亀老山展望公園へ向かう前に、駐車場で一度休憩することに。
「少し歩きますから、先にお手洗いを済ませておいた方がいいかもしれません」
「はい。行ってきます」
スマホと小さなバッグだけを持って、急いでトイレへ向かう。
鏡の前で手を洗いながら、ふと自分の顔を見る。
朝より、少し頬が赤い気がする。
……いや、これは暑さのせい。
車の中で亮平さんの私服を見たせいでも、指先で髪に触れられたせいでもない。
絶対に違う。
「違うったら違う」
小さく呟いて、鏡から目を逸らす。
手を拭きながら、深く息を吐いた。
何度息を吐いても、何度深呼吸しても。
それでも、耳の横に残った指先の感触と、低い声の余韻はなかなか消えてくれない。
外へ出ると、亮平さんの姿が見えた。
ただ立っているだけなのに、やっぱり目立つ。
そして案の定というべきか、彼は知らない女性二人に話しかけられていた。
観光客らしい二人組。
一人はスマホを手に、もう一人は少し身を乗り出すようにして亮平さんを見上げている。
盗み聞きのような、そんなつもりはまったくないのに。
でも、風に乗って声が届いてしまう。
「地元の方ですか?」
「はい」
「この辺り、初めてで。よかったら、おすすめの場所とか教えてもらえませんか?」
「展望公園へ行かれるなら、この先の道を上がると——」
亮平さんは、いつも通り丁寧に答えている。
親切。
旅館の若旦那。
観光地の人。
地元の人として、困っている観光客に道を教えているだけ。
わかっている。
わかっているのに、胸の奥がむずむずした。
喉のあたりに、小さな棘が引っかかったみたいに落ち着かない。
さらに女性の一人が声を弾ませる。
「お兄さんも今から行くんですか?よかったら一緒に——」
そう言いながら、彼の腕に手を伸ばそうとしているのを見た途端、我慢できずに足が勝手に動く。
「亮平さんっ!」
自分でも驚くくらい明るい声だった。
亮平さんがこちらを振り向き、女性たちも一斉に私を見る。
その視線に一度だけ怯みそうになったけれど、もう止まれない。
私は亮平さんの隣まで行き、勢いのまま彼の手を取り、腕を引き寄せる。
ただ掴むだけのつもりだった。
本当に、それだけのつもりだったのに。
なぜか指と指が絡んでいた。
いわゆる、恋人繋ぎというやつで。
「……っ」
やった。
やってしまった。
身体の内側で、遅れて悲鳴が上がる。
でも、ここで離したら余計におかしい。
私は彼女役だし、虫除け契約であって、業務でもある。
そう、彼との約束の業務である。
業務上必要な恋人繋ぎ。
そんな言葉がこの世に存在するかどうかは、今は考えない。
「お待たせしました。行きましょう?」
なるべく自然に言った、つもり。
けれど、自分の声は少し上ずっていたかもしれない。
亮平さんは驚いたような表情の後、私の手を見て、女性たちを見て、もう一度私を見る。
「……そうですね。行きましょうか、美咲さん」
やわらかい声のあと、その呼び方が、いつもより甘く聞こえた。
亮平さんの指が、私の指をそっと握り返す。
女性たちは「あ、彼女さん……」と小さく呟いて、気まずそうに道を譲った。
その横を通り過ぎる間、顔を上げられない。
だって、手が。
亮平さんの手が、思っていたより大きくて、指先があたたかくて。
しかも、こちらから繋いでしまったせいで、離すタイミングが完全にわからない。
少し離れたところまで歩いて、私はようやく小声で言った。
「あ、あの、すみません。咄嗟に……」
「助かりました。断るタイミングを探していましたので」
「そう、ですか」
むずむずが薄くなったことに気づいて、今度は別の意味で落ち着かない。
よかった。
本当に困っていたなら、助けられてよかった。
そう思ったはずなのに、純粋な気持ち以外のなにかに気が付きそうになってしまう。
それが一番まずい。
「ヤキモチやけんねぇ」
「違う」
「でも、顔が怖かったんよ」
「唐揚げにするぞ」
「八つ当たりなんよ」
「八つ裂きの方がいいの?」
「発想が物騒なんよ」
亮平さんが、こちらを見ている。
「美咲さん」
「はい」
「不快でしたか?僕が、他の女性と話していたことが」
そんなふうに真正面から聞かれると思わなくて、言葉に詰まる。
「べ、別に、不快とかでは……」
「では?」
「その……フリとはいえ、一応、私は亮平さんの彼女役なので」
何を言っているんだ私は。
彼女役。
虫除け。
契約。
