「引っ越しをするんですか?」
「え?」
「すみません、賃貸情報が見えたので」
曽我部さんの視線の先を追って、私は慌てて鞄の中のクリアファイルを取り出した。
市役所でもらった書類や、契約関係の紙に紛れて、いくつか印刷してきた賃貸情報が挟まっている。
「ああ……そうですね。マンスリーだとやっぱり、あまり休まらないですし」
いくつかの物件情報をパラパラとめくる。
間取り図と家賃、駅からの距離。駐車場あり、なし。築年数。
東京で部屋を探していた時と同じ項目を見ているはずなのに、数字の感触がまるで違う。
「車も必要なのかなぁ……とか」
「いい物件はありましたか?」
「でも、契約期間は半年なんで……半年後には東京に戻るかもって考えると、悩んじゃいますね」
そう言うと、曽我部さんは考えるように、テーブルの上の物件情報へ視線を落とした。
「瀬川さん」
「はい」
「松山は四国版の住みたい街ランキングで、六年連続一位なんです」
「……急にプレゼンが始まりましたね」
「事実です」
曽我部さんは真顔だった。
さっきまで穏やかにスイーツを勧めていた人と同じとは思えないくらい、声に迷いがない。
「しかも、二位は東京二十三区です」
「東京から来た女に、東京に勝った話をします?」
「します」
「強火ですね」
思わず笑ってしまう。
曽我部さんは、さらに続けた。
「それに、愛媛は通勤時間が短く、自由に使える時間が長い県としても紹介されています」
「通勤時間……」
その言葉に、走馬灯のように通勤時間のことが思い出される。
東京で働いていた頃の私は、朝の満員電車に押し込まれ、帰りは終電近く、駅から部屋までの道を半分寝ながら歩いていた。
通勤だけで、毎日かなり削られていた気がする。
時間だけじゃない。
体力も、気力も、何かを好きだと思う余裕も。
「松山は、街の規模がちょうどいいんです。中心部に仕事や買い物の場所があって、少し行けば温泉があって、車を走らせれば海も山もあります」
「海も山も温泉も近い……」
「はい」
「強欲セットですね」
「そういう言い方もできますね」
曽我部さんが、少しだけ笑いながらプレゼンを続ける。
「あと、今治は住みたい田舎ランキングで、人口十万人以上二十万人未満の街の全四部門一位を取っています」
「全四部門!?」
「総合、若者世代・単身者、子育て世代、シニア世代です」
「全年代に刺してくるじゃないですか」
「しかも四年連続四冠です」
「強豪校みたいな言い方」
「実際、強いんです」
「曽我部さん、愛媛の話になると圧が強いですね」
「地元ですから」
そう言った曽我部さんの声には、静かな自信があった。
大声で自慢するのではなく、当たり前に大事なものを差し出してくるような。
私は手元の物件情報を改めて見る。
東京の部屋より、広い。
家賃も安い。
駅や電停の近くを選べば、車がなくても生活はできそうだ。
少し離れれば、駐車場付きの物件もある。
紙の上の間取り図を眺めているだけなのに、そこにベッドを置いて、机を置いて、朝起きてカーテンを開ける自分を想像してしまう。
愛媛に来て、まだ三日目なのに。
「……確かに、住みやすそうではあるんですよね」
「はい」
「食べ物も美味しいし」
「それは重要ですね」
「重要です。昨日からずっと、胃袋が愛媛に寝返りかけてます」
「胃袋から移住するのも悪くないと思います」
「悪い勧誘だ……」
肩の上で、いよぴよさんがうんうんとうなずく。
「まず胃袋、次に住民票、最後に心やけんねぇ」
「順番がおかしい」
「でも、もう一個目と二個目は済んどるけんねぇ」
「黙って」
私は小さく咳払いをして、物件情報を閉じた。
「それに、契約は半年ですし。引っ越しと車が重なるのは……さすがに勇気がいります」
「なら、僕が足の代わりになりますよ」
「え?いえいえいえ!?そんなご迷惑は!!」
「もちろん対価はもらいます」
「対価、ですか?」
そう言うと、曽我部さんは腕をテーブルにつき、ほんの少し身体を前に傾けた。
さっきまでの愛媛プレゼンとは違う。
声の温度は落ち着いているのに、逃がさないような気配があった。
「瀬川さんには、僕の恋人のフリをしてほしいんです」
「は?」
自分でも、かなり間の抜けた声が出たと思う。
「虫除け役やけんねぇ」
