入学から一ヶ月が経った頃、最初の『事件』が起きた。
放課後の図書館でのことだった。
私とセリアは共通課題の調査のために図書館へ来ていて、机に資料を広げ、必要そうな巻をメモしていた。
セリアが参考文献を探しに書架の奥へ行き、私は席で待つ——いつもの分担。
いつもの、はずだった。
ふと、嫌な予感がした。
(……あれ?)
背筋に冷たいものが走る。
ゲームの記憶が、針のように引っかかったのだ。
確か、学院入学一ヶ月目の図書館で——『事故』に見せかけた、あのイベント。
私は椅子を蹴って走ると、床を蹴る音が静かな図書館に響く。
周囲の視線が刺さるのも構わない。
書架の奥に辿り着くと、高い棚が不自然に揺れていた。
金具がきしむ音。背表紙が擦れ合う乾いた音。
そして——上の段から、束になった本が、雪崩れるように落ちかかっている。
セリアは棚のすぐそばに立っていた。
落ちてくる本を避けようとして足がすくみ、動けずにいる。目が大きく見開かれている。
私は迷わず飛び込んだ。
「セリア!」
私は彼女を突き飛ばすように抱きかかえ、腕の中へ引き寄せる。
そして自分の背中を、棚の下に差し出した。
どん、どん、と重い本が背中に当たる。
肺から息が抜けるほど痛い。
骨に響き、肩甲骨のあたりがじん、と痺れる。
痛い痛い痛い。でも——セリアが無事なら、それでいい。
「マリアンナ!!」
今度は別の声が混じった。
遠くからクロードの声が聞こえた気がした——と思った瞬間には、本の雨が止んでいた。
見ると、書架の端にクロードの姿が。
伸ばした手の先、宙で止まる数冊の本。魔法で落下を押し留めている。
重い本が空中で震えているのを見て、私はやっと息を吸った。
「……怪我は?」
クロードはすぐにしゃがみ、私とセリアの様子を確かめる。
声は落ち着いているのに、眉間の皺が深い。
「大丈夫です」
「セリア嬢は?」
「私も……大丈夫です。マリアンナが庇ってくれて……」
セリアの声は震えていた。
腕の中で小さく震える体温が伝わってくる。
クロードの視線が、まっすぐ私に向いた。
「背中は?」
「痛いけど、骨は大丈夫だと思います」
「大丈夫かどうかは医師が判断することだ。今すぐ医務室に——」
その言い方が、命令というより、必死で私を離さない声に聞こえて、胸が一瞬だけざわついた。
けれど、私は別のことが気になっていた。
「でも殿下。本が落ちてきたのは偶然の事故でしょうか?棚の固定が外れていたようなのですが」
声を落として言うと、クロードは棚へ目を向けた。
近づき、金具の位置を確かめ、指先でそっと触れる。
しばらく見てから、表情が固まった。
「……固定金具が、外側から細工されている」
「そうではないかと思いました」
「誰かが意図的に——」
「おそらく。ただ、証拠の確保と状況の把握のために、今すぐこの場を保全した方がいいと思います。私たちが動き回ると、痕跡が——」
「マリアンナ」
クロードが静かに割り込んだ。
低い声で名前を呼ばれるだけで、議論の優先順位がひっくり返される。
「まず、医務室に行く。それが先決だ」
「……はい」
真剣な眼差しで見られて、頷くしかなかった。
医務室では、背中の打撲を確認され、湿布と痛み止めを渡された。
骨折はなし。打った箇所は腫れるだろう、と。
セリアは全くの無傷だったセリアはそれでも申し訳なさそうに俯いた。
「よかった」
処置を終えて出てきた私を見て、クロードが言った。
ほっと息を吐くような声。
「本当に、よかった」
「殿下、たまたまここにいらしたのですか?」
「週一で図書館で自習することにしている。たまたまセリア嬢たちも来ていることに気づいていたから……声をかけようとして書架に向かったところで、音がした」
「そうでしたか」
「……マリアンナ」
クロードが少し、声の質を変えた。
雑談の声ではない。尋問でもない。もっと近い、核心に触れる声。