便利な言葉を並べれば並べるほど、自分の気持ちを隠すために使っているみたいで、余計に落ち着かない。
「だから、ああいう時は、ちゃんと呼んでください。虫除け役なんですから」
「わかりました。次からは、ちゃんと呼びます。美咲さん」
その声がやっぱり甘く聞こえて、心臓がまた変な音を立てる。
肩の上で、いよぴよさんが小さく呟く。
「彼女役、便利な言葉なんよ」
私は聞こえなかったことにした。
だって、そうしないと……私だけ役で済まなくなってしまう。
そうして、展望台へ向かう道を歩き出すけれど、問題はまだ残っていた。
手が、離れていない。
「あの、亮平さん」
「はい」
「もう、誰も見ていないので……」
そう言いながら、そっと手を引こうとする。
でも、離れない。
亮平さんの指が、私の指をやわらかく包んだまま、時折親指が手の甲をなぞる。
「この先、階段があります。人も多いですし、足元も少し危ないですから」
「なるほど。危ないなら仕方ないですね」
「はい。仕方ありません」
絶対、仕方ないと思っていない。
そして私も、強く離そうとはしていない。
指先をほどこうと思えば、たぶんほどける。
けれど、そうしない理由を探している。
階段。
人混み。
足元。
危ないから。
理由があれば、もう少しだけ繋いでいても許される気がした。
展望台へ向かう道は、思っていたよりも静かだった。
木々の間を抜ける風が、葉を揺らす。
遠くで鳥の声がする。
足元の道はゆるやかに上っていて、歩くたびに海の匂いが近づいてくるような気がした。
そして、視界が開けた。
「……わぁ」
言葉を失う。
目の前に、瀬戸内海が広がっていた。
さっき車で渡ってきた来島海峡大橋が、白い線のように海の上へ伸びている。
島と島のあいだを、船がゆっくりと進んでいる。
海はただ青いだけではなく、場所によって深くなったり、光を受けて銀色にきらめいたりしていた。
空と海と島が、何層にも重なっている。
写真で見た景色のはずだった。
でも、全然違う。
写真の中では一枚の絵だったものが、ここでは風も光も音も持っている。
遠くの船が進む速度まで、ちゃんと今この場所の時間として流れている。
「写真で見たより、ずっと広いです」
ぽつりと呟くと、隣で亮平さんが言った。
「写真では、風までは写りませんから」
その言葉通り、風が頬に触れる。
海から吹いてくる少し湿った風。
木々を抜けて届く、柔らかい風。
髪を揺らし、浴びているだけで体全体が少し軽くなるような風。
「若旦那、今日ちょいちょいポエムなんよ」
肩の上でいよぴよさんが言うけれど、そんな言葉に突っ込むのも失礼なほどの絶景。
ただ、繋いだ手を握り直す。
そのことに気づいて、景色を見ているふりをしたまま、ますます顔が熱くなる。
「……写真、撮らないと」
「撮りましょうか」
「え?」
「美咲さんが景色を見ているところも、広報素材になると思います」
「私ですか?」
「はい」
「景色だけで十分では?」
「景色を見ている人の表情があると、行ってみたいと思う方も増えると思います」
正論なのに、亮平さんに撮られると思うと、急に落ち着かなくなる。
実際にここ数日は、私が食べている写真と、食べ物だけの写真では、明らかに食べている写真の方が反応がいい。
それは、もう圧倒的なほど。
景色も、ただきれいに撮るだけでは伝わらないのかもしれない。
そこに立った人が何を感じたのか、行ったらどんな気持ちになるのか。
その入口になるものが、表情なのかもしれない。
「変な顔だったら消してくださいね」
「変な顔にはならないですよ」
「またそういうことを……」
「本当のことです」
さらりと言われて、言葉が詰まる。
亮平さんがスマホを構える。
来島海峡大橋。
島影。
きらめく海。
隣には、亮平さん。
手は、まだ繋がったまま。
仕事。
取材。
広報素材。
もう数えきれないくらい繰り返し唱えても、繋いだ指先から伝わる熱のせいで、全然うまくいかない。
「美咲さん」
「はい」
「楽しそうです」
シャッター音が、小さく鳴った。
私は海を見たまま、返す。
「……楽しいです」
それは、仕事用の言葉なんかじゃない。
本当に、楽しい。
しまなみ海道を見られて、よかった。
この景色を、誰かに伝えたいと思えたことも、よかった。
愛媛に来て、よかった『かも』なんて、もう言えない。
そして。
今、隣にいるのが亮平さんでよかった。
