
「明日から、しまなみ特集で投稿しますね。まずは展望台、それから神社、香水、塩ソフトの順で」
「楽しみにしています」
「あ、香水」
私は膝の上に置いていた紙袋を持ち上げる。
「本当にありがとうございました。大事に使います」
「はい」
亮平さんは目元をやわらげた。
「よければ、次にお会いする時につけてきてください」
「え」
「せっかく選びましたから」
「……はい」
答えてから、頬が熱くなる。
次に会う時。
その言葉が、妙に甘く聞こえた。
「では、また」
「はい。また」
私は紙袋を抱え直し、車のドアを閉める。
車が走り出すのを見送ってから、ようやく息を吐いた。
肩の上で、いよぴよさんが呆れたように言う。
「若旦那、もう隠す気あるんかねぇ」
「黙って」
「美咲ちゃんも、さすがにそろそろ気づくんよ」
「黙ってってば」
今日一日、取材だった。
でも、記憶に残っているのは、海の青だけじゃない。
スマホを開くと、通知はまだ増えている。
『愛媛の元カノ、しまなみ編きた』
『明日も投稿ある?』
『この子のしまなみ旅、追いたい』
『助手席目線の破壊力すごい』
そのコメントを見て、小さく笑った。
「……明日から、ちゃんと見せるから」
今日見た景色を。
今日食べたものを。
今日、胸が動いたときめきを。
ただし。
亮平さんの手の温度と、香水を渡された時の顔だけは、私の中にしまっておく。
そう決めて、部屋へ戻った。
その夜、写真フォルダを何度も何度も見返して、結局なかなか寝られなかった。
今日撮った写真は四百枚以上。
でも、投稿に使わない写真もある。
二つ並んだ塩ソフト。
香水の小瓶を見つめる私の指先。
車窓に薄く映った亮平さんの横顔。
それから、ピントがぶれているのに、なぜか消せない一枚。
展望台へ向かう道で、繋いだ手元がほんの少しだけ写っていた写真。
たぶん、歩きながらスマホを持ち直した時に、偶然撮れてしまったのだと思う。
手だけ。
誰に見せても、何の写真かわからないかもしれない。
でも、私にはわかる。
あの時の風も、指先の温度も、離す理由を探しながら離さなかった自分のずるさも。
その写真を、そっと非公開のフォルダに移す。
仕事用でも、広報用でもない、今日の私だけの記録として。
眠れない理由が、選ぶ写真が多すぎるから。
そういうことにしておいた。
それだけではないことには、まだ気づかないふりをした。



