ハートのラテアートは勘違いじゃなかったらしい。

会社から徒歩数分の場所にある、
静かなコーヒーショップ。

扉の横には「ピエトラ・ビアンカ」と小さく書かれている。

ランチの後、ここでコーヒーを買って職場に戻るのが、私の日課だ。

最近、仕事が立て込んで、昼休みすら慌ただしい。
そんな中で、この店に寄ることが私の楽しみになっている。

その理由は――

「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうで、彼が小さく微笑む。

(いた!)

少し恥ずかしそうな笑顔。

淡い色の髪がやわらかく揺れて、どこか儚げで、甘い雰囲気をまとっている。

白いシャツにカフェエプロン。
シンプルな格好なのに、妙に目を引く。

暑い季節になってから、ランチ帯によく見る彼。

(高校生、ではなさそう……)

気になってしまう自分に戸惑う。


年下らしき男の子に興味を持つなんて、
今までの私にはなかったことだ。

✴✴✴

「持ち帰りで、ホットコーヒーをお願いします」

レジで注文すると、彼は少しだけ驚いた顔をした。

「ホット、……ですか?」

真夏なのに、と思ったのだろう。

小さく笑って頷くと、
彼の目元がやわらかく下がって「かしこまりました」と返した。

――それが最初のやり取り。

今ではもう、何も言わなくても通じる。


「お待たせしました。ホットコーヒーです。
熱いので、お気をつけください」

手つきも、言葉も、慣れてきたようだ。

でも、最後に向けられる笑顔だけは、いつもぎこちない。

カップを差し出されて、手を伸ばす。

その時、指先が軽く触れた。

(!)

思わず固まってしまう。

いきなり時間が止まってしまったようだ。

(どうしよう……)

「あ、あの……」

恐る恐る見上げてみると、彼は少し目を見開いていた。

「あ、すみません……どうぞ」

パッと手が離れた。

いつもよりも困ったような笑顔。

改めてカップを両手で受け取ると、私は小声でお礼を言う。

意識しないふりが、うまくできなかった。

……きっと、私の笑顔もぎこちない。

(はぁ、ビックリした)

店から出ると、
淹れたてのコーヒーを一口飲んで、ふっと息を吐く。

午後も頑張ろうと思えた。

✴✴✴


無機質なオフィス街の中で、
彼だけが、やわらかな色をまとっているようだ。

気の合う同僚とは、取引先のイケメン営業や、
行きつけの店長が渋いという話でたまに盛り上がる。

でも、彼の話はしたことがない。

軽い話題に混ぜるのは、なんとなく違う気がするし、
自分の中だけで大事にしておきたい。

それでも、これは彼に対する好意じゃない。

癒されているだけ。

(推し、って言うのかも?)

あれこれ考えながら会社に戻る途中、年配の男性に話しかけられた。

道に迷ってしまったらしい。

どちらかと言うと、私も迷子になりやすいタイプなのだけど。

知ってる場所だったので、
あちこち指で方向を差しながら道順を説明する。

なぜか、昔からよく、人に道を尋ねられる。

でも、ナンパ目的で声を掛けられたことは無い。

男性の背中を見送りながら、
コーヒーショップの彼だったら、女性からナンパされそうと思った。

同僚が彼を見つけて騒ぎ出すのも、時間の問題かもしれない。

そう思うと、少しモヤッとしてしまった。

✴✴✴


今日も、同僚とランチした後に一人で店に入る。

珍しく時間に余裕があったので、
たまには店内でゆっくりしようと思った。

視線が自然とカウンターを探す。

不自然にならないように気をつけてるつもりだけど。

きょろきょろと店内を見渡す私は、
端から見れば落ち着きがないかもしれない。

そして――

「いらっしゃいませ」

見つけるよりも先に、彼の声が届いた。

思わず、胸がくすぐったくなる。

目が合って彼が微笑むと、そのままカウンターの奥に引っ込む。

その背中を、なんとなく目で追ってしまう自分に苦笑した。

「ラテお願い」と、先輩らしき店員が声をかける。

「はい」

軽く返事をして、彼がミルクをスチームする。

(カフェラテ、作るようになったんだ)