そう思ってしまったことだけは、まだ誰にも言えない。
「少し歩きますから、先にお手洗いを済ませておいた方がいいかもしれません」
「はい。行ってきます」
スマホと小さなバッグだけを持って、急いでトイレへ向かう。
鏡の前で手を洗いながら、ふと自分の顔を見る。
朝より、少し頬が赤い気がする。
……いや、これは暑さのせい。
車の中で亮平さんの私服を見たせいでも、指先で髪に触れられたせいでもない。
絶対に違う。
「違うったら違う」
小さく呟いて、鏡から目を逸らす。
手を拭きながら、深く息を吐いた。
何度息を吐いても、何度深呼吸しても。
それでも、耳の横に残った指先の感触と、低い声の余韻はなかなか消えてくれない。
外へ出ると、亮平さんの姿が見えた。
ただ立っているだけなのに、やっぱり目立つ。
そして案の定というべきか、彼は知らない女性二人に話しかけられていた。
観光客らしい二人組。
一人はスマホを手に、もう一人は少し身を乗り出すようにして亮平さんを見上げている。
盗み聞きのような、そんなつもりはまったくないのに。
でも、風に乗って声が届いてしまう。
「地元の方ですか?」
「はい」
「この辺り、初めてで。よかったら、おすすめの場所とか教えてもらえませんか?」
「展望公園へ行かれるなら、この先の道を上がると——」
亮平さんは、いつも通り丁寧に答えている。
親切。
旅館の若旦那。
観光地の人。
地元の人として、困っている観光客に道を教えているだけ。
わかっている。
わかっているのに、胸の奥がむずむずした。
喉のあたりに、小さな棘が引っかかったみたいに落ち着かない。
さらに女性の一人が声を弾ませる。
「お兄さんも今から行くんですか?よかったら一緒に——」
そう言いながら、彼の腕に手を伸ばそうとしているのを見た途端、我慢できずに足が勝手に動く。
「亮平さんっ!」
自分でも驚くくらい明るい声だった。
亮平さんがこちらを振り向き、女性たちも一斉に私を見る。
その視線に一度だけ怯みそうになったけれど、もう止まれない。
私は亮平さんの隣まで行き、勢いのまま彼の手を取り、腕を引き寄せる。
ただ掴むだけのつもりだった。
本当に、それだけのつもりだったのに。
なぜか指と指が絡んでいた。
いわゆる、恋人繋ぎというやつで。
「……っ」
やった。
やってしまった。
身体の内側で、遅れて悲鳴が上がる。
でも、ここで離したら余計におかしい。
私は彼女役だし、虫除け契約であって、業務でもある。
そう、彼との約束の業務である。
業務上必要な恋人繋ぎ。
そんな言葉がこの世に存在するかどうかは、今は考えない。
「お待たせしました。行きましょう?」
なるべく自然に言った、つもり。
けれど、自分の声は少し上ずっていたかもしれない。
亮平さんは驚いたような表情の後、私の手を見て、女性たちを見て、もう一度私を見る。
「……そうですね。行きましょうか、美咲さん」
やわらかい声のあと、その呼び方が、いつもより甘く聞こえた。
亮平さんの指が、私の指をそっと握り返す。
女性たちは「あ、彼女さん……」と小さく呟いて、気まずそうに道を譲った。
その横を通り過ぎる間、顔を上げられない。
だって、手が。
亮平さんの手が、思っていたより大きくて、指先があたたかくて。
しかも、こちらから繋いでしまったせいで、離すタイミングが完全にわからない。
少し離れたところまで歩いて、私はようやく小声で言った。
「あ、あの、すみません。咄嗟に……」
「助かりました。断るタイミングを探していましたので」
「そう、ですか」
むずむずが薄くなったことに気づいて、今度は別の意味で落ち着かない。
よかった。
本当に困っていたなら、助けられてよかった。
そう思ったはずなのに、純粋な気持ち以外のなにかに気が付きそうになってしまう。
それが一番まずい。
「ヤキモチやけんねぇ」
「違う」
「でも、顔が怖かったんよ」
「唐揚げにするぞ」
「八つ当たりなんよ」
「八つ裂きの方がいいの?」
「発想が物騒なんよ」
亮平さんが、こちらを見ている。
「美咲さん」
「はい」
「不快でしたか?僕が、他の女性と話していたことが」
そんなふうに真正面から聞かれると思わなくて、言葉に詰まる。
「べ、別に、不快とかでは……」
「では?」
「その……フリとはいえ、一応、私は亮平さんの彼女役なので」
何を言っているんだ私は。
彼女役。
虫除け。
契約。
