答えた瞬間、クロードの肩の力がほんの少しだけ抜けた気がした。
ほんの一瞬、子どもの顔が覗いたようにも見えた。
言い返したいわけじゃないのに、喉が乾いて、うまく息ができない。
熱は引いたはずなのに、背中に冷たい汗がにじんだ。
クロードの翡翠色の瞳の奥が、ほんのわずかに揺れる。
怒りを飲み込んだ後の、別の何か。——安堵、にも近い。
「よかった」
それだけ言って、クロードはお父様に向き直り、「今後の警備体制について相談させてほしい」と言った。
子どもの声のはずなのに、言葉の運びが大人みたいで、応接間の空気が一段締まる。
大人の話になり、私とセリアは部屋から出た。
——歩きながら、セリアが私の袖をちょん、と引いた。
「ね、マリアンナ」
「なに?」
「殿下、怒ってたよね」
「……うん」
「でも、すごく静かだったね」
「うん」
「あれって——怖かった?」
怖い、というより——あの静けさは、逃げられない重さだった。
「怖い、とは少し違う」
「じゃあ何?」
「……心配してくれてるんだな、って。すごく伝わってきた」
それが、怖さより先にあった。
八歳のクロードが、二度しか会っていない私のことを心配して、怒りを整えて言葉にしてくれた。
「次は必ず知らせろ」
責めるためじゃない。落とすためでもない。
——次は助けるため。
そういう温度が、言葉の底にあった。
「マリアンナ、顔が変だよ」
「変じゃない」
「なんか、ほわっとしてる」
「してない!!」
「くすっ。元気になったみたいで良かった」
セリアがくすくす笑った。
私は『してない』と言い張りながら、廊下に出た。
ほわっとしてなんかいない。……たぶん。
ただ、「次は必ず知らせろ」という声が、頭の中で何度も反芻されているだけだ。
その日の夕方、お父様が私を呼んだ。
「マリアンナ、クロード殿下からこれを預かった」
お父様が差し出したのは、小さな石だった。
親指の爪ほどの大きさの白い半透明。角が丸く研がれていて、表面に細かい文様が刻まれている。
光にかざすと、内側に淡い白が泳ぐように見えた。
「これは……」
「緊急連絡用の魔具だ。これを割ると、王宮の騎士が瞬間移動で現れる」
「瞬間移動!?」
「子どもでも使える。使う日が来ないのが一番だが、もしその瞬間が来たら——迷わぬように」
子どもでも、という言葉。
つまり——今回みたいなことが、また起きる前提で渡されたということだ。
お父様が私の手にそっと石を置いた。
冷たい。けれど、その冷たさが妙に現実的で、落ち着く。
「セリアにではなく?」
「殿下は、マリアンナに直接渡した方が使いやすいだろうと。——ヴェルナー家の当主である私にではなく、マリアンナ個人に、と言っておられた」
「私個人に……」
「よほど心配してくださってるようだよ。マリアンナ、大切にしなさい」
「……はい」
私は石を手のひらで包んだ。
小さくて軽いのに、ずっしりと重みがある気がする。
「殿下に、お礼を言わないといけないですね」
「今日は帰られたが、また聖祭でお会いできるだろう。その時に」
「はい」
お父様が部屋を出た後、私はしばらくその石を見ていた。
文様は魔術的な紋様で——見れば見るほど、王宮と繋がっている実感が増していく。
握ると、掌の温度を吸って、少しだけ柔らかくなった気がした。もちろん気のせいだ。
(次に何かある時は、必ず知らせろ)
クロードの低い声が、また頭の中で再生された。
感情的に怒鳴ったわけでも、責めたわけでもない。
ただ静かに、『知らせろ』と言った。
その言葉の裏にあるものを——七歳の私はまだ上手く言語化できない。
でも、なんとなくはわかる。
心配してくれている。
セリアのための心配じゃなくて、私個人への心配が、そこにある。
(…………まずい)
七歳にして、なぜかそう思った。
まずい、の理由はまだ説明できない。
でも、この石を握りしめたまま、胸の奥で小さな芽が動いた気がした。
後々になって、あの時から既に『そういう感情の種』があったのだと、私は何度も思い返すことになる。
今は、ただ石を大切に握った。
「次に何かあれば、知らせる」
声に出して言ってみた。
誰もいない部屋で、石に向かって。自分に言い聞かせるみたいに。
(私は死なない。まだここにいる。まだやることがある)
熱が引いた体で、私は窓の外を見た。
夏の夕日が庭を橙色に染めている。風が葉を揺らし、影がゆっくり動く。
生きている。
