「マリエル。お前のように地味な令嬢では、王家の妃は務まらぬ」
学院卒業の夜会で、第二王子レオハルト・アルテリア殿下はそう告げた。
殿下の脇には、結い上げた金髪に真珠を散らした令嬢が立っていた。灯火を一身に集める、鮮やかな緋色のドレス。社交界でよく名を聞く伯爵家の令嬢だった。
「ヴェルヌイユ侯爵令嬢との婚約は、本日をもって解消する」
ホール中の視線が、壁際に立っていたわたくしへ集まった。
けれど、不思議と痛みはない。
三年間、少しずつ刺され続けた古い傷の上には、もう新しく刺さる余地が残っていなかった。
わたくし──マリエル・ヴェルヌイユ侯爵令嬢は、王宮ホールの壁際で、果実水のグラスを手にしていた。
淡い色のドレスが、蜜色の灯火の下で、地味な銀灰色に沈む。家紋と同じ色。ヴェルヌイユ侯爵家では、未婚の娘が公の場で家紋色を身につけるのが慣わしで、その慣わしを十九年間、ほとんど疑わずに守ってきた。
三年間、ずっと、気付かないふりをしてきた。
学院に入った頃から、それから婚約期に入った三年の間も、ずっと、あの方の隣に立ったことが少なかった。
礼法、舞踏、楽器。それから、婚約者の歩幅に合わせて半歩下がること。時間をかけて身につけたものは、いつもあの方の視界の外で完成していった。
「マリエルは控えめでいい」とは、三年で何度も聞いた言葉だった。「華やかさが足りない」「妃には物足りない」も、同じくらい何度も聞いた。
褒められているのか、いないのか、そのたびに気付かないふりをした。気付いたところで何ができるかなど、考えたこともなかった。
飲み終えた果実水のグラスを、卓にそっと置く。グラスの底には、薄黄色の雫が一つだけ残っていた。
殿下が、もう一度名を呼んだ。
「マリエル、聞いているか」
「ええ、聞いておりますわ」
そう答えた。
声は震えなかった。
控えめさだけは、わたくしが長く磨いてきた所作だった。
周囲から、息を呑む音と扇子を動かす音が、波のように戻ってきた。
それから、壁際へ向けられたたくさんの視線が、左右からゆっくりと集まってくる。以前、舞踏会の所作について、ささやかにお伝えしたことのある令嬢が、わたくしと目が合いそうになって、視線を逸らした。
脇の令嬢が、口元を扇で隠して笑う。
扇の下の唇が薄く弧を描いているのが、灯火越しにも見えた。
「承知いたしました」
と、はっきり答えた。
殿下は満足そうに、脇の令嬢の手を取り、ホールの中央でくるりと向きを変えた。
その背中を見たとき、心の中で何かが終わった音がした。
卓のグラスから指を離す。
壁際から歩き出すと、周囲の人々がふっと道を空けた。
憐れみと、好奇と、名前のない感情の混ざった視線が、左右から細い線のように絡みつく。気付かないふりをした。
ホールの出口の手前で、父と目が合う。
父は、わたくしが一歩近づくと、一度だけ瞼を伏せた。
何も言わずに、ホールの外側へと、わたくしのために道を空けてくれた。
ホールを出ると、廊下のひんやりとした空気が頬に当たった。
夏が始まる前の、まだ冷たい夜の風。
馬車の中は静かだ。
向かいに座った父は、しばらく石像のように動かないまま、ゆっくりと口を開いた。
「マリエル、屋敷へ戻るか」
王都の屋敷か、領地の屋敷か、と問うているのだった。
「領地に下がります」
そう答えた。
「もう、誰かの隣で、ただ控えめな飾りとして立つために嫁ぐつもりはございません」
父はわたくしの顔を見て、それから窓の外に視線を逸らした。窓の外では、王都の灯が遠ざかりはじめている。
「分かった」
それだけだった。
馬車の揺れに身を任せ、目を閉じる。
不思議と静かだ、と、何度も繰り返した。
これほど痛まなかったのは、初めてだった。
目を閉じていると、ホールの灯火と、ざわめきと、視線の波が、馬車の揺れの一拍ごとに、遠ざかっていく。
◇◇◇
学院の卒業から、二月(ふたつき)が過ぎていた。
領地の春は、王都より少し遅い。ヴェルヌイユ侯爵領の屋敷では、桜が散り終わる頃になって、応接間の窓から薄紅の花弁が一片、机の上に流れ込んでくる。
その花弁を指先で拾い上げて、卓の隅に置いた。
王都の灯火、ホールのざわめき、殿下のお声。それらの記憶は、領地に下がってひと月もすると、海の底に沈むように遠くなった。
沈むのを止めようとはしない。
沈むことが、ここでの暮らしの基本。
母は最初の数日だけ、わたくしの背を撫でて何も言わず、父は王都と領地を行き来して、事業の話を一切しなかった。
朝、昼、夜。時間は何も起きない順序で過ぎていく。