私は、突っ込むことすら忘れてしまう。
「えっと……?」
「さすがに、少なからず仕事にも支障が出てきていますので」
支障。
それが、曽我部さんに寄ってきている女性たちのことだというのはわかる。
昨日の隠し撮りも、さっき駐車場で囲まれていたことも、たぶん日常の一部なのだろう。
だからって、私が恋人のフリなんて。
「恋人がいるとなれば、少しは減ると思うんです」
「それは、そうだと思いますが……」
「瀬川さんは移動手段を確保できる。僕は仕事がしやすくなる。お互い様です」
言い方は理屈としてわかる。
わかってしまうせいで、かえって逃げ道を探してしまう。
愛媛の家賃は東京よりは安い。
けれど、駐車場に車の維持費を考えたら、契約社員の身としてはなかなか痛い出費。
それに、ゴールド免許とはいえ、私は立派なペーパードライバー。
あの路面電車が走る道路を運転する自分を想像すると、背筋がすっと冷える。
「無理に、とは言いませんが……」
「利用してやればいいんよ」
肩に乗って言いたい放題のいよぴよさんを、ちらりと睨みつける。
利用してやればいい、といよぴよさんは言うけれど。
本当に、これは私にメリットしかない話のような気がする。
地元に詳しくて、車を出してくれて、取材先も紹介してくれて。
広報の仕事としても、生活の足としても、これ以上ないくらいありがたい。
ありがたい。
ありがたいのだけれど。
手元のケーキに視線を落とす。
甘夏のソースが、皿の上で小さな橙色の線を引いていた。
甘えてもいいんだろうか。
ちらっと曽我部さんを見る。
真っすぐにこちらを見つめる眼差しに、どきりとした。
こんな人とずっと一緒に行動したら。
もし、恋人のフリで済まなくなったら?
そんな不安が胸をよぎるのを、慌てて振り払う。
恋愛は、二人でするものだ。
私だけそんな気持ちになっても、曽我部さんみたいな人が私を好きになるなんて、あるわけがない。
だからこその提案なんだから。
これは仕事で、取引で、虫除けで、足の確保。
それ以上でも、それ以下でもない。
「では……私なんかで務まるのかわかりませんが。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
恋人のフリ。
フリのはず。
何度も何度も、頭の中で繰り返す。
わかっているのに、急に曽我部さんの顔を見るのが恥ずかしくなってくる。
「では、そろそろ行きましょうか、美咲さん」
「へ……?」
さっきまでは、『瀬川さん』と呼ばれていたのに。
急に、下の名前で呼ばれた。
たったそれだけなのに、身体が固まってしまう。
耳の奥に、今の声が残る。
「あ、だめでしたか?」
曽我部さんが、首を傾げる。
「やはり、フリとはいえ恋人なら、苗字で呼ぶのはおかしいかなと思いまして」
「いえ、そうですね。そう思います……」
「なら、美咲さんも。僕を下の名前で」
「……へ!?」
気づいてはいたけれど。
ちょいちょい曽我部さんは、急に積極的になる人だ。
いま、その積極性を真正面から向けられると、心臓がまったく落ち着かない。
さっきまで食べていた柑橘スイーツの甘酸っぱさが、喉の奥に戻ってきたみたいだ。
「……ぃ」
「い?」
「言うてしまうんよ!早く呼んでしまうけんねぇ!」
肩の上でいよぴよさんがばっさばさと騒いでいる。
うるさい。
とても、うるさい。
けれど、今の私はそれに突っ込む余裕すらない。
元婚約者の淳一を呼び捨てにするのに、こんなに緊張しただろうか。
いや、していない。
少なくとも、こんなふうに舌がもつれて、喉の奥が熱くなるようなことはなかった。
脳内はもう完全にパニックで、いよぴよさんの声すら遠くなっていく。
「ぃ、亮平さん……」
「はい。美咲さん」
名前を呼ばれながら、手を差し伸べられる。
恋人のフリ。
フリのはず。
何度も何度も頭の中で繰り返す。
早くも二回目の呪文を唱えながら、その手を取った。
指先が触れたそばから、曽我部さん——亮平さんの手が、思っていたより温かいことを知ってしまう。
大きくて、けれど強く握りすぎない手。
立ち上がるためのただの手助けなのに、意識しない方が難しい。
愛媛に来て、三日目。
愛媛担当SNS広報官という肩書きに、若旦那の恋人のフリ、が追加された瞬間だった。