それが、今日いちばん確かなことだった。
ほんの一瞬、子どもの顔が覗いたようにも見えた。
言い返したいわけじゃないのに、喉が乾いて、うまく息ができない。
熱は引いたはずなのに、背中に冷たい汗がにじんだ。
クロードの翡翠色の瞳の奥が、ほんのわずかに揺れる。
怒りを飲み込んだ後の、別の何か。——安堵、にも近い。
「よかった」
それだけ言って、クロードはお父様に向き直り、「今後の警備体制について相談させてほしい」と言った。
子どもの声のはずなのに、言葉の運びが大人みたいで、応接間の空気が一段締まる。
大人の話になり、私とセリアは部屋から出た。
——歩きながら、セリアが私の袖をちょん、と引いた。
「ね、マリアンナ」
「なに?」
「殿下、怒ってたよね」
「……うん」
「でも、すごく静かだったね」
「うん」
「あれって——怖かった?」
怖い、というより——あの静けさは、逃げられない重さだった。
「怖い、とは少し違う」
「じゃあ何?」
「……心配してくれてるんだな、って。すごく伝わってきた」
それが、怖さより先にあった。
八歳のクロードが、二度しか会っていない私のことを心配して、怒りを整えて言葉にしてくれた。
「次は必ず知らせろ」
責めるためじゃない。落とすためでもない。
——次は助けるため。
そういう温度が、言葉の底にあった。
「マリアンナ、顔が変だよ」
「変じゃない」
「なんか、ほわっとしてる」
「してない!!」
「くすっ。元気になったみたいで良かった」
セリアがくすくす笑った。
私は『してない』と言い張りながら、廊下に出た。
ほわっとしてなんかいない。……たぶん。
ただ、「次は必ず知らせろ」という声が、頭の中で何度も反芻されているだけだ。
その日の夕方、お父様が私を呼んだ。
「マリアンナ、クロード殿下からこれを預かった」
お父様が差し出したのは、小さな石だった。
親指の爪ほどの大きさの白い半透明。角が丸く研がれていて、表面に細かい文様が刻まれている。
光にかざすと、内側に淡い白が泳ぐように見えた。
「これは……」
「緊急連絡用の魔具だ。これを割ると、王宮の騎士が瞬間移動で現れる」
「瞬間移動!?」
「子どもでも使える。使う日が来ないのが一番だが、もしその瞬間が来たら——迷わぬように」
子どもでも、という言葉。
つまり——今回みたいなことが、また起きる前提で渡されたということだ。
お父様が私の手にそっと石を置いた。
冷たい。けれど、その冷たさが妙に現実的で、落ち着く。
「セリアにではなく?」
「殿下は、マリアンナに直接渡した方が使いやすいだろうと。——ヴェルナー家の当主である私にではなく、マリアンナ個人に、と言っておられた」
「私個人に……」
「よほど心配してくださってるようだよ。マリアンナ、大切にしなさい」
「……はい」
私は石を手のひらで包んだ。
小さくて軽いのに、ずっしりと重みがある気がする。
「殿下に、お礼を言わないといけないですね」
「今日は帰られたが、また聖祭でお会いできるだろう。その時に」
「はい」
お父様が部屋を出た後、私はしばらくその石を見ていた。
文様は魔術的な紋様で——見れば見るほど、王宮と繋がっている実感が増していく。
握ると、掌の温度を吸って、少しだけ柔らかくなった気がした。もちろん気のせいだ。
(次に何かある時は、必ず知らせろ)
クロードの低い声が、また頭の中で再生された。
感情的に怒鳴ったわけでも、責めたわけでもない。
ただ静かに、『知らせろ』と言った。
その言葉の裏にあるものを——七歳の私はまだ上手く言語化できない。
でも、なんとなくはわかる。
心配してくれている。
セリアのための心配じゃなくて、私個人への心配が、そこにある。
(…………まずい)
七歳にして、なぜかそう思った。
まずい、の理由はまだ説明できない。
でも、この石を握りしめたまま、胸の奥で小さな芽が動いた気がした。
後々になって、あの時から既に『そういう感情の種』があったのだと、私は何度も思い返すことになる。
今は、ただ石を大切に握った。
「次に何かあれば、知らせる」
声に出して言ってみた。
誰もいない部屋で、石に向かって。自分に言い聞かせるみたいに。
(私は死なない。まだここにいる。まだやることがある)
熱が引いた体で、私は窓の外を見た。
夏の夕日が庭を橙色に染めている。風が葉を揺らし、影がゆっくり動く。
生きている。
それが、今日いちばん確かなことだった。



