四国転生〜459通のお祈りメールから、旅館若旦那の偽恋人になりました〜

住民票の移動に、保険。
銀行口座の住所変更に、契約書類の確認。
一通りの手続きを終えて市役所から出ると、スマホに曽我部さんからのメッセージが届いていた。

『駐車場で待っています』

短い文章なのに、妙にきちんとしている。
画面を見ながら、前髪を整える。

駐車場に向かうと、たくさん止まっている車の隣に立つ、曽我部さんの姿。
と、彼を取り囲む三人の女性も。

「……え」

昨日のロビーで隠し撮りをしていた女性たちのことを思い出す。
まさか、こんなところにまで?

「もてもてやけんねぇ」

肩の上で、いよぴよさんがのんきに言う。
その言葉に、じわりと面白くない気持ちが湧いてくる。

別に、私には関係ない。
曽我部さんが誰と話していようと、私が何か言う立場ではない。
そもそも私は、昨日愛媛に来たばかりの広報担当で、今日これからスイーツの取材に案内してもらうだけだ。

それだけ、なのに。

「曽我部さん!お待たせしました」

なるべく明るく、大きな声で呼びかける。
曽我部さんがこちらを見て、ほんの少しほっとしたような顔をした。
その表情を見た瞬間、呼んでよかったのだとわかる。

一方で、女性たちは顔を見合わせた。

「いこっか」
「うん」
「彼女かな?」
「この前はいないって言ってたよ」
「だよね」

すれ違いざまに聞こえてきた会話と、私をちらちら見てくる視線が痛い。
何ですか。
彼女じゃありません。
ただの、昨日から愛媛に転生した広報担当です。
いや、転職。転職だ。

「大丈夫ですか?」
「すみません。不快な気分にさせていませんか?」

助手席のドアを開けられ、車に乗り込む。
運転席に座った曽我部さんは、ハンドルに軽く額を預け、大きく息を吐く。

さっきまでの、若旦那としての表情が崩れている。
見てはいけないものを見てしまった気がして、私はシートベルトに手をかけたまま固まった。

やっぱり甘えない方がよかったのかもしれない。
旅館の若旦那が、こんな取材に付き合うほど暇なわけがない。
それに、こうして外で会えば、また余計な注目を集めてしまうのかもしれない。

「あの、やっぱり一人で……」
「いえ、すみません」

曽我部さんは顔を上げ、いつもの落ち着いた声に戻ろうとしているのがわかる。

「行きましょうか」
「……はい」

車が静かに駐車場を出る。
さっきの女性たちの視線が、まだ背中のあたりに残っている気がした。

市役所から車で十分ほど。
曽我部さんが連れてきてくれたのは、細い路地を少し入った先にある、小さなカフェだった。

白い壁に、木の扉。
入り口の横には、鉢植えの小さな柑橘の木が置かれていて、まだ青い実がいくつもついている。
看板は控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうだ。
けれど窓の向こうには、若い女性客や観光客らしき人たちの姿が見える。

「ここですか?」
「はい。地元の柑橘を使ったスイーツが評判の店です。観光客向けに見えますが、常連も多いですよ」
「それ、かなり強いですね。観光客にも地元にも刺さってるってことですよね」
「広報の方らしい見方ですね」
「昨日から広報になったばかりですけど」

そう言いながらも、私はスマホを構える。

外観を斜めから。
入り口の鉢植え。
木の扉の取っ手。
看板の文字。
窓辺に置かれた、小さな焼き菓子のディスプレイ。

「あ、この店、写真撮りやすい……」
「気に入りましたか」
「はい。情報量が多すぎないのに、ちゃんと可愛いです。こういうの、投稿で映えそうですよね」

白い壁と木の色。
柑橘の葉の緑。
小さな看板の控えめな文字。
全部が主張しすぎていないのに、写真に収めるとちゃんと絵になる。

「なるほど」

曽我部さんは、私が写真を撮る様子を邪魔せず、少し離れたところで待っていてくれた。

急かさない。
口を挟まない。
でも、必要な時にはすっと説明してくれる。

その距離感が、仕事相手としてすごくやりやすい。
昨日の旅館取材でも思ったけれど、この人は人との間合いの取り方がうまいのだ。

店内に入ると、柑橘の甘酸っぱい香りがふわりと鼻をくすぐった。

ショーケースには、みかんのタルト、甘夏のレアチーズケーキ、河内晩柑のゼリー、レモンのパウンドケーキ。
どれも、黄色や橙色がきらきらしていて、見ているだけで口の中が甘酸っぱくなる。

