四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

亮平さんの横顔が固まった気がする。

「みんな面白いこと考えますよね」
「……そうですか」
「あと、その席代わってって」
「代わりません」
「え?」
「運転中ですから」
「あ、はい。そうですね」

運転中だから。
そりゃそうだ。
何も疑問に思うところじゃない。

もう一度コメント欄を見る。

『この距離感、もうデートでは?』
『取材という名のデート』
『愛媛の元カノ、今日は助手席彼女感が強い』

デートじゃないし、元カノなのか、彼女なのか。
いったい私は、ネット上で何人分の記憶を背負っているのだろう。

「うわ……」
「今度は何ですか?」
「取材という名のデートって書かれてます」

言った途端、車内の空気がわずかに静かになった気がした。
私は慌てて続ける。

「もちろん、コメントですから!みんな勝手に言ってるだけで!」
「そうですね」

亮平さんの声は、いつも通り落ち着いている。
でも、ハンドルを握る指先に、ほんの少し力が入ったように見えた。

「美咲さん」
「はい」
「今日、楽しかったですか?」

不意に聞かれて、私はスマホから顔を上げる。

「……楽しかったです」

そこは、迷わなかった。

「取材としても、すごくよかったです。写真も動画もたくさん撮れましたし、投稿も分けて出せますし。香水作りも塩ソフトも、絶対反応いいと思います」
「仕事としては?」
「大成功です」
「では、仕事ではない部分は?」

亮平さんが、こちらに視線を向けると、胸の奥が、変な音を立てた。

「え」
「今日一日、美咲さん自身は楽しかったですか」

なんてことない質問のはずなのに、意味が違って聞こえる。

海が、少しずつ遠ざかっていく。
橋の白い線も、島影も、夕方の光に溶けていく。
答えるまでの数秒が、やけに長かった。
取材としての感想なら、いくらでも言えるのに。

写真が撮れた。投稿に使える。数字が伸びそう。
でも、亮平さんが聞いているのは、たぶんそこではない。

「……楽しかったです。仕事じゃなくても、たぶん、とても楽しかったです」

何も考えずに出た言葉に、恥ずかしくなる。
何を言っているんだろう。
これではまるで、本当にデートだったと言っているみたいじゃないの。

肩の上で、いよぴよさんが小さく囁く。

「若旦那、今のはだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「美咲ちゃんもだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「両思い目前なんよ」
「海に沈めるわよ」
「物騒なんよ!」

通知は、まだ増え続けている。
でも、今日はもう全部を追わなくてもいい気がした。
明日から小分けに投稿する写真は、帰ってからゆっくり選べばいい。

展望台の写真。
神社の楠。
香水の小瓶。
塩ソフト。
たくさんの美味しい食べ物。

どれも、ちゃんと見せたいし、ちゃんと伝えたい。
でも今だけはこの帰り道の余韻を味わっていたい。

松山へ近づく頃、空はすっかり夕方の色になっていた。

車がマンスリーマンションの前に着く。

「今日はありがとうございました」

私はシートベルトを外しながら頭を下げた。

「こちらこそ。お疲れさまでした」
「明日から、しまなみ特集で投稿しますね。まずは展望台、それから神社、香水、塩ソフトの順で」
「楽しみにしています」
「あ、香水」

私は膝の上に置いていた紙袋を持ち上げる。

「本当にありがとうございました。大事に使います」
「はい」

亮平さんは目元をやわらげた。

「よければ、次にお会いする時につけてきてください」
「え」
「せっかく選びましたから」
「……はい」

答えてから、頬が熱くなる。

次に会う時。
その言葉が、妙に甘く聞こえた。

「では、また」
「はい。また」

私は紙袋を抱え直し、車のドアを閉める。
車が走り出すのを見送ってから、ようやく息を吐いた。

肩の上で、いよぴよさんが呆れたように言う。

「若旦那、もう隠す気あるんかねぇ」
「黙って」
「美咲ちゃんも、さすがにそろそろ気づくんよ」
「黙ってってば」

今日一日、取材だった。
でも、記憶に残っているのは、海の青だけじゃない。

スマホを開くと、通知はまだ増えている。

『愛媛の元カノ、しまなみ編きた』
『明日も投稿ある?』
『この子のしまなみ旅、追いたい』
『助手席目線の破壊力すごい』

そのコメントを見て、小さく笑った。

「……明日から、ちゃんと見せるから」

今日見た景色を。
今日食べたものを。
今日、胸が動いたときめきを。

ただし。
亮平さんの手の温度と、香水を渡された時の顔だけは、私の中にしまっておく。

そう決めて、部屋へ戻った。

その夜、写真フォルダを何度も何度も見返して、結局なかなか寝られなかった。

今日撮った写真は四百枚以上。
でも、投稿に使わない写真もある。

二つ並んだ塩ソフト。
香水の小瓶を見つめる私の指先。
車窓に薄く映った亮平さんの横顔。

それから、ピントがぶれているのに、なぜか消せない一枚。
展望台へ向かう道で、繋いだ手元がほんの少しだけ写っていた写真。

たぶん、歩きながらスマホを持ち直した時に、偶然撮れてしまったのだと思う。
手だけ。
誰に見せても、何の写真かわからないかもしれない。

でも、私にはわかる。
あの時の風も、指先の温度も、離す理由を探しながら離さなかった自分のずるさも。

その写真を、そっと非公開のフォルダに移す。
仕事用でも、広報用でもない、今日の私だけの記録として。

眠れない理由が、選ぶ写真が多すぎるから。
そういうことにしておいた。
それだけではないことには、まだ気づかないふりをした。