庭の桜が咲き、散り、白い花弁が地面に積もっていった。
応接間で、父と紅茶を飲んだ日があった。
「マリエル」
「はい、お父様」
「王都から、いくつか縁談の話が回ってきている」
父の声は、責める色も、急かす色もなかった。事実だけを伝える声だった。
「いずれの家も、お前を望んでいる」
紅茶のカップに指を添えた。指先が、湯気に少しだけ温められた。
「お父様、申し上げにくいのですが」
「うむ」
「もう、誰かの華やかさを支えるためだけの嫁ぎ方は、いたしません」
馬車の中で告げた言葉を、もう一度、別の言い方で繰り返す。
父はしばらく卓を見て、紅茶のカップを口に運び、ゆっくりと一口飲んで、また卓に戻した。
「分かった」
それだけだ。
母は応接間の入口で、その会話を聞いていたらしく、わたくしの隣まで歩いてきて、椅子の背の向こうから、わたくしの手を一度だけ握ってくれた。
母の指先は、わたくしの指先より少し冷たい。
それから、数日が経った頃のことだ。
侍女が、応接間に書状を運んできた。
「お嬢様。お父様あての書状が、いくつか届いておりますが、まだお戻りにならず、お預かりしてもよろしいでしょうか」
「ええ、書斎の机に置いておいて」
侍女は腰を屈めて、書状を卓の隅に置いた。封蝋が赤く、わたくしが指先で触れると、ざらついた感触がする。
「どちらからの書状ですか」
「お名前までは伺っておりませんが、どこかの公爵家からのご用件で、この領地に立ち寄られる方がいらっしゃるとか、ここのところ、噂を聞きます」
「公爵家」
侍女はうなずいた。
わたくしは書状を卓の隅に押しやった。
「お父様の事業の件でしょう。わたくしには関わりのないこと」
そう答えた。
その日の午後、書斎に上がって、学院の六年で読んできた本を、棚から一冊ずつ抜いて、机に積み上げていった。
表紙に積もったうっすらとした埃の上に、指先の触れた跡が残る。
歴史書、礼法の手引き、それから学院の最終学年で借りていた語学の参考書。参考書を開くと、栞が一枚、ページの間に挟まったままだった。
栞には、わたくしの細かい筆跡で、短い書き付けがあった。
──卒業前、図書館に手帳を置き忘れたようだ。気付いた方がいらしたら、お返しいただきたい。
そう書いてあった。
学院の最終学年の冬、わたくしは手帳をどこかで失くしたのだった。栞のメモにはそう書いてあるのに、落とした手帳の中身も、誰がそれを拾ってくださったのかも、もう思い出せない。
学院の隣の席は、半年ごとに変わった。最終学年の春から夏は、おとなしいご令嬢の方。秋からの半年は、確か、お顔をよく覚えていない方が座っていらした。
わたくしの記憶は、霞のかかった水面のようだ。
栞を本に挟み直して、棚に戻した。
棚の整理は、半月もあれば終わるだろう。それから先のことは、まだ考えていなかった。
考えなくても、領地の春は、ゆっくりと過ぎていくはず。
そう、わたくしは信じていた。
◇◇◇
桜が散りきった頃、屋敷の応接間に来訪者があった。春の終わりの、桜の名残のような淡い午後だった。
「お嬢様。グランフォール公爵様がお見えでございます」
侍女の取り次ぎの声に、書斎で本に伸ばしていた指先が、思わず止まった。
グランフォール公爵。
数日前の侍女の伝聞が思い出された。それが父の事業の件ではなく、わたくしを訪ねていらした方の話だったとは、想像していなかった。
「お通ししてください」
そう答えた。
声に、微かな揺れがある。
ドレスの裾を整え、応接間に下りる階段を、一段ずつ、計るように踏む。
応接間の戸を開けると、窓の前に立っていた方が、こちらを振り返った。
黒い髪と、灰色の瞳の方だった。
公爵家の方なのに装飾が控えめで、落ち着いた色合い。
よく見ると、ヴェルヌイユ家の家紋色とどこか似ている。
「マリエル様」
耳に残るような、低い声。
「突然のご訪問を、お許しください。グランフォール公爵、セヴランと申します」
「セヴラン・グランフォール公爵様」
そのお名前と、それからお顔を、どこかで見たことがあった。
学院、と一拍遅れて思い至った。
「学院の、最終学年の」
「ええ」
公爵はわずかにうなずいた。
「秋からの半年、隣の席に座っておりました」
学院最終学年の秋の隣席。霞のかかった水面の向こうから、その時期の記憶が、薄く浮かび上がってくる。教室の窓辺、机の上に置いていた一冊の手帳。書斎の栞に書き付けてあった、図書館で失くした手帳。
けれど、その方のお顔は、今のいままで思い出せなかった。
公爵に席についていただいて、侍女に紅茶を頼んだ。
