会社から徒歩数分の場所にある、
静かなコーヒーショップ。
扉の横には「ピエトラ・ビアンカ」と小さく書かれている。
ランチの後、ここでコーヒーを買って職場に戻るのが、私の日課だ。
最近、仕事が立て込んで、昼休みすら慌ただしい。
そんな中で、この店に寄ることが私の楽しみになっている。
その理由は――
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、彼が小さく微笑む。
(いた!)
少し恥ずかしそうな笑顔。
淡い色の髪がやわらかく揺れて、どこか儚げで、甘い雰囲気をまとっている。
白いシャツにカフェエプロン。
シンプルな格好なのに、妙に目を引く。
暑い季節になってから、ランチ帯によく見る彼。
(高校生、ではなさそう……)
気になってしまう自分に戸惑う。
年下らしき男の子に興味を持つなんて、
今までの私にはなかったことだ。
✴✴✴
「持ち帰りで、ホットコーヒーをお願いします」
レジで注文すると、彼は少しだけ驚いた顔をした。
「ホット、……ですか?」
真夏なのに、と思ったのだろう。
小さく笑って頷くと、
彼の目元がやわらかく下がって「かしこまりました」と返した。
――それが最初のやり取り。
今ではもう、何も言わなくても通じる。
「お待たせしました。ホットコーヒーです。
熱いので、お気をつけください」
手つきも、言葉も、慣れてきたようだ。
でも、最後に向けられる笑顔だけは、いつもぎこちない。
カップを差し出されて、手を伸ばす。
その時、指先が軽く触れた。
(!)
思わず固まってしまう。
いきなり時間が止まってしまったようだ。
(どうしよう……)
「あ、あの……」
恐る恐る見上げてみると、彼は少し目を見開いていた。
「あ、すみません……どうぞ」
パッと手が離れた。
いつもよりも困ったような笑顔。
改めてカップを両手で受け取ると、私は小声でお礼を言う。
意識しないふりが、うまくできなかった。
……きっと、私の笑顔もぎこちない。
(はぁ、ビックリした)
店から出ると、
淹れたてのコーヒーを一口飲んで、ふっと息を吐く。
午後も頑張ろうと思えた。
✴✴✴
無機質なオフィス街の中で、
彼だけが、やわらかな色をまとっているようだ。
気の合う同僚とは、取引先のイケメン営業や、
行きつけの店長が渋いという話でたまに盛り上がる。
でも、彼の話はしたことがない。
軽い話題に混ぜるのは、なんとなく違う気がするし、
自分の中だけで大事にしておきたい。
それでも、これは彼に対する好意じゃない。
癒されているだけ。
(推し、って言うのかも?)
あれこれ考えながら会社に戻る途中、年配の男性に話しかけられた。
道に迷ってしまったらしい。
どちらかと言うと、私も迷子になりやすいタイプなのだけど。
知ってる場所だったので、
あちこち指で方向を差しながら道順を説明する。
なぜか、昔からよく、人に道を尋ねられる。
でも、ナンパ目的で声を掛けられたことは無い。
男性の背中を見送りながら、
コーヒーショップの彼だったら、女性からナンパされそうと思った。
同僚が彼を見つけて騒ぎ出すのも、時間の問題かもしれない。
そう思うと、少しモヤッとしてしまった。
✴✴✴
今日も、同僚とランチした後に一人で店に入る。
珍しく時間に余裕があったので、
たまには店内でゆっくりしようと思った。
視線が自然とカウンターを探す。
不自然にならないように気をつけてるつもりだけど。
きょろきょろと店内を見渡す私は、
端から見れば落ち着きがないかもしれない。
そして――
「いらっしゃいませ」
見つけるよりも先に、彼の声が届いた。
思わず、胸がくすぐったくなる。
目が合って彼が微笑むと、そのままカウンターの奥に引っ込む。
その背中を、なんとなく目で追ってしまう自分に苦笑した。
「ラテお願い」と、先輩らしき店員が声をかける。