「どうして本が落ちてくると分かった?普通なら棚の近くにいたセリア嬢を助けに行くより先に、自分が逃げるはずだ」
「予感がしたんです」
「予感?」
「……悪い予感がして、走りました。気づいた時には飛び込んでいました」
嘘ではない。
ゲームの記憶という『予感』が、確かにあった。背中を押したのは、それだ。
クロードはしばらく私を見てから、短くため息をついた。
怒っているのではない。困っている。……心配している。
「マリアンナは、よく体を張るね」
「妹のためなら当然です」
「……そうか」
クロードはそれ以上言わず、ただ何かを考えているような目で私を見ていた。
その視線が、やけに長く感じて、私は湿布の貼られた背中より、別の場所がむず痒くなった。
その後の調査で、棚の金具を外した犯人は『影の教団』の工作員だったことが判明した。
フォスター助教ではなく、外部から侵入した者らしい。
つまり教団は、学院でもセリアを狙っている。私の予感は当たった。嬉しくなんてない。
「学院の警備を強化する。僕の権限で動かせる騎士を配置する」
クロードが言い切ったその言葉に、私は素直に安堵した。
ゲームでは、この時点での警備強化は『クロードルートを選んだ場合のみ』の展開だった。
すでにそのルートが敷かれつつある——そう受け取っていいのかもしれない。
(よし、いい方向に動いてる)
……と、安心しかけたところで、クロードが追加で言った。
「マリアンナの部屋の前にも、騎士を配置する」
「セリアのための警備は当然ですが、私のためには不要です」
「不要じゃない。セリア嬢に近づこうとする者は、マリアンナも巻き込む。君を守ることはセリア嬢を守ることと同義だ」
論理的な反論で言い返せなかった。
反論しようとしても、喉の奥が詰まる。
今日、私の背中に本が落ちたのは事実だから。
結局そのまま、クロードが手配した護衛付きの生活を受け入れることになった。
(……最推しの幸せのためだ。甘んじて受け入れよう)
心の中で、セリアへの罪悪感を感じながら。
放課後の図書館でのことだった。
私とセリアは共通課題の調査のために図書館へ来ていて、机に資料を広げ、必要そうな巻をメモしていた。
セリアが参考文献を探しに書架の奥へ行き、私は席で待つ——いつもの分担。
いつもの、はずだった。
ふと、嫌な予感がした。
(……あれ?)
背筋に冷たいものが走る。
ゲームの記憶が、針のように引っかかったのだ。
確か、学院入学一ヶ月目の図書館で——『事故』に見せかけた、あのイベント。
私は椅子を蹴って走ると、床を蹴る音が静かな図書館に響く。
周囲の視線が刺さるのも構わない。
書架の奥に辿り着くと、高い棚が不自然に揺れていた。
金具がきしむ音。背表紙が擦れ合う乾いた音。
そして——上の段から、束になった本が、雪崩れるように落ちかかっている。
セリアは棚のすぐそばに立っていた。
落ちてくる本を避けようとして足がすくみ、動けずにいる。目が大きく見開かれている。
私は迷わず飛び込んだ。
「セリア!」
私は彼女を突き飛ばすように抱きかかえ、腕の中へ引き寄せる。
そして自分の背中を、棚の下に差し出した。
どん、どん、と重い本が背中に当たる。
肺から息が抜けるほど痛い。
骨に響き、肩甲骨のあたりがじん、と痺れる。
痛い痛い痛い。でも——セリアが無事なら、それでいい。
「マリアンナ!!」
今度は別の声が混じった。
遠くからクロードの声が聞こえた気がした——と思った瞬間には、本の雨が止んでいた。
見ると、書架の端にクロードの姿が。
伸ばした手の先、宙で止まる数冊の本。魔法で落下を押し留めている。
重い本が空中で震えているのを見て、私はやっと息を吸った。
「……怪我は?」
クロードはすぐにしゃがみ、私とセリアの様子を確かめる。
声は落ち着いているのに、眉間の皺が深い。
「大丈夫です」
「セリア嬢は?」
「私も……大丈夫です。マリアンナが庇ってくれて……」
セリアの声は震えていた。