「……全部食べたい」

やばい、本音が漏れた。

「全部はさすがに多いのでは」
「昨日の夕食を完食した女に向かって、それを言いますか?三つはいけます」
「三つ」

曽我部さんが若干引いているのがわかる。
欲張りな食い意地の張った女だと思われてしまったかも。

「……一緒にシェアしますか?」
「シェア!?」
「あ、嫌なら……」
「いえっ、あ、大丈夫、です。助かります」

ただのスイーツを取材するだけのはずが……
そんなの、いよぴよさんのいう通り、デートになってしまうんでは?
いや、これは仕事!広報活動に必要な情報収集!!

席に着くと、注文したスイーツが順番に運ばれてきた。

まずは、みかんのタルト。
薄く重ねられたみかんの果肉が、花みたいに広がっている。
つやつやと光る表面に、窓からの光が反射していた。

次に、甘夏のレアチーズケーキ。
白いクリームの上に、ほろ苦そうな甘夏のソース。
見た目だけで、甘さと酸味のバランスがよさそうなのがわかる。

最後に、河内晩柑のゼリー。
透明なグラスの中で、淡い黄色が涼しげに揺れている。
光を通すと、まるで小さな初夏を閉じ込めたみたい。

「……これは、撮らなきゃだめなやつです」

真顔でスマホを構える。

「誰に命じられたんですか」
「胃袋と職業倫理です」
「食欲では」
「職業倫理です」

曽我部さんが小さく笑う。
その笑い方に、さっき駐車場で見た疲れた顔が薄れた気がした。
それならよかった、と思ってしまってから、私は慌ててスマホの画面に意識を戻す。

今は仕事。
これは取材。
目の前には、愛媛の柑橘スイーツ。

余計なことを考えるより先に、まずは一番美味しそうに見える角度を探さなければ。
私は角度を変えながら、ひたすら写真を撮った。

全体。
タルトの断面。
フォークを入れたところ。
ゼリーの透け感。
ケーキにかかったソースのつや。

窓から入る光が少し動くだけで、スイーツの表情が変わる。
みかんの果肉はつやつやしているし、ゼリーは光を通すと、淡い黄色がふるふる揺れる。
これは撮らない方が失礼だ。

気づけば、食べる前に二十枚以上撮っていた。

「瀬川さんは、食べる前から楽しそうですね」
「食べる前が一番真剣なんです。だって、崩したら戻せないので」
「なるほど」
「でも、食べたらもっと真剣になります」
「それはぜひ見てみたいですね」

その言い方が妙に優しくて、落ち着かない。
見てみたい、という言葉が、スイーツの感想の話だとわかっているのに、耳に残る。
ごまかすように、みかんのタルトを一口食べた。

「……っん!」

さくっとしたタルト生地となめらかなクリーム。
その上で、みかんの果汁がぱっと弾ける。

甘い。
でも、ただ甘いんじゃない。
最後にちゃんと酸味が残るから、口の中が重くならない。
食べ終えたはずなのに、次の一口のことを考えてしまう。

「~~~っ美味しいっ!」
「よかったです」
「これ、危険です。ひと口目で終わりが見えない」
「終わり?」
「気づいたら皿が空になってるタイプです」
「それは、店の方にとっては褒め言葉ですね」