「はい」
軽く返事をして、彼がミルクをスチームする。
(カフェラテ、作るようになったんだ)
なんとなく気になって、今日は気分を変えてみることにした。
「店内で……カフェラテ、お願いします」
「かしこまりました」
店員がオーダーを入れると、彼は一瞬こっちを向いた。
✴✴✴
「お待たせしました」
いつものように、彼が受け取り専用のカウンターに来た。
トレーに乗ったカップを見て、思わず息をのむ。
「わぁ、可愛い!」
ふわりと浮かぶ、ハートのラテアート。
繊細で、綺麗で。
思わずそのまま見つめてしまう。
「ありがとうございます」
彼が、照れたように笑った。
――そして。
視線を少し落とすと、ぽつりとつぶやく。
「翠、さん……」
「え!?」
突然名前を呼ばれて、思わず目を見開いた。
「あ、すみません、その……」
彼も、驚いたように口元を手で覆う。
視線を追って自分の胸元を見ると、首から下げた社員証が。
(あ……)
名前を知られたことが、妙にむず痒い。
しかも、下の名前だけ呼ばれたことに照れてしまう。
顔を上げると、 彼も気まずそうに笑った。
「……熱いので、気をつけてくださいね」
声はいつも通りなのに。
やわらかな空気感が残っている。
私はぎこちなくお礼を言って、トレーを持ち上げた。
(飲むのがもったいないな)
ずっと眺めていたい。
席に着いたら、写真を撮ろうと決める。
トレーを持って席へ向かおうとしたときに、
背後から「大胆だね~」と先輩店員の声が聞こえた。
振り返ろうとした瞬間、カフェラテが揺れた。
——崩れそうで、慌てて動きを止める。
前に注文していた人のカップが横目に入った。
(あれ?)
そこに描かれていたのは、リーフの模様だった。
自分のカフェラテに目がいく。
(こっちは、ハート……)
じっと見ていると、頬も胸も熱くなってくる。
でも、小さく首を横に振った。
(全部、たまたまだよ)
意味なんて、きっとない。
それでも。自然と口元が緩んでしまった。
✴✴✴
あのあと。
駅ナカの本屋で、珍しくファッション誌を買った。
《マイナス5歳若見え》
そのキャッチコピーに惹かれたから。
年齢よりも上に見られがちなのが、本当はずっと嫌だった。
地味な格好が良くないのかもしれない。
(ハートのラテアートが似合う女の子って、どんな服を着るんだろう?)
胸の奥が、そわそわと騒いでいた。
✴✴✴
――ある日。
取引先との打ち合わせから戻る途中で、ちょうど店から出てくる彼を見かけた。
(私服だ!)
カフェの制服とは違う、
やわらかい緑色のシャツを羽織った姿が新鮮だった。
最近の若い男の子らしい、ゆったりとしたシルエット。
意外と鍛えられていて、
普段は制服で隠れている腕に、思わず目がいってしまう。
「!」
足が止まった。
彼の後ろから、若い女の子が出てきた。
華やかな雰囲気で、2人が並ぶと絵になる。
——そのまま、並んで歩いていく。
「あ」
彼と目が合ってしまった。
私は慌てて下を向いて、急ぎ足ですれ違う。
……なんとなく。
『翠さん』と、呼ばれたような気がした。
でもきっと違う。
たぶん、この前の彼が浮かんだだけ。
胸が沈んで、ざわついた。
そんな自分の状態に、ハッキリ言ってショックだった。
あのコーヒーショップは、仕事の合間に立ち寄るだけの場所。
店の雰囲気とコーヒーの味が気に入ってる。
癒されただけ。
それ以上を望むつもりはない。
(そもそも、年下に興味を持つなんて有り得ない)
オレンジ色に染まったビル街。
建物の窓ガラスに映る私の姿が目に入る。
灰色ばかりを選んできた私は、
どう見てもハートのラテアートが似合わないと思った。
(年下に興味を持たれるのも、有り得ない)
「いい歳して……やだな」
ラテアートひとつで浮かれて。
ひどく滑稽で、情けない。
ガラスに映る自分の姿に、しかめっ面をしてみた。