腕の中で小さく震える体温が伝わってくる。
クロードの視線が、まっすぐ私に向いた。
「背中は?」
「痛いけど、骨は大丈夫だと思います」
「大丈夫かどうかは医師が判断することだ。今すぐ医務室に——」
その言い方が、命令というより、必死で私を離さない声に聞こえて、胸が一瞬だけざわついた。
けれど、私は別のことが気になっていた。
「でも殿下。本が落ちてきたのは偶然の事故でしょうか?棚の固定が外れていたようなのですが」
声を落として言うと、クロードは棚へ目を向けた。
近づき、金具の位置を確かめ、指先でそっと触れる。
しばらく見てから、表情が固まった。
「……固定金具が、外側から細工されている」
「そうではないかと思いました」
「誰かが意図的に——」
「おそらく。ただ、証拠の確保と状況の把握のために、今すぐこの場を保全した方がいいと思います。私たちが動き回ると、痕跡が——」
「マリアンナ」
クロードが静かに割り込んだ。
低い声で名前を呼ばれるだけで、議論の優先順位がひっくり返される。
「まず、医務室に行く。それが先決だ」
「……はい」
真剣な眼差しで見られて、頷くしかなかった。
医務室では、背中の打撲を確認され、湿布と痛み止めを渡された。
骨折はなし。打った箇所は腫れるだろう、と。
セリアは全くの無傷だったセリアはそれでも申し訳なさそうに俯いた。
「よかった」
処置を終えて出てきた私を見て、クロードが言った。
ほっと息を吐くような声。
「本当に、よかった」
「殿下、たまたまここにいらしたのですか?」
「週一で図書館で自習することにしている。たまたまセリア嬢たちも来ていることに気づいていたから……声をかけようとして書架に向かったところで、音がした」
「そうでしたか」
「……マリアンナ」
クロードが少し、声の質を変えた。
雑談の声ではない。尋問でもない。もっと近い、核心に触れる声。
「どうして本が落ちてくると分かった?普通なら棚の近くにいたセリア嬢を助けに行くより先に、自分が逃げるはずだ」
「予感がしたんです」
「予感?」
「……悪い予感がして、走りました。気づいた時には飛び込んでいました」
嘘ではない。
ゲームの記憶という『予感』が、確かにあった。背中を押したのは、それだ。
クロードはしばらく私を見てから、短くため息をついた。
怒っているのではない。困っている。……心配している。
「マリアンナは、よく体を張るね」
「妹のためなら当然です」
「……そうか」
クロードはそれ以上言わず、ただ何かを考えているような目で私を見ていた。
その視線が、やけに長く感じて、私は湿布の貼られた背中より、別の場所がむず痒くなった。
その後の調査で、棚の金具を外した犯人は『影の教団』の工作員だったことが判明した。
フォスター助教ではなく、外部から侵入した者らしい。
つまり教団は、学院でもセリアを狙っている。私の予感は当たった。嬉しくなんてない。
「学院の警備を強化する。僕の権限で動かせる騎士を配置する」
クロードが言い切ったその言葉に、私は素直に安堵した。
ゲームでは、この時点での警備強化は『クロードルートを選んだ場合のみ』の展開だった。
すでにそのルートが敷かれつつある——そう受け取っていいのかもしれない。
(よし、いい方向に動いてる)
……と、安心しかけたところで、クロードが追加で言った。
「マリアンナの部屋の前にも、騎士を配置する」
「セリアのための警備は当然ですが、私のためには不要です」
「不要じゃない。セリア嬢に近づこうとする者は、マリアンナも巻き込む。君を守ることはセリア嬢を守ることと同義だ」
論理的な反論で言い返せなかった。
反論しようとしても、喉の奥が詰まる。
今日、私の背中に本が落ちたのは事実だから。
結局そのまま、クロードが手配した護衛付きの生活を受け入れることになった。
(……最推しの幸せのためだ。甘んじて受け入れよう)
心の中で、セリアへの罪悪感を感じながら。



