四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

目の前の炭火の上で、鶏肉がじゅうじゅうと音を立てていた。
串に刺されたもも肉の表面が、火に炙られて少しずつ色を変えていく。
白っぽかった脂が透明に溶け、皮の端からぷくりと泡のように浮かんだかと思うと、ぽたりと炭へ落ちた。

ぱち、と小さく火が跳ねる。
香ばしい煙がふわりと立ち上がり、醤油だれの甘い匂いと、焼けた脂の匂いが鼻をくすぐった。

「……これは、だめな匂いです」
「だめ、ですか」
「全身で浴びたい!人間の理性を奪う匂いです」

そう言いながら、私はすでに箸を持つ準備をしていた。
目の前にあるのは、塩とたれの二種類。
塩を振られた鶏は、表面がかりっと焼けているのに、中は見るからにふっくらしている。
たれをまとった方は、つやつやと濃い飴色に光っていて、炭火の赤を映しているみたいだった。

「美咲さん、目が真剣です」
「仕事ですから」
「箸の角度が、完全に食べる時のものですが」
「仕事です」

言い切ったところで、店員さんが細長い木の板に乗せた飲み比べセットを運んできた。

小さな升に立てられた、金色の縁取りがある繊細なグラス。
そこに、透明な酒がなみなみと注がれている。
表面張力で、今にもこぼれそうなほど盛り上がった液面が、店内の灯りを受けてきらりと光った。

「きれい……!」

声がこぼれる。
日本酒って、もっとおじさんが渋い顔で飲むものだと思っていた。
少なくとも、私の中ではテレビドラマの頑固な板前か、年末の親戚の集まりにいるおじさんの飲み物だった。
でも目の前のそれは、宝石みたいにきれい。
透明なのに、ちゃんと華がある。

「そうですね。乾杯しましょうか」
「はいっ」

こぼさないように、そっとグラスを持ち上げる。
指先が少し緊張する。
亮平さんのグラスと合わせると、ちん、と澄んだ音がした。
居酒屋のざわめきの中でも、その音だけは不思議とはっきり耳に残る。

「乾杯」
「かんぱ~い」

まずは、いちばん淡い香りのものから口に含む。

「……ほぅ」

自分でも変な声が出た。

「私、日本酒苦手だったんですけど、これはすごい飲みやすいです」
「それはよかった」
「なんか、透明なのに味があります」

口に入れた時はふわっとやわらかくて、あとから米の甘みがゆっくり広がる。
飲み込むと、喉の奥に残るのはアルコールの強さではなく、すっと抜けるような清々しさ。

「水みたいなのに、水じゃないというか」
「危ない感想です。飲みすぎますよ」
「気をつけます」

そう言いながら、二口目を飲んだ。
気をつける気は、たぶんあまりなかった。

そこへ、焼き上がった鶏が皿に置かれる。
炭火の香りをまとった湯気が、ゆっくり立ちのぼった。

最初は塩。
箸で持ち上げると、表面の皮がぱりっと音を立てた。
噛んだ途端、香ばしさと肉汁が同時に押し寄せる。

「……あっつ!」

でも、美味しい。
塩だけなのに、鶏の甘みがわかる。
脂はしっかりあるのに、しつこくない。
炭の香りがほんの少しついていて、それがまたお酒と合う。

「これ、反則です」
「何がですか」
「お酒をおかわりさせる気です!」
「焼き鳥屋なので」
「正しい営業努力ですね」

次に、たれの方を食べる。
甘辛いたれが焦げたところは、少しほろ苦い。
皮の脂とたれの甘みが舌の上で混ざって、そこに日本酒をひと口。

「……だめです」
「だめなんですか?」
「お酒と焼き鳥、無限ループしてしまいます」
「だから言ったでしょう」

亮平さんが苦笑する。
その顔を見て、胸のどこかがゆるむ。

この一か月、恋人のフリをしている。
手をつないで歩くことも、名前で呼ばれることも、前よりは慣れた。
慣れたはずなのに、こうして向かい合ってお酒を飲んでいると、うっかり気持ちが変わってしまいそうになる。

