四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

大山祇神社を出たあと、亮平さんは車を少し走らせた。

神社の静かな空気が、まだ身体のどこかに残っている。
木々の影。
砂利を踏む音。
手を合わせた時の、心細いような、でも穏やかな感覚。

それが車の揺れに合わせて、ゆっくりほどけていく。
窓の外には、島の道が続いていた。

みかん畑らしい斜面。
低い石垣。
青い空。
ところどころに見える、海のきらめき。

橋の上で見た景色とはまた違う。
島の中を走っていると、海も空も少しだけ生活に近づく気がした。

「予定にはなかったお店に立ち寄っても構いませんか?」
「何のお店なんですか?」
「朝話していた香りのお店です」
「香り……」

一瞬、何のことかわからなかった。

けれど、すぐに思い出す。
今朝、車に乗った時。
柑橘系のシャンプーに変えた話をしたら、亮平さんが顔を寄せてきて、私の髪に触れて。

『甘酸っぱい香りがしますね』

その声が、耳元でよみがえる。

「……あっ」

思い出しただけで、顔が熱くなってしまう。

「美咲さん?」
「いえ、何でもありません!」
「そうですか?」
「はい。とても何でもありません」

肩の上で、いよぴよさんがぼそりと言う。

「思い出し照れなんよ」
「畑に埋めて帰ろうかな」
「みかんの肥料にされるんよ!?」

亮平さんが前を向いたまま、小さく笑った気がした。
もしかして聞こえているのだろうか。
いや、いよぴよさんは見えていないはず。
……はず、なのに。

最近、亮平さんの反応が妙に自然で、少し緊張してしまう。
何もない空間に向かって私が小声でキレても、以前ほど驚かない。
慣れさせてしまったのは私だけれど、それはそれでどうなのだろう。

車は小さな看板の前でゆっくり止まった。

白い壁に、木の扉。
入口のそばには鉢植えの柑橘の木が置かれていて、小さな青い実がいくつかついている。
窓の向こうには、淡い色の瓶が棚に並んでいた。

扉を開けると、ふわりと香りが押し寄せた。

甘いのに、甘すぎない。
鼻の奥が明るくなるような、島の空気をそのまま瓶に詰めたみたいな香り。

「わ……すごい」

声が漏れる。
店内は広くはないけれど、明るくて清潔。
木の棚には小さな精油の瓶が並び、ラベルには柑橘の名前が書かれている。

みかん。
伊予柑。
甘夏。
レモン。
柚子。

知らない名前の柑橘もいくつか。
テーブルの上には、スポイトや小さなビーカー、細長いガラス瓶が整然と並べられている。

「こちらで、オリジナルのアロマ香水を作れるそうです」
「本当に作るんですか?」
「約束しましたから」
「いや、でも、取材ですよね?」
「もちろんです」
「ですよね」

そう言いながら、私の心はかなり浮かれていた。

香水作り。
しかも、島の柑橘を使った香り。

こんなの、女子が好きに決まっている。
少なくとも、私は好き。
とても好き。

「デートなんよ」

肩の上でいよぴよさんが言う。

「取材」
「若旦那からのプレゼントつきなんよ」
「黙って」
「紙袋まで持って帰る未来が見えるんよ」
「予言しないで」

店員さんに案内され、私たちは窓際のテーブルにつく。

まずは、いくつもの精油の香りを試していく。
小さな紙に一滴ずつ香りをつけて、鼻に近づける。

「これは、みかんですね。甘い」
「優しい香りですね」

亮平さんも隣で香りを確かめる。
距離は近い。
けれど、香りを選ぶための距離だ。
そう思わないと、落ち着かない。

「こっちはレモン。すごく爽やか」
「少し鋭い感じがします」
「確かに。朝っぽいです。目が覚める香りというか」
「なるほど」

次は柚子。

「あ、好きです。これ、すごく好き」
「美咲さんは、柚子が好きなんですね」
「はい。甘すぎなくて、苦みもあって。でも明るい感じがします」
「美咲さんらしいですね。明るいけれど、軽すぎない」
「え?」

そんなふうに言われて、指先が止まった。
亮平さんは何事もなかったように、次の香りを試している。

この人は、どうしてこういうことを普通の顔で言えるのだろう。
私はごまかすように、次の紙を手に取った。

「これは……花の香りですか?」
「ジャスミンですね」
「あ、私のシャンプーにも入ってました。たぶん」
「では、少し入れてみましょうか」
「え、亮平さんが決めるんですか?」
「嫌でしたか?」
「嫌じゃないですけど」

むしろ、少し嬉しい。
でもそれを言うのは恥ずかしくて、黙って紙を並べる。

いくつか候補を試したあと、亮平さんは真剣な顔で言った。

「ベースは柚子がいいと思います」
「柚子」
「そこに、少しだけみかん。明るさを足す感じで」
「はい」
「それから、ジャスミンをほんの少し」
「ほんの少しなんですね」
「強すぎると、美咲さんの印象から少し離れる気がします」
「ぷっ。私の印象って何ですか」

聞いてから、しまったと思った。
こういう質問は、自分から沼に足を突っ込む行為だ。
浅瀬に見えて、たぶん深い。
しかも今、隣には沼の管理人みたいな顔をした若旦那がいる。

亮平さんは少し考える。

考えなくていい。
お願いだから、そんな真面目に考えないでほしい。

「よく笑って、よく食べて、よく悩む人です」
「……最後」
「でも、ちゃんと前を向こうとする」

香りの漂う静かな店内で、亮平さんの声だけがやけにはっきり聞こえる。

「だから、甘いだけの香りより、少し苦みや奥行きがある方が似合うと思います」

どう返せばいいのかわからない。
照れればいいのか、喜べばいいのか。
嬉しくて、恥ずかしくて、でも、少し泣きそうにもなる。

私のことを、そんなふうに見てくれていたのかと思うと。
そんな人が、今、隣にいるなんて。

「……亮平さん、香りの話をしてます?」
「しています」
「本当に?」
「はい」

肩の上で、いよぴよさんが首を振る。

「違うんよ」
「何が?」
「若旦那、だいぶ本音混ざっとるんよ」
「まさかぁ」
「美咲ちゃん、現実を見るんよ」
「これでも視力は1.5よ」
「肝心のもんは見えとらんけんねぇ」

亮平さんは、見えていないはずのいよぴよさんの方を一度だけ見た気がした。
気のせいだろうか。

店員さんの説明を聞きながら、私たちは小さなビーカーに精油を落とす。

柚子を三滴。
みかんを二滴。
ジャスミンを一滴。

そこに、やわらかい木の香り。

一滴落とすたびに、空気の色が少し変わる気がした。
甘さだけではない。
爽やかさだけでもない。
いくつもの香りが重なって、少しずつ知らない表情になる。