「え?」
「すみません、賃貸情報が見えたので」
曽我部さんの視線の先を追って、私は慌てて鞄の中のクリアファイルを取り出した。
市役所でもらった書類や、契約関係の紙に紛れて、いくつか印刷してきた賃貸情報が挟まっている。
「ああ……そうですね。マンスリーだとやっぱり、あまり休まらないですし」
いくつかの物件情報をパラパラとめくる。
間取り図と家賃、駅からの距離。駐車場あり、なし。築年数。
東京で部屋を探していた時と同じ項目を見ているはずなのに、数字の感触がまるで違う。
「車も必要なのかなぁ……とか」
「いい物件はありましたか?」
「でも、契約期間は半年なんで……半年後には東京に戻るかもって考えると、悩んじゃいますね」
そう言うと、曽我部さんは考えるように、テーブルの上の物件情報へ視線を落とした。
「瀬川さん」
「はい」
「松山は四国版の住みたい街ランキングで、六年連続一位なんです」
「……急にプレゼンが始まりましたね」
「事実です」
曽我部さんは真顔だった。
さっきまで穏やかにスイーツを勧めていた人と同じとは思えないくらい、声に迷いがない。
「しかも、二位は東京二十三区です」
「東京から来た女に、東京に勝った話をします?」
「します」
「強火ですね」
思わず笑ってしまう。
曽我部さんは、さらに続けた。
「それに、愛媛は通勤時間が短く、自由に使える時間が長い県としても紹介されています」
「通勤時間……」
その言葉に、走馬灯のように通勤時間のことが思い出される。
東京で働いていた頃の私は、朝の満員電車に押し込まれ、帰りは終電近く、駅から部屋までの道を半分寝ながら歩いていた。
通勤だけで、毎日かなり削られていた気がする。
時間だけじゃない。
体力も、気力も、何かを好きだと思う余裕も。
「松山は、街の規模がちょうどいいんです。中心部に仕事や買い物の場所があって、少し行けば温泉があって、車を走らせれば海も山もあります」
「海も山も温泉も近い……」
「はい」
「強欲セットですね」
「そういう言い方もできますね」
曽我部さんが、少しだけ笑いながらプレゼンを続ける。
「あと、今治は住みたい田舎ランキングで、人口十万人以上二十万人未満の街の全四部門一位を取っています」
「全四部門!?」
「総合、若者世代・単身者、子育て世代、シニア世代です」
「全年代に刺してくるじゃないですか」
「しかも四年連続四冠です」
「強豪校みたいな言い方」
「実際、強いんです」
「曽我部さん、愛媛の話になると圧が強いですね」
「地元ですから」
そう言った曽我部さんの声には、静かな自信があった。
大声で自慢するのではなく、当たり前に大事なものを差し出してくるような。
私は手元の物件情報を改めて見る。
東京の部屋より、広い。
家賃も安い。
駅や電停の近くを選べば、車がなくても生活はできそうだ。
少し離れれば、駐車場付きの物件もある。
紙の上の間取り図を眺めているだけなのに、そこにベッドを置いて、机を置いて、朝起きてカーテンを開ける自分を想像してしまう。
愛媛に来て、まだ三日目なのに。
「……確かに、住みやすそうではあるんですよね」
「はい」
「食べ物も美味しいし」
「それは重要ですね」
「重要です。昨日からずっと、胃袋が愛媛に寝返りかけてます」
「胃袋から移住するのも悪くないと思います」
「悪い勧誘だ……」
肩の上で、いよぴよさんがうんうんとうなずく。
「まず胃袋、次に住民票、最後に心やけんねぇ」
「順番がおかしい」
「でも、もう一個目と二個目は済んどるけんねぇ」
「黙って」
私は小さく咳払いをして、物件情報を閉じた。
「それに、契約は半年ですし。引っ越しと車が重なるのは……さすがに勇気がいります」
「なら、僕が足の代わりになりますよ」
「え?いえいえいえ!?そんなご迷惑は!!」
「もちろん対価はもらいます」
「対価、ですか?」
そう言うと、曽我部さんは腕をテーブルにつき、ほんの少し身体を前に傾けた。
さっきまでの愛媛プレゼンとは違う。
声の温度は落ち着いているのに、逃がさないような気配があった。
「瀬川さんには、僕の恋人のフリをしてほしいんです」
「は?」
自分でも、かなり間の抜けた声が出たと思う。
「虫除け役やけんねぇ」