紅茶のカップが、侍女の手から公爵の前に運ばれる。
湯気が二人の間で一度だけ揺れて、消えた。
「マリエル様」
公爵は、上着の内側から、小ぶりな手帳を一冊取り出した。
「学院の最終学年の冬、図書館でお忘れになったものを、わたくしがお預かりしておりました。お返しに参りました」
差し出された手帳は、わたくしのもの。
表紙の内側を開くと、三年前の細かい筆跡があった。
最初の数ページに、学院の予定が書かれていた。礼法の稽古、舞踏会、楽器の発表。
けれど、そのあとに続くページに書かれていたのは、別のことだった。
──殿下の歩幅が速い。次は少し早めに歩く。
──夜会の席次、間違いがないか再確認。隣国大使夫妻のお席は上座へ。
──殿下が華やかな色をお好み。次の正装は銀灰に淡金を足す。
──殿下、お酒に弱くなられた様子。次は控えめにお勧めする。
──殿下のお気に入りの曲、覚える。次の舞踏会で楽団に申し送る。
一行一行が、三年間のどこかでわたくしが書いたものだった。書いたことは、すっかり忘れている。
殿下のために、半歩下がる位置から、毎日、整えてきたものだった。
「マリエル様」
公爵は紅茶のカップを置いた。
「殿下のために、誰にも見えないところで整えていらっしゃる方なのだと、当時の私は知りました」
公爵は急がなかった。
「卒業前夜の図書館で、お忘れになったこの手帳を拾い、お渡しできないままここまで参りました」
「侯爵家へお届けすることも考えました。けれど、婚約者のある令嬢のわたくし物を、若い公爵が名指しで返したとなれば、あなたに要らぬ噂を立てることになる。そう思い、機を逃しました」
「ご婚約のあるお方に、わたくしが何かを申し上げることはできませんでした」
「学院でお見かけしてからの三年あまり、お気持ちは、変わることがありませんでした」
公爵はわたくしの目を、応接間の光の中で、まっすぐに見ていた。
「けれど、卒業夜会で殿下のお言葉を聞いて、もう二度と、黙って見ているだけではいられないと思いました」
卒業夜会のお言葉。「華やかさが要る」「地味すぎる」「お前のように地味な令嬢では、王家の妃は務まらぬ」。
殿下がご存じなかったのは、「地味」と切り捨てたわたくしの所作が、殿下の歩幅と、席次と、お衣装と、お酒と、お気に入りの曲とを、毎日のように整えていたこと。
今になって、ようやく分かった。
そして公爵は――
それを学院の頃から、隣の席で見ていらしたのだ。
◇◇◇
「公爵様」
声を、ゆっくり整えた。
「学院では、わたくしを見ていらしたのですか」
公爵はわたくしの目を見て、うなずいた。
「ええ」
「別の誰かではなく、わたくしを」
「マリエル様を」
そこまで聞いて、紅茶のカップに指を添えた。
指先は、湯気ではなく、紅茶のカップそのものの温かさに触れている。
「お見えになった理由を、もうひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「公爵様は、わたくしを、本当に必要としていらっしゃいますか」
もう、誰かの飾りとして嫁ぐつもりはなかった。
誰かの隣で、ただ控えめな飾りとして立つつもりは、なかった。
けれど、この方は、わたくしを飾りとしてではなく、所作も沈黙も、誰にも見えなかった時間も含めて、必要だと仰っているのだろうか。
公爵は紅茶のカップを置いた。
「わたくしが必要としているのは、控えめな侯爵令嬢という肩書ではありません」
公爵は応接間の光の中で、わたくしの目を見ている。
「人の視界の端で、誰よりも丁寧に務めを果たしていらした、マリエル様ご自身です」
セヴラン様は、静かに続けた。
「誰にも気づかれない場所で先回りなさるお姿を、学院の頃から見ておりました」
──別の誰かではなく、わたくしを。
──本当に必要としていらっしゃいますか。
公爵はわたくしの問いの一つ一つに、答えてくださった。
応接間の窓から、午後の光が薄く差し込む。
紅茶のカップは、湯気を立てなくなっている。
公爵がゆっくりと立ち上がり、わたくしの座る椅子の傍まで歩み寄り。
それから、片手をわたくしの方へ差し出した。
「マリエル・ヴェルヌイユ侯爵令嬢」
差し出された指先が、応接間の窓辺の光を一筋受けて、止まった。
「わたくし、グランフォール公爵セヴランは、貴女に結婚を申し込みたく、本日参りました」
椅子から立ち上がった。
公爵の指先に、わたくしの指先を、預けるようにそっと添えた。
公爵の指先は、わたくしの指先より、少しだけ温かかった。
学院で隣の席にいた頃には、知らなