元カレは、今も私をミケと呼ぶ

《ドアが閉まります。ご注意ください》

(待って!)

あと数メートルというところで、無情にもドアが閉まった。

(あ~あ……)

電車はそのまま走り出す。

恨めしく見送ると、濡れた傘をたたみ、ため息をつく。

(さっさと払えばよかった……)

取引先との食事で、どちらがご馳走するか。
もたついたのを悔やむ。

「はぁ……」

もう一度、小さくため息をつく。

湿った風が顔にまとわりついて不快だ。

なんだか、今日はツイてない。

改札へ向かう人の波を避けようと、端へ寄ろうとした。

――その時。

「……ミケ?」

懐かしい呼び名。

胸が締め付けられるほど、覚えている低い声。

顔を上げて振り向くと――

「え、陽太(ようた)……?」

元カレが、いた。

✴✴✴


「やっぱりミケだ! 久しぶり!」

大学時代に付き合って、卒業前に別れた――陽太。

本当の名前は実花(みか)なんだけど。

彼だけが“ミケ”と呼ぶ。

気まぐれでフラッといなくなる、実家の猫そっくりだからだって。
当時の私は、そのあだ名をなんだかんだ気に入っていた。


陽太が人懐っこそうな瞳で私を見つめている。

よく日に焼けた肌も、クセのある柔らかい茶色の髪も。
……あの頃のまま。

違うのは、やたら明るい色のスウェットから、
スーツ姿になったことくらい。

首元から下がっているのがパーカーの紐じゃなくて、
ネクタイに変わったのに。

そこから上――

満面の笑みが、当時と重なって。
軽く吹き出してしまった。

人の流れに押されそうになると、
陽太が手を伸ばして、離れた場所へと誘導してくれる。

触れそうなのに、触れなくて。

遠慮しているのが分かって、もどかしさが胸に落ちていく。

さりげなく、彼の左手の薬指に視線がいく。

(……何もついてない)

無意識の確認に、自分でも驚く。

彼の腕が離れる。

触れていないのに、背中にぬくもりが残っている気がした。

「……ありがとう」

小さくお礼を言う。

チラリと見ると、陽太は微笑んでいた。

「陽太とここで会うなんて驚いた」

「俺もだよ。すごくビックリした!
ミケ……なんか、変わったね」

まじまじと見つめられる。

「大人っぽくなった」

陽太が目を細めて頷いた。

その言葉が、冷たい痛みとなって胸を突く。

――二年前。
私は彼に『物足りない』と言って別れを告げた。

ただ隣にいて、手を繋いで笑い合うだけで満足だという彼を、
子供っぽく感じてしまったのだ。

もっと強く抱きしめてほしい。

肌を重ねて、形のある繋がりで安心させてほしい。

そんな私の渇望を、彼は『大切にしたいから』と優しく受け流した。

陽太と別れた後。
求めれば、抱きしめてくれる人はいた。
指を絡めて、名前を甘く囁いてくれる人も。

望んでいたはずの形は簡単に手に入った。

けれど、心は少しも満たされなかった。


指先が冷えていることに気付く。

傘の先から水滴がポタポタと落ちて、私の足元に広がっていた。

(……寒い)

ふと、我に返って陽太を見た。

私の視線に気づいて、
少し照れたように笑う彼に、胸の奥がズキリと痛む。

私はそっと、傘を持った手で自分の左手を隠した。

結婚もしていないし、恋人もいないのに。

(……変なの……)

何でこんなことをするのか。
自分でも理由は分からないけれど。

私の不自然な動きに、陽太は何も思わなかったらしい。

その反応に少し胸が苦しくなる。

「何で、この駅にいるの?」

私の手元にあった彼の視線が、すぐに戻ってきた。

「取引先の人とご飯食べてて」

「へぇ……」

少し間が空く。

「それってさ。……男?」

声のトーンが、少し落ちたように聞こえた。

「え?」

答えに迷う。

(営業の男性、だけど……)

仕事で同行して、契約がうまくいかなくて。
食事しながら反省会をしただけだ。

陽太がスマホを取り出して、画面を見つめる。

何かを確認するように指を動かすと、すぐにポケットにしまった。

『どうしたの?』と聞きたくなったのを飲み込む。

「……で、陽太は?」

「これから泊まりなんだ」

分かりやすく胸が重くなる。

どこを見ていいか分からなくて、視線を落とした。

これも聞くべきではない――

そう、分かっているのに。

「それは……女の人……?」

思わず、ぽろりと口にしてしまう。

恐る恐る見上げてみると、
陽太は目を丸くして、すぐに笑いながら手を振った。

「違うよ、友だち。
大学のときの、ほら、ヤマトん家だよ!」

「ああ」

今も変わらないんだと、懐かしい名前にほっとする。

口元が緩んでしまったのを気付かれたくなくて、
慌ててそっぽを向いた。

(私、全然変わってない)

彼は、昔と同じようにすぐ答えてくれるのに。

私は、いつだって回りくどい。

左手を隠していた腕をおろした。
そして、真っ直ぐに彼を見上げた。

「私の方は、男の人。
でもね、ただの取引先だよ」

陽太の瞳が、かすかに揺れた。

しばらくの間、視線が重なる。

「そっか!」

そう言って、いつもの笑顔に戻った。

✴✴✴


次の電車のアナウンスが流れる。

「あ……」

急に、現実に引き戻される。

陽太の手が自然に伸びた。

――けれど、途中で止まる。

小さく息を吐くと、そっと引っ込めた。

「陽太……」

もう一本、乗り過ごそうか。

そんな考えが頭をよぎる。

でも――

「じゃあ、気をつけて」

明るく言われて、その考えは消えた。

ドアが閉まっても、彼はホームに立っていた。

手を振る姿に、私はぎこちない笑顔を返す。

笑っていないと、喉の奥が詰まったものがこぼれ出そうだった。

電車が動き出す。

その瞬間――

陽太の口が動いた。

騒音にかき消されたのか。彼が声にしなかったのか。

読み取ろうとしたけど……分からなかった。

✴✴✴


流れていく夜の街を、窓越しに眺める。

(ありがとうって、ちゃんと言えたっけ……)

何に対してのお礼なのか。

――ふと、思い出した。

当時、別れる際に言われた言葉。

『ずっと待ってる』

(今は……どう思ってる?)

陽太の笑顔が浮かぶ。

都合よく考えようとする自分に、ため息が出る。

(変わったよ、きっと)

電車に揺られながら、目を閉じた。

✴✴✴


――朝。

あの後、彼から連絡が来るかも、なんて。
淡い期待をしていた。

けれど、スマホに通知がなかった。

(……さみしい)

あの瞬間にそう言えていたら。
何か変わっていたのかな、と考える。

出掛ける支度をする。

普段は憂鬱な休日出勤のはずが、
今日は不思議と頑張ろうと思えてしまう。

(なんでだろ)

頭に浮かぶのは、あの笑顔。

――昔から、そうだった。

分かっているのに。分からないフリをしてきた。


鏡に向かって呟いた。

「大人っぽくなったかな」

髪をひとつに結んで、後れ毛を耳にかける。

ふと。

ホームでの、彼の口の動きを再現してみた。

「うーん。……“のってる”?」

違う。

「“わんわん”?」

満面の笑みが浮かんできて、思いきり吹き出した。

「いやいや、それはない!」

もう一度。

「……“あってる”」

「……」

――ハッとした。

ゆっくりと、口を動かす。

「“待ってる”、とか……?」

胸の奥が、じんわり熱くなる。

(……連絡しよう、私から)

スマホを取り出して、画面を見つめる。

連絡帳からすぐに見つけた。

ずっと、消せなかった名前を。

変わったこともある。

でも、変わっていないものもある。

だから――まだ、変われる。


深呼吸をしてから、メッセージを打ち込む。

「今度、ゆっくり会えないかな」

形があれば安心できると思っていた。

でも、今ならやっと分かる。

あの頃、陽太が私を大切に扱ってくれたこと。

その温度こそが、何よりも確かな「形」だったのだと。


今さら都合のいい女かもしれない。

それでも、もう一度彼と向き合いたい。

今度は私が、彼を温められるような存在になれたらと……。

送信ボタンを押すとき、かすかに指が震えた。

でも。
返事がないという不安が、不思議とない。

(ほんと、私ってどうしようもない……)

送信済みの画面を見て、苦笑いをする。


スマホ画面の時刻が目にとまり、小さく悲鳴を上げた。
慌てて家を飛び出す。

また電車に乗り遅れてしまうかも。

それでも、不思議と足取りは軽かった。

よく晴れた空を見上げて、私なりの精一杯な笑みを向ける。

(――待ってて)