昼間はまだ、じっとりした暑さが続いている。
でも夕方には、少しだけ涼しい風が吹いてくる。
夏が、急ぎ足で終わっていくんだなと思った。
✴✴✴
あの日から、コーヒーショップに寄っていない。
ランチ仲間の同僚が出張中で、社内でお昼を済ますようになった。
ちょうど良いと思った。
毎週水曜日はノー残業デーなのに、
すっかり形だけになっていて、上司に注意された。
だから今日は、定時に会社を出る。
店の横を通るときに、さりげなく見てしまう。
けれど、彼の姿は見つけられない。
小さく溜息をついていると、
突然、前から歩いてきた男の人に声をかけられる。
「すみません。このビルは、どこにありますか?」
また、知らない人に道を聞かれた。
スマホを見せながら困っている男性に、道順を教えようとする。
すると――
私の頭上から、遮るようにスッと影が落ちる。
「この先にあるコンビニを右に曲がります。
そのまま真っ直ぐ行って3つ目の建物ですね」
ドキンっと胸がうるさく高鳴った。
(――彼だ!)
肩ごしにスマホをのぞき込む彼。
少し、呼吸が乱れている。
ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
私は何も言えなくて、穏やかな声を耳元で感じながら、
自分の胸の音を抑えるのに必死だった。
男の人がお礼を言って去っていった。
たった数分のことのはずなのに、ずいぶん時間が経ったように思えた。
「……ナンパかと思いましたよ」
低く抑えた声。
「えっ?」
意味がわからなくて、ゆっくり振り向く。
目の前に彼の首元があり、さらにドキッとする。
思わず一歩下がった。
「また、道を聞かれたんですね」
いつもの笑顔を向けられた。
「……また?」
「覚えてないですか……」
苦笑しながら私を見つめる目がやさしい。
「よく見かけますよ。迷子を助けるあなたを」
「ええ!?」
「大きな手振りで説明する姿が小動物みたいです」
「しょ、小動物……!?」
思っても見なかった言葉に目を見開く。
「はい」
彼はクシャっと笑いながら頷いた。
「可愛いですよ。――翠さん」
(か、か、可愛い!?)
年下の男の子の言葉に、どう返したらいいのかわからない。
私は、頬が一気に熱くなるのを感じた。
「白石くん、お先に!」
突然、彼の背後から明るい声が聞こえる。
「あ、お疲れさまでした」
白石と呼ばれた彼は、頭を下げる。
(白石くんっていうんだ)
一気に熱が引いていくのを感じる。
声を掛けてきたのは、前に彼といた女の子だった。
「君の彼女だ……」
思わずボソッと言ってしまう。
「はい!?」
今度は彼が、信じられないと言った顔で私を見た。
そして大げさに首を振る。
「違いますよ。この店の先輩です!」
「それにほら」と、彼が顎で指し示す。
道路脇に車が止まって、彼女は乗り込んでいった。
運転席には男の人がいた。
「あの子の彼氏ですよ」
「ええっ!?」
(私、勘違いしてたの……?)
途端に気が抜ける。
さっきから気持ちが落ち着かないし、
あからさまに安堵している自分が恥ずかしい。
いい加減、どうにかなりそうだ。
「ハートだけじゃ、伝わらないかぁ」
突然、彼の口から出た言葉。
(?)
気づけば距離が近い。
目にかかった前髪を、骨ばった指でかき上げる仕草にドキリとする。
年下の男の子だと思っていたはずなのに。
たった数日間会わないだけで、こんなに大人びた顔をするものなんだろうか。
(クラクラしてきた……)
視線を逸らそうとした、その時。
「この前のラテなんですけど」
彼の声に引き止められる。
結局、また目が合ってしまった。
「一番うまく出来たんです」
「あの、ハートのカフェラテ……?」
私が聞き返すと、彼は頷く。
「ホットコーヒーじゃない日を、
ずっと楽しみにしてました――翠さん!」
そして、照れたように笑った。
(え……?)