でも、夜には炭火焼き屋さんの取材がある。
そう思わないと、亮平さんの視線をまっすぐ受け止められない。

私は慌ててスマホを手に取った。
食べる前に撮る。
飲む前に撮る。
仕事。これは仕事だ。まるで免罪符のように。

炭火の上で脂が落ちるところ。
たれの照り。
グラスの透明感。
升の木目。
焼きたての湯気。
皿の端に添えられた柚子胡椒まで、全部美味しそうに見える。

「よかったら、僕が撮りましょうか?」
「いいんですか?」
「はい」

亮平さんが、私のスマホを受け取る。
長い指が画面に触れるのを見て、なぜか自分のスマホなのに妙に落ち着かない。
ロックを解除して渡すだけのことに、変な緊張が混ざる。

「動画も撮っても?」
「動画、ですか?」

動画か。
今までは写真ばかりだったけれど、確かにこの光景は静止画だけではもったいない。

脂が落ちて火が跳ねるところ。
グラスを傾けた時のきらめき。
焼きたてを頬張って、たぶんものすごくわかりやすく幸せそうな顔をするところ。

……最後はいらないかもしれない。

「私の顔は、できれば控えめでお願いします」
「なぜですか」
「食べてる時の私は、たぶん広報官ではなく、ただの食いしん坊なので」
「そこがいいと思います」
「そんなことを思うの、亮平さんだけですよ?」
「美味しいものを美味しそうに食べる人がいると、見ている方も食べたくなります」
「また、そういうことをさらっと……」

言いかけて、私は口を閉じた。
亮平さんは本気で仕事の話をしている。
たぶん。
きっと。

「では、短めに撮りますね」
「お願いします。事故映像にならない範囲で」
「事故にはしません」

亮平さんがスマホを構える。
私は箸を持ち直し、焼きたての鶏を前に小さく息を吸った。

仕事。
これは仕事。
けれど、炭火の匂いと日本酒の甘さと、向かい側からこちらを見ている亮平さんの視線が混ざると、その言い訳は心もとなかった。

お酒が入っているせいか、いつもより頬が熱くなる。

愛媛に来てから、いろんな美味しいものを食べてきた。
鯛めし。
じゃこ天。
柑橘スイーツ。
旅館の朝食。

でも、お酒と一緒にゆっくり味わうのは、これが初めてだった。

二杯目は、少し甘い香りのする酒だった。
口に含むと、果物みたいな丸みがあって、後味がやさしい。
最初に飲んだものよりもふわっとしていて、舌の上に残る甘さまできれい。

三杯目は、すっきりしていた。
冷たい水のように入ってくるのに、飲み込んだあとで、舌の奥に米の旨みが残る。

四杯目は、少し辛口。
最初はきりっとしているのに、鶏の脂を流すと、途端に喉が軽くなる。
焼きたての香ばしさが、また次のひと口を呼んでくる。

「日本酒って、全部同じ味だと思ってました」
「怒られますよ」
「今なら土下座して謝れます。日本酒の皆様、すみませんでした」
「日本酒の皆様」

亮平さんが小さく笑った。
その笑い声まで、いつもより少し近く聞こえる。

普段なら、ここで「取材メモを残さなきゃ」とスマホに手を伸ばすところだ。
けれど今は、グラスのふちについた水滴や、炭火の赤い揺れをただ眺めていたい。
仕事で来ているはずなのに、目の前の時間が妙に心地いい。

そこへ、果物をたっぷり使ったサワーも運ばれてくる。

みかん。
柚子。
檸檬。
それから、キウイ。

「愛媛って、みかんだけじゃないんですね」
「柑橘はもちろんですが、キウイも有名ですよ」
「キウイまで……?」

グラスの中で、薄く切られた果物が氷の間に揺れている。
みかんのサワーは、ひと口飲んだだけで果汁の甘みがぱっと広がった。
柚子は香りが強くて、鼻に抜ける。
檸檬はすっきりしていて、焼き鳥の脂を気持ちよく切ってくれる。
キウイは思ったよりやわらかくて、甘酸っぱくて、とろりとしていた。

「……これ、危険です」
「今日だけで何回目の危険ですか」
「危険なものが多すぎるんです、危険地帯だらけです愛媛」
「気に入っていただけて何よりです」
「気に入りすぎて困ってます」