なんとなく気になって、今日は気分を変えてみることにした。

「店内で……カフェラテ、お願いします」

「かしこまりました」

店員がオーダーを入れると、彼は一瞬こっちを向いた。

✴✴✴

「お待たせしました」

いつものように、彼が受け取り専用のカウンターに来た。

トレーに乗ったカップを見て、思わず息をのむ。

「わぁ、可愛い!」

ふわりと浮かぶ、ハートのラテアート。

繊細で、綺麗で。

思わずそのまま見つめてしまう。

「ありがとうございます」

彼が、照れたように笑った。

――そして。

視線を少し落とすと、ぽつりとつぶやく。

(みどり)、さん……」

「え!?」

突然名前を呼ばれて、思わず目を見開いた。

「あ、すみません、その……」

彼も、驚いたように口元を手で覆う。

視線を追って自分の胸元を見ると、首から下げた社員証が。

(あ……)

名前を知られたことが、妙にむず痒い。

しかも、下の名前だけ呼ばれたことに照れてしまう。

顔を上げると、 彼も気まずそうに笑った。

「……熱いので、気をつけてくださいね」

声はいつも通りなのに。
やわらかな空気感が残っている。

私はぎこちなくお礼を言って、トレーを持ち上げた。

(飲むのがもったいないな)

ずっと眺めていたい。

席に着いたら、写真を撮ろうと決める。

トレーを持って席へ向かおうとしたときに、
背後から「大胆だね~」と先輩店員の声が聞こえた。

振り返ろうとした瞬間、カフェラテが揺れた。

——崩れそうで、慌てて動きを止める。

前に注文していた人のカップが横目に入った。

(あれ?)

そこに描かれていたのは、リーフの模様だった。

自分のカフェラテに目がいく。

(こっちは、ハート……)

じっと見ていると、頬も胸も熱くなってくる。

でも、小さく首を横に振った。

(全部、たまたまだよ)

意味なんて、きっとない。

それでも。自然と口元が緩んでしまった。

✴✴✴

あのあと。
駅ナカの本屋で、珍しくファッション誌を買った。

《マイナス5歳若見え》

そのキャッチコピーに惹かれたから。

年齢よりも上に見られがちなのが、本当はずっと嫌だった。

地味な格好が良くないのかもしれない。

(ハートのラテアートが似合う女の子って、どんな服を着るんだろう?)

胸の奥が、そわそわと騒いでいた。

✴✴✴


――ある日。

取引先との打ち合わせから戻る途中で、ちょうど店から出てくる彼を見かけた。

(私服だ!)

カフェの制服とは違う、
やわらかい緑色のシャツを羽織った姿が新鮮だった。

最近の若い男の子らしい、ゆったりとしたシルエット。

意外と鍛えられていて、
普段は制服で隠れている腕に、思わず目がいってしまう。

「!」

足が止まった。

彼の後ろから、若い女の子が出てきた。

華やかな雰囲気で、2人が並ぶと絵になる。

——そのまま、並んで歩いていく。

「あ」

彼と目が合ってしまった。

私は慌てて下を向いて、急ぎ足ですれ違う。

……なんとなく。

『翠さん』と、呼ばれたような気がした。

でもきっと違う。

たぶん、この前の彼が浮かんだだけ。

胸が沈んで、ざわついた。
そんな自分の状態に、ハッキリ言ってショックだった。

あのコーヒーショップは、仕事の合間に立ち寄るだけの場所。

店の雰囲気とコーヒーの味が気に入ってる。

癒されただけ。

それ以上を望むつもりはない。

(そもそも、年下に興味を持つなんて有り得ない)


オレンジ色に染まったビル街。
建物の窓ガラスに映る私の姿が目に入る。

灰色ばかりを選んできた私は、
どう見てもハートのラテアートが似合わないと思った。


(年下に興味を持たれるのも、有り得ない)

「いい歳して……やだな」

ラテアートひとつで浮かれて。

ひどく滑稽で、情けない。

ガラスに映る自分の姿に、しかめっ面をしてみた。

昼間はまだ、じっとりした暑さが続いている。
でも夕方には、少しだけ涼しい風が吹いてくる。

夏が、急ぎ足で終わっていくんだなと思った。

✴✴✴


あの日から、コーヒーショップに寄っていない。

ランチ仲間の同僚が出張中で、社内でお昼を済ますようになった。
ちょうど良いと思った。

毎週水曜日はノー残業デーなのに、
すっかり形だけになっていて、上司に注意された。

だから今日は、定時に会社を出る。

店の横を通るときに、さりげなく見てしまう。
けれど、彼の姿は見つけられない。

小さく溜息をついていると、
突然、前から歩いてきた男の人に声をかけられる。

「すみません。このビルは、どこにありますか?」

また、知らない人に道を聞かれた。

スマホを見せながら困っている男性に、道順を教えようとする。

すると――

私の頭上から、遮るようにスッと影が落ちる。

「この先にあるコンビニを右に曲がります。
そのまま真っ直ぐ行って3つ目の建物ですね」

ドキンっと胸がうるさく高鳴った。

(――彼だ!)