思考が止まる。
私の反応を見て、彼は少し困った表情をする。
それから店の方に視線を向け、すぐにいつもの恥ずかしそうな笑顔に戻る。
「また、お店に来てくださいね」
「は、はい」
私は頷くしかなかった。
彼は足早に店へ戻ろうとするが、思い出したように立ち止まる。
「今日はもう、仕事おしまいですか?」
「え、うん。水曜日は定時で……」
彼は「ふーん」と頷くと、
「いいこと聞きました!」と、嬉しそうな顔をした。
「ど、どうして?」
彼は曖昧に笑う。
「これからは――もっと、分かりやすくしますね」
そう言って軽く手を振ると、自動ドアが開いて店内に戻っていった。
(行っちゃった……)
胸の高鳴りが収まらない。
見慣れたはずの景色が、いつもより明るくて、目が眩みそうになった。
店の外でも時々見られていたことも。
小動物に例えられたことも。
年下の男の子から、可愛いと言われたことも。
(また、勘違いかもしれない)
一気に色んな言葉を聞いて、頭が追いつかない。
とにかく明日は、コーヒーショップに寄ろう。
(さっきの、道案内のお礼をし忘れたから)
(それを言うだけ……)
(……)
違う。
(白石……くんと、もっと話してみたいから)
それと。
このまま、どこかで服を見て帰りたい気分になった。
なんとなく、いいなと思っている色があるから。
灰色ではなくて。
少しだけ、甘い色――
スマホを取り出して画像フォルダを開く。
カフェラテを見つめる。
いくつも重なった繊細なハートの形。
あのとき見たよりも、何故かずっと大きく見えた。
――私の中で。
終
静かなコーヒーショップ。
扉の横には「ピエトラ・ビアンカ」と小さく書かれている。
ランチの後、ここでコーヒーを買って職場に戻るのが、私の日課だ。
最近、仕事が立て込んで、昼休みすら慌ただしい。
そんな中で、この店に寄ることが私の楽しみになっている。
その理由は――
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、彼が小さく微笑む。
(いた!)
少し恥ずかしそうな笑顔。
淡い色の髪がやわらかく揺れて、どこか儚げで、甘い雰囲気をまとっている。
白いシャツにカフェエプロン。
シンプルな格好なのに、妙に目を引く。
暑い季節になってから、ランチ帯によく見る彼。
(高校生、ではなさそう……)
気になってしまう自分に戸惑う。
年下らしき男の子に興味を持つなんて、
今までの私にはなかったことだ。
✴✴✴
「持ち帰りで、ホットコーヒーをお願いします」
レジで注文すると、彼は少しだけ驚いた顔をした。
「ホット、……ですか?」
真夏なのに、と思ったのだろう。
小さく笑って頷くと、
彼の目元がやわらかく下がって「かしこまりました」と返した。
――それが最初のやり取り。
今ではもう、何も言わなくても通じる。
「お待たせしました。ホットコーヒーです。
熱いので、お気をつけください」
手つきも、言葉も、慣れてきたようだ。
でも、最後に向けられる笑顔だけは、いつもぎこちない。
カップを差し出されて、手を伸ばす。
その時、指先が軽く触れた。
(!)