私は、突っ込むことすら忘れてしまう。
「えっと……?」
「さすがに、少なからず仕事にも支障が出てきていますので」
支障。
それが、曽我部さんに寄ってきている女性たちのことだというのはわかる。
昨日の隠し撮りも、さっき駐車場で囲まれていたことも、たぶん日常の一部なのだろう。
だからって、私が恋人のフリなんて。
「恋人がいるとなれば、少しは減ると思うんです」
「それは、そうだと思いますが……」
「瀬川さんは移動手段を確保できる。僕は仕事がしやすくなる。お互い様です」
言い方は理屈としてわかる。
わかってしまうせいで、かえって逃げ道を探してしまう。
愛媛の家賃は東京よりは安い。
けれど、駐車場に車の維持費を考えたら、契約社員の身としてはなかなか痛い出費。
それに、ゴールド免許とはいえ、私は立派なペーパードライバー。
あの路面電車が走る道路を運転する自分を想像すると、背筋がすっと冷える。
「無理に、とは言いませんが……」
「利用してやればいいんよ」
肩に乗って言いたい放題のいよぴよさんを、ちらりと睨みつける。
利用してやればいい、といよぴよさんは言うけれど。
本当に、これは私にメリットしかない話のような気がする。
地元に詳しくて、車を出してくれて、取材先も紹介してくれて。
広報の仕事としても、生活の足としても、これ以上ないくらいありがたい。
ありがたい。
ありがたいのだけれど。
手元のケーキに視線を落とす。
甘夏のソースが、皿の上で小さな橙色の線を引いていた。
甘えてもいいんだろうか。
ちらっと曽我部さんを見る。
真っすぐにこちらを見つめる眼差しに、どきりとした。
こんな人とずっと一緒に行動したら。
もし、恋人のフリで済まなくなったら?
そんな不安が胸をよぎるのを、慌てて振り払う。
恋愛は、二人でするものだ。
私だけそんな気持ちになっても、曽我部さんみたいな人が私を好きになるなんて、あるわけがない。
だからこその提案なんだから。
これは仕事で、取引で、虫除けで、足の確保。
それ以上でも、それ以下でもない。
「では……私なんかで務まるのかわかりませんが。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
恋人のフリ。
フリのはず。
何度も何度も、頭の中で繰り返す。
わかっているのに、急に曽我部さんの顔を見るのが恥ずかしくなってくる。
「では、そろそろ行きましょうか、美咲さん」
「へ……?」
さっきまでは、『瀬川さん』と呼ばれていたのに。
急に、下の名前で呼ばれた。
たったそれだけなのに、身体が固まってしまう。
耳の奥に、今の声が残る。
「あ、だめでしたか?」
曽我部さんが、首を傾げる。
「やはり、フリとはいえ恋人なら、苗字で呼ぶのはおかしいかなと思いまして」
「いえ、そうですね。そう思います……」
「なら、美咲さんも。僕を下の名前で」
「……へ!?」
気づいてはいたけれど。
ちょいちょい曽我部さんは、急に積極的になる人だ。
いま、その積極性を真正面から向けられると、心臓がまったく落ち着かない。
さっきまで食べていた柑橘スイーツの甘酸っぱさが、喉の奥に戻ってきたみたいだ。
「……ぃ」
「い?」
「言うてしまうんよ!早く呼んでしまうけんねぇ!」
肩の上でいよぴよさんがばっさばさと騒いでいる。
うるさい。
とても、うるさい。
けれど、今の私はそれに突っ込む余裕すらない。
元婚約者の淳一を呼び捨てにするのに、こんなに緊張しただろうか。
いや、していない。
少なくとも、こんなふうに舌がもつれて、喉の奥が熱くなるようなことはなかった。
脳内はもう完全にパニックで、いよぴよさんの声すら遠くなっていく。
「ぃ、亮平さん……」
「はい。美咲さん」
名前を呼ばれながら、手を差し伸べられる。
恋人のフリ。
フリのはず。
何度も何度も頭の中で繰り返す。
早くも二回目の呪文を唱えながら、その手を取った。
指先が触れたそばから、曽我部さん——亮平さんの手が、思っていたより温かいことを知ってしまう。
大きくて、けれど強く握りすぎない手。
立ち上がるためのただの手助けなのに、意識しない方が難しい。
愛媛に来て、三日目。
愛媛担当SNS広報官という肩書きに、若旦那の恋人のフリ、が追加された瞬間だった。