肩ごしにスマホをのぞき込む彼。
少し、呼吸が乱れている。

ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

私は何も言えなくて、穏やかな声を耳元で感じながら、
自分の胸の音を抑えるのに必死だった。

男の人がお礼を言って去っていった。

たった数分のことのはずなのに、ずいぶん時間が経ったように思えた。

「……ナンパかと思いましたよ」

低く抑えた声。

「えっ?」

意味がわからなくて、ゆっくり振り向く。

目の前に彼の首元があり、さらにドキッとする。

思わず一歩下がった。

「また、道を聞かれたんですね」

いつもの笑顔を向けられた。

「……また?」

「覚えてないですか……」

苦笑しながら私を見つめる目がやさしい。

「よく見かけますよ。迷子を助けるあなたを」

「ええ!?」

「大きな手振りで説明する姿が小動物みたいです」

「しょ、小動物……!?」

思っても見なかった言葉に目を見開く。

「はい」

彼はクシャっと笑いながら頷いた。

「可愛いですよ。――翠さん」

(か、か、可愛い!?)

年下の男の子の言葉に、どう返したらいいのかわからない。

私は、頬が一気に熱くなるのを感じた。

「白石くん、お先に!」

突然、彼の背後から明るい声が聞こえる。

「あ、お疲れさまでした」

白石と呼ばれた彼は、頭を下げる。

(白石くんっていうんだ)

一気に熱が引いていくのを感じる。

声を掛けてきたのは、前に彼といた女の子だった。

「君の彼女だ……」

思わずボソッと言ってしまう。

「はい!?」

今度は彼が、信じられないと言った顔で私を見た。

そして大げさに首を振る。

「違いますよ。この店の先輩です!」

「それにほら」と、彼が顎で指し示す。
道路脇に車が止まって、彼女は乗り込んでいった。
運転席には男の人がいた。

「あの子の彼氏ですよ」

「ええっ!?」

(私、勘違いしてたの……?)

途端に気が抜ける。

さっきから気持ちが落ち着かないし、
あからさまに安堵している自分が恥ずかしい。

いい加減、どうにかなりそうだ。


「ハートだけじゃ、伝わらないかぁ」

突然、彼の口から出た言葉。

(?)

気づけば距離が近い。

目にかかった前髪を、骨ばった指でかき上げる仕草にドキリとする。

年下の男の子だと思っていたはずなのに。
たった数日間会わないだけで、こんなに大人びた顔をするものなんだろうか。

(クラクラしてきた……)

視線を逸らそうとした、その時。

「この前のラテなんですけど」

彼の声に引き止められる。
結局、また目が合ってしまった。 

「一番うまく出来たんです」

「あの、ハートのカフェラテ……?」

私が聞き返すと、彼は頷く。

「ホットコーヒーじゃない日を、
ずっと楽しみにしてました――翠さん!」

そして、照れたように笑った。

(え……?)

思考が止まる。

私の反応を見て、彼は少し困った表情をする。

それから店の方に視線を向け、すぐにいつもの恥ずかしそうな笑顔に戻る。

「また、お店に来てくださいね」

「は、はい」

私は頷くしかなかった。

彼は足早に店へ戻ろうとするが、思い出したように立ち止まる。

「今日はもう、仕事おしまいですか?」

「え、うん。水曜日は定時で……」

彼は「ふーん」と頷くと、
「いいこと聞きました!」と、嬉しそうな顔をした。

「ど、どうして?」

彼は曖昧に笑う。

「これからは――もっと、分かりやすくしますね」

そう言って軽く手を振ると、自動ドアが開いて店内に戻っていった。


(行っちゃった……)

胸の高鳴りが収まらない。

見慣れたはずの景色が、いつもより明るくて、目が眩みそうになった。

店の外でも時々見られていたことも。

小動物に例えられたことも。

年下の男の子から、可愛いと言われたことも。

(また、勘違いかもしれない)

一気に色んな言葉を聞いて、頭が追いつかない。

とにかく明日は、コーヒーショップに寄ろう。

(さっきの、道案内のお礼をし忘れたから)

(それを言うだけ……)

(……)

違う。

(白石……くんと、もっと話してみたいから)

それと。

このまま、どこかで服を見て帰りたい気分になった。

なんとなく、いいなと思っている色があるから。
灰色ではなくて。
少しだけ、甘い色――


スマホを取り出して画像フォルダを開く。

カフェラテを見つめる。

いくつも重なった繊細なハートの形。

あのとき見たよりも、何故かずっと大きく見えた。


――私の中で。