思わず固まってしまう。
いきなり時間が止まってしまったようだ。
(どうしよう……)
「あ、あの……」
恐る恐る見上げてみると、彼は少し目を見開いていた。
「あ、すみません……どうぞ」
パッと手が離れた。
いつもよりも困ったような笑顔。
改めてカップを両手で受け取ると、私は小声でお礼を言う。
意識しないふりが、うまくできなかった。
……きっと、私の笑顔もぎこちない。
(はぁ、ビックリした)
店から出ると、
淹れたてのコーヒーを一口飲んで、ふっと息を吐く。
午後も頑張ろうと思えた。
✴✴✴
無機質なオフィス街の中で、
彼だけが、やわらかな色をまとっているようだ。
気の合う同僚とは、取引先のイケメン営業や、
行きつけの店長が渋いという話でたまに盛り上がる。
でも、彼の話はしたことがない。
軽い話題に混ぜるのは、なんとなく違う気がするし、
自分の中だけで大事にしておきたい。
それでも、これは彼に対する好意じゃない。
癒されているだけ。
(推し、って言うのかも?)
あれこれ考えながら会社に戻る途中、年配の男性に話しかけられた。
道に迷ってしまったらしい。
どちらかと言うと、私も迷子になりやすいタイプなのだけど。
知ってる場所だったので、
あちこち指で方向を差しながら道順を説明する。
なぜか、昔からよく、人に道を尋ねられる。
でも、ナンパ目的で声を掛けられたことは無い。
男性の背中を見送りながら、
コーヒーショップの彼だったら、女性からナンパされそうと思った。
同僚が彼を見つけて騒ぎ出すのも、時間の問題かもしれない。
そう思うと、少しモヤッとしてしまった。
✴✴✴
今日も、同僚とランチした後に一人で店に入る。
珍しく時間に余裕があったので、
たまには店内でゆっくりしようと思った。
視線が自然とカウンターを探す。
不自然にならないように気をつけてるつもりだけど。
きょろきょろと店内を見渡す私は、
端から見れば落ち着きがないかもしれない。
そして――
「いらっしゃいませ」
見つけるよりも先に、彼の声が届いた。
思わず、胸がくすぐったくなる。
目が合って彼が微笑むと、そのままカウンターの奥に引っ込む。
その背中を、なんとなく目で追ってしまう自分に苦笑した。
「ラテお願い」と、先輩らしき店員が声をかける。
「はい」
軽く返事をして、彼がミルクをスチームする。
(カフェラテ、作るようになったんだ)
なんとなく気になって、今日は気分を変えてみることにした。
「店内で……カフェラテ、お願いします」
「かしこまりました」
店員がオーダーを入れると、彼は一瞬こっちを向いた。
✴✴✴
「お待たせしました」
いつものように、彼が受け取り専用のカウンターに来た。
トレーに乗ったカップを見て、思わず息をのむ。
「わぁ、可愛い!」
ふわりと浮かぶ、ハートのラテアート。
繊細で、綺麗で。
思わずそのまま見つめてしまう。
「ありがとうございます」
彼が、照れたように笑った。
――そして。
視線を少し落とすと、ぽつりとつぶやく。
「翠、さん……」
「え!?」
突然名前を呼ばれて、思わず目を見開いた。
「あ、すみません、その……」
彼も、驚いたように口元を手で覆う。
視線を追って自分の胸元を見ると、首から下げた社員証が。
(あ……)
名前を知られたことが、妙にむず痒い。
しかも、下の名前だけ呼ばれたことに照れてしまう。
顔を上げると、 彼も気まずそうに笑った。
「……熱いので、気をつけてくださいね」
声はいつも通りなのに。
やわらかな空気感が残っている。
私はぎこちなくお礼を言って、トレーを持ち上げた。
(飲むのがもったいないな)
ずっと眺めていたい。
席に着いたら、写真を撮ろうと決める。
トレーを持って席へ向かおうとしたときに、
背後から「大胆だね~」と先輩店員の声が聞こえた。
振り返ろうとした瞬間、カフェラテが揺れた。
——崩れそうで、慌てて動きを止める。
前に注文していた人のカップが横目に入った。
(あれ?)