便利な言葉を並べれば並べるほど、自分の気持ちを隠すために使っているみたいで、余計に落ち着かない。
「だから、ああいう時は、ちゃんと呼んでください。虫除け役なんですから」
「わかりました。次からは、ちゃんと呼びます。美咲さん」
その声がやっぱり甘く聞こえて、心臓がまた変な音を立てる。
肩の上で、いよぴよさんが小さく呟く。
「彼女役、便利な言葉なんよ」
私は聞こえなかったことにした。
だって、そうしないと……私だけ役で済まなくなってしまう。
そうして、展望台へ向かう道を歩き出すけれど、問題はまだ残っていた。
手が、離れていない。
「あの、亮平さん」
「はい」
「もう、誰も見ていないので……」
そう言いながら、そっと手を引こうとする。
でも、離れない。
亮平さんの指が、私の指をやわらかく包んだまま、時折親指が手の甲をなぞる。
「この先、階段があります。人も多いですし、足元も少し危ないですから」
「なるほど。危ないなら仕方ないですね」
「はい。仕方ありません」
絶対、仕方ないと思っていない。
そして私も、強く離そうとはしていない。
指先をほどこうと思えば、たぶんほどける。
けれど、そうしない理由を探している。
階段。
人混み。
足元。
危ないから。
理由があれば、もう少しだけ繋いでいても許される気がした。
展望台へ向かう道は、思っていたよりも静かだった。
木々の間を抜ける風が、葉を揺らす。
遠くで鳥の声がする。
足元の道はゆるやかに上っていて、歩くたびに海の匂いが近づいてくるような気がした。
そして、視界が開けた。
「……わぁ」
言葉を失う。
目の前に、瀬戸内海が広がっていた。
さっき車で渡ってきた来島海峡大橋が、白い線のように海の上へ伸びている。
島と島のあいだを、船がゆっくりと進んでいる。
海はただ青いだけではなく、場所によって深くなったり、光を受けて銀色にきらめいたりしていた。
空と海と島が、何層にも重なっている。
写真で見た景色のはずだった。
でも、全然違う。
写真の中では一枚の絵だったものが、ここでは風も光も音も持っている。
遠くの船が進む速度まで、ちゃんと今この場所の時間として流れている。
「写真で見たより、ずっと広いです」
ぽつりと呟くと、隣で亮平さんが言った。
「写真では、風までは写りませんから」
その言葉通り、風が頬に触れる。
海から吹いてくる少し湿った風。
木々を抜けて届く、柔らかい風。
髪を揺らし、浴びているだけで体全体が少し軽くなるような風。
「若旦那、今日ちょいちょいポエムなんよ」
肩の上でいよぴよさんが言うけれど、そんな言葉に突っ込むのも失礼なほどの絶景。
ただ、繋いだ手を握り直す。
そのことに気づいて、景色を見ているふりをしたまま、ますます顔が熱くなる。
「……写真、撮らないと」
「撮りましょうか」
「え?」
「美咲さんが景色を見ているところも、広報素材になると思います」
「私ですか?」
「はい」
「景色だけで十分では?」
「景色を見ている人の表情があると、行ってみたいと思う方も増えると思います」
正論なのに、亮平さんに撮られると思うと、急に落ち着かなくなる。
実際にここ数日は、私が食べている写真と、食べ物だけの写真では、明らかに食べている写真の方が反応がいい。
それは、もう圧倒的なほど。
景色も、ただきれいに撮るだけでは伝わらないのかもしれない。
そこに立った人が何を感じたのか、行ったらどんな気持ちになるのか。
その入口になるものが、表情なのかもしれない。
「変な顔だったら消してくださいね」
「変な顔にはならないですよ」
「またそういうことを……」
「本当のことです」
さらりと言われて、言葉が詰まる。
亮平さんがスマホを構える。
来島海峡大橋。
島影。
きらめく海。
隣には、亮平さん。
手は、まだ繋がったまま。
仕事。
取材。
広報素材。
もう数えきれないくらい繰り返し唱えても、繋いだ指先から伝わる熱のせいで、全然うまくいかない。
「美咲さん」
「はい」
「楽しそうです」
シャッター音が、小さく鳴った。
私は海を見たまま、返す。
「……楽しいです」
それは、仕事用の言葉なんかじゃない。
本当に、楽しい。
しまなみ海道を見られて、よかった。
この景色を、誰かに伝えたいと思えたことも、よかった。
愛媛に来て、よかった『かも』なんて、もう言えない。
そして。
今、隣にいるのが亮平さんでよかった。
そう思ってしまったことだけは、まだ誰にも言えない。