曽我部さんが穏やかに言う。

「愛媛って、柑橘の使い方が本気ですね」
「本気です」
「そこは即答なんですね」
「はい。負けられませんから」
「誰にですか?」
「他県に」

若旦那、急に地元愛が強い。
静かな顔をしているのに、柑橘の話になると芯が強い。
こういうところ、なんだか少し面白い。

次に、甘夏のレアチーズケーキにフォークを入れる。

白いクリームはやわらかくて、切った断面に甘夏のソースがゆっくり流れる。
ひと口食べると、チーズのまろやかさのあとに、甘夏の苦みがほんの少し追いかけてくる。
思ったより、大人の味。

「これ、大人の初恋みたいな味がします」
「大人の初恋」
「甘いけど、ほろ苦い」
「……瀬川さんは、食べ物の表現が独特ですね」
「変ですか?」
「いいえ。伝わります」

その一言に、フォークを持つ手が少し止まった。

伝わる。
たったそれだけの言葉なのに、気持ちがふっと軽くなる。

今までの私は、言われた通りにバナーを作って、言われた通りに文言を入れて、言われた通りに修正してきた。
自分の言葉で何かを伝えることなんて、ほとんどなかった。
むしろ、自分の言葉を入れる余白なんて、あの職場にはなかった気がする。

でも今、目の前の人は、私の変な食レポを笑わずに『伝わる』と言ってくれた。

「……じゃあ、投稿文にも使ってみようかな」
「いいと思います」
「でも、『大人の初恋』は恥ずかしいですかね」
「僕は、わかる気がするので好きですが」
「え」
「表現の話です」
「あ、はい。ですよね」

一瞬、変な間が空いた気がした。
いや、たぶん私の気のせいだ。
曽我部さんは仕事の話をしているだけなのに。

私は慌てて、河内晩柑のゼリーに逃げた。

スプーンを入れると、透明なゼリーがぷるんと揺れる。
口に入れると、すっきりした甘さが喉にするっと落ちていく。
香りは華やかなのに、後味は驚くほど軽い。

「これ、昨日の私に必要でした」
「昨日は駅弁とじゃこ天でしたね」
「忘れてください」
「印象的でしたので」
「忘れてください」

二回言っても、曽我部さんは穏やかに笑っているだけ。
忘れる気、絶対にない。

肩の上で、いよぴよさんがふふんと笑う。

「食べっぷり広報、爆誕やけんねぇ」
「まだ爆誕してない」
「もうしとるんよ」
「黙って。今、メモしてるから」

私は小声で言い返しながら、スマホにメモを打つ。

みかんタルト。
一口目で果汁が弾ける。甘いのに重くない。皿が空になるまでが早い。

甘夏レアチーズ。
甘さの後に苦み。大人の初恋みたいな味。

河内晩柑ゼリー。
食後でもいける。旅先の胃袋にやさしい。

書いてから、少し笑ってしまう。

広報って、何をしたらいいんだろう。
昨夜、布団の中でそう思った。
でも、今ならわかる気がする。

私が美味しいと思ったものを、誰かが食べたくなるように伝える。
私が行ってよかったと思った場所を、誰かも行きたいと思うように見せる。
難しいけれど、同じくらい楽しい。

「よい顔をしていますね」
「え?」

曽我部さんに言われて、私は顔を上げた。

「取材中の瀬川さんです」
「どんな顔ですか」
「美味しいものを見つけた人の顔です」
「それ、広報として大丈夫でしょうか?」
「瀬川さんが楽しそうにしていると、この店に来たくなります」

その言葉に、胸の内側が小さく揺れた。

「……それ、褒めてます?」
「もちろんです」
「なら、受け取っておきます」
「はい。ぜひ」

真正面から褒められると、どういう顔をしていいのかわからない。
ここ最近の私は、不採用通知ばかり受け取ってきた。
誰かに、ちゃんと見てもらうことに慣れていない。

照れ隠しに、残っていたタルトを口に入れた。
やっぱり美味しい。
悔しいくらい、美味しい。

愛媛に来てから、胃袋ばかり先に馴染んでいく気がする。
でも、もしかしたら。
気持ちの方も、少しずつ追いつき始めているのかもしれない。