そこに描かれていたのは、リーフの模様だった。
自分のカフェラテに目がいく。
(こっちは、ハート……)
じっと見ていると、頬も胸も熱くなってくる。
でも、小さく首を横に振った。
(全部、たまたまだよ)
意味なんて、きっとない。
それでも。自然と口元が緩んでしまった。
✴✴✴
あのあと。
駅ナカの本屋で、珍しくファッション誌を買った。
《マイナス5歳若見え》
そのキャッチコピーに惹かれたから。
年齢よりも上に見られがちなのが、本当はずっと嫌だった。
地味な格好が良くないのかもしれない。
(ハートのラテアートが似合う女の子って、どんな服を着るんだろう?)
胸の奥が、そわそわと騒いでいた。
✴✴✴
――ある日。
取引先との打ち合わせから戻る途中で、ちょうど店から出てくる彼を見かけた。
(私服だ!)
カフェの制服とは違う、
やわらかい緑色のシャツを羽織った姿が新鮮だった。
最近の若い男の子らしい、ゆったりとしたシルエット。
意外と鍛えられていて、
普段は制服で隠れている腕に、思わず目がいってしまう。
「!」
足が止まった。
彼の後ろから、若い女の子が出てきた。
華やかな雰囲気で、2人が並ぶと絵になる。
——そのまま、並んで歩いていく。
「あ」
彼と目が合ってしまった。
私は慌てて下を向いて、急ぎ足ですれ違う。
……なんとなく。
『翠さん』と、呼ばれたような気がした。
でもきっと違う。
たぶん、この前の彼が浮かんだだけ。
胸が沈んで、ざわついた。
そんな自分の状態に、ハッキリ言ってショックだった。
あのコーヒーショップは、仕事の合間に立ち寄るだけの場所。
店の雰囲気とコーヒーの味が気に入ってる。
癒されただけ。
それ以上を望むつもりはない。
(そもそも、年下に興味を持つなんて有り得ない)
オレンジ色に染まったビル街。
建物の窓ガラスに映る私の姿が目に入る。
灰色ばかりを選んできた私は、
どう見てもハートのラテアートが似合わないと思った。
(年下に興味を持たれるのも、有り得ない)
「いい歳して……やだな」
ラテアートひとつで浮かれて。
ひどく滑稽で、情けない。
ガラスに映る自分の姿に、しかめっ面をしてみた。
昼間はまだ、じっとりした暑さが続いている。
でも夕方には、少しだけ涼しい風が吹いてくる。
夏が、急ぎ足で終わっていくんだなと思った。
✴✴✴
あの日から、コーヒーショップに寄っていない。
ランチ仲間の同僚が出張中で、社内でお昼を済ますようになった。
ちょうど良いと思った。
毎週水曜日はノー残業デーなのに、
すっかり形だけになっていて、上司に注意された。
だから今日は、定時に会社を出る。
店の横を通るときに、さりげなく見てしまう。
けれど、彼の姿は見つけられない。
小さく溜息をついていると、
突然、前から歩いてきた男の人に声をかけられる。
「すみません。このビルは、どこにありますか?」
また、知らない人に道を聞かれた。
スマホを見せながら困っている男性に、道順を教えようとする。
すると――
私の頭上から、遮るようにスッと影が落ちる。
「この先にあるコンビニを右に曲がります。
そのまま真っ直ぐ行って3つ目の建物ですね」
ドキンっと胸がうるさく高鳴った。
(――彼だ!)
肩ごしにスマホをのぞき込む彼。
少し、呼吸が乱れている。
ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
私は何も言えなくて、穏やかな声を耳元で感じながら、
自分の胸の音を抑えるのに必死だった。
男の人がお礼を言って去っていった。
たった数分のことのはずなのに、ずいぶん時間が経ったように思えた。
「……ナンパかと思いましたよ」
低く抑えた声。
「えっ?」
意味がわからなくて、ゆっくり振り向く。
目の前に彼の首元があり、さらにドキッとする。
思わず一歩下がった。
「また、道を聞かれたんですね」
いつもの笑顔を向けられた。
「……また?」
「覚えてないですか……」
苦笑しながら私を見つめる目がやさしい。
「よく見かけますよ。迷子を助けるあなたを」
「ええ!?」
「大きな手振りで説明する姿が小動物みたいです」
「しょ、小動物……!?」
思っても見なかった言葉に目を見開く。
「はい」
彼はクシャっと笑いながら頷いた。
「可愛いですよ。――翠さん」
(か、か、可愛い!?)
