四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

車が静かに走り出すと、マンションの前の道を抜け、松山の町を離れていく。

「お仕事、大丈夫でしたか?」
「ゴールデンウィークはさすがに大変でしたけど、やっと落ち着きました」
「すみません、せっかくのお休みなのに」
「いえ、今日があるから、頑張れたので」

それって……亮平さんも、しまなみ海道に行くのが楽しみってことなんだろうか。
それとも、私と会えるから……?

なんて、自惚れられたらいいのに。

そんな思いを振り払うように窓の外を見ると、見慣れ始めた路面電車の線路と、朝の光を受けた街並みが流れていく。
三月に来たばかりの頃は、どこを見ても知らない場所だった。
それなのに今では、「あ、この角を曲がるとあのお店がある」とわかるようになっている。

それが、なんだか不思議で仕方ない。
私、本当に愛媛で生活しているんだ。

「しまなみ海道って、どうやって行くんですか?」

そう尋ねると、亮平さんは前を見たまま答えた。

「まずは今治へ向かいます。そこから来島海峡大橋を渡って、大島、大三島あたりまで」
「おお……地名だけで旅感がすごい」
「しまなみ海道は初めてでしたよね」
「はい。名前は知ってましたけど、ちゃんと行くのは初めてです」
「実際に見ると、もっと印象が変わると思いますよ」

亮平さんは、愛媛の話をする時、声の温度が少し変わる。
旅館の話をする時もそうだけど、ただ説明しているだけではない。
自分の大事なものを、そっと手渡そうとしている人の声になる。

「亮平さん、今日はなんだか嬉しそうですね」

そう言うと、亮平さんがこちらをちらりと見た。

「そう見えますか?」
「見えます」
「それは……そうですね。美咲さんに見ていただきたい景色が多いので」

さらっと言われて、言葉に詰まる。

見ていただきたい景色。
それは、たぶん広報担当としての私に言っているのだ。
うん。そうだ。
取材だから。仕事だから。
間違っても、休日に好きな人をドライブへ連れていく男の人の台詞だと思ってはいけない。

「取材ですもんね」
「はい。取材です」
「ですよね」

肩の上で、いよぴよさんが小さく笑う。

「言い聞かせとるんよ」
「うるさい」
「何か?」
「いえ、何でもありません」

もうこのやり取りにも、亮平さんはだいぶ慣れてしまった気がする。
最近は、私が何もない空間に向かって小声で文句を言っても、あまり驚かない。
それはそれで、人としてどうなのか。
いや、慣れさせた私が言うことではないのだけれど。

車は郊外へ出ていくにつれ、建物の密度が少しずつ低くなり、道の両側に緑が増えていく。
遠くの山が、少しずつ近づいてくる。
東京にいた頃は、移動といえば地下鉄か満員電車だった。
窓の外をゆっくり見る余裕なんて、ほとんどなかった。
あったとしても、次の乗り換えや、会社に着いたら返さなければいけないメールのことを考えていた。

でも今は、助手席から景色を見ている。
しかも、亮平さんの隣で。

亮平さんの運転は静かで、急に加速することも、無理に車線を変えることもない。
ハンドルを持つ手も、姿勢も、いつもの接客と同じくらい落ち着いている。
ただ、今日は私服だからか、その落ち着きが違って見えた。

「運転、慣れてますね」
「旅館の送迎もありますから」
「ああ、そうでしたね。駅まで迎えに来てくれましたもんね。私が来た日も」
「駅弁を食べすぎて、ベンチで倒れかけていた日ですね」
「その記憶……いい加減忘れてもよいかと」
「印象的でしたので」

亮平さんが、ほんの少し笑った。

その笑い方が、仕事中に見せるものよりやわらかい。
旅館の羽織も、ネクタイもないからだろうか。
今日は亮平さんが、いつもより近く見える。

白いシャツの袖口。
ハンドルに添えられた長い指。
横顔にかかる朝の光。

見てはいけないと思うほど、見てしまう。
視線を逸らそうとして、結局また戻ってしまう。

「美咲さん?」
「はい!?」
「酔っていませんか?」
「酔ってません!全然!」
「そうですか。顔が赤いように見えたので」
「朝日です」
「まだ横からは差していませんが」
「心の朝日です」
「心の」

いよぴよさんが肩で腹を抱えるように震えた。

「苦しい言い訳なんよ」
「黙って」
「心の朝日は初耳やけんねぇ」
「橋の途中で置いていく」
「しまなみ前に置いていかれるんよ!?」

亮平さんは、前を向いたまま口元だけで笑っている。
見えていないはずなのに、たまに全部わかっているような顔をするから困る。

「少し先のサービスエリアで休憩しましょうか」
「えっ、もうですか?」
「今日は移動が長いですから。無理はしない方がいいです」
「そんなに気を遣わなくても大丈夫ですよ」
「僕が気を遣いたいだけです」
「……そういう言い方、勘違いしちゃいそうです」
「そうですか?」
「そうです」

亮平さんは答えず、ただ目元をやわらげた。

本当にずるい。
そういう言い方をされたら、これ以上強く断れない。

「しまなみ海道って、やっぱり海がすごいんですか?」

気を紛らわせるように、私は窓の外へ顔を向ける。

「海もきれいですが、橋を渡る感覚が独特です。島と島を、空の上を走るように渡っていくので」
「空の上ですか?」
「大げさに聞こえるかもしれませんが、初めてならそう感じると思います」
「楽しみです」

その言葉は、仕事用の返事ではない気がした。

本当に楽しみだった。
愛媛に来たばかりの私は、松山駅のベンチで駅弁とじゃこ天に敗北していたのに。
失業手当は終わり、転職活動は全滅し、怪しい内定承諾書に縋るようにしてここまで来た。

それが今、しまなみ海道へ向かっている。
助手席には私。
運転席には亮平さん。
肩には、胡散臭い広報神。

状況だけ並べると、意味がわからない。

でも。

「……愛媛に来てよかったかも」

小さく呟いたつもりだった。
けれど、亮平さんには聞こえていたらしい。

「そう思っていただけたなら、よかったです」
「……まだ『かも』です」
「はい」
「今日の取材次第です」
「では、気に入っていただけるよう頑張ります」
「亮平さんが頑張るところなんですか?」
「案内役ですから」

肩の上で、いよぴよさんがすかさず言う。

「彼氏役でもあるんよ」
「黙って」
「虫除け契約中やけんねぇ」
「あなたは広報神なんだから、もう少し仕事に集中して」
「今、恋愛広報中なんよ」
「そんな部署はない」
「作ればええんよ」
「作らない」

そんなふうに言い合っているうちに、道の先が少し開けた。
窓の外へ向けたスマホのカメラを、そっと起動する。
まだ海は見えない。
それでも、山の稜線と青くなり始めた空の境目を残しておきたくなった。

「もう撮るんですか?」
「予告編みたいなものです。海が見える前のわくわくも、たぶん後で使えるので」
「いいですね」

短い相槌なのに、亮平さんにそう言われると、画面を覗く指先に少し力が入る。
ちゃんと見てくれている。
その安心感が、いつの間にか当たり前みたいになっていることに気づいて、怖くなる。