年下の男の子の言葉に、どう返したらいいのかわからない。
私は、頬が一気に熱くなるのを感じた。
「白石くん、お先に!」
突然、彼の背後から明るい声が聞こえる。
「あ、お疲れさまでした」
白石と呼ばれた彼は、頭を下げる。
(白石くんっていうんだ)
一気に熱が引いていくのを感じる。
声を掛けてきたのは、前に彼といた女の子だった。
「君の彼女だ……」
思わずボソッと言ってしまう。
「はい!?」
今度は彼が、信じられないと言った顔で私を見た。
そして大げさに首を振る。
「違いますよ。この店の先輩です!」
「それにほら」と、彼が顎で指し示す。
道路脇に車が止まって、彼女は乗り込んでいった。
運転席には男の人がいた。
「あの子の彼氏ですよ」
「ええっ!?」
(私、勘違いしてたの……?)
途端に気が抜ける。
さっきから気持ちが落ち着かないし、
あからさまに安堵している自分が恥ずかしい。
いい加減、どうにかなりそうだ。
「ハートだけじゃ、伝わらないかぁ」
突然、彼の口から出た言葉。
(?)
気づけば距離が近い。
目にかかった前髪を、骨ばった指でかき上げる仕草にドキリとする。
年下の男の子だと思っていたはずなのに。
たった数日間会わないだけで、こんなに大人びた顔をするものなんだろうか。
(クラクラしてきた……)
視線を逸らそうとした、その時。
「この前のラテなんですけど」
彼の声に引き止められる。
結局、また目が合ってしまった。
「一番うまく出来たんです」
「あの、ハートのカフェラテ……?」
私が聞き返すと、彼は頷く。
「ホットコーヒーじゃない日を、
ずっと楽しみにしてました――翠さん!」
そして、照れたように笑った。
(え……?)
思考が止まる。
私の反応を見て、彼は少し困った表情をする。
それから店の方に視線を向け、すぐにいつもの恥ずかしそうな笑顔に戻る。
「また、お店に来てくださいね」
「は、はい」
私は頷くしかなかった。
彼は足早に店へ戻ろうとするが、思い出したように立ち止まる。
「今日はもう、仕事おしまいですか?」
「え、うん。水曜日は定時で……」
彼は「ふーん」と頷くと、
「いいこと聞きました!」と、嬉しそうな顔をした。
「ど、どうして?」
彼は曖昧に笑う。
「これからは――もっと、分かりやすくしますね」
そう言って軽く手を振ると、自動ドアが開いて店内に戻っていった。
(行っちゃった……)
胸の高鳴りが収まらない。
見慣れたはずの景色が、いつもより明るくて、目が眩みそうになった。
店の外でも時々見られていたことも。
小動物に例えられたことも。
年下の男の子から、可愛いと言われたことも。
(また、勘違いかもしれない)
一気に色んな言葉を聞いて、頭が追いつかない。
とにかく明日は、コーヒーショップに寄ろう。
(さっきの、道案内のお礼をし忘れたから)
(それを言うだけ……)
(……)
違う。
(白石……くんと、もっと話してみたいから)
それと。
このまま、どこかで服を見て帰りたい気分になった。
なんとなく、いいなと思っている色があるから。
灰色ではなくて。
少しだけ、甘い色――
スマホを取り出して画像フォルダを開く。
カフェラテを見つめる。
いくつも重なった繊細なハートの形。
あのとき見たよりも、何故かずっと大きく見えた。
――私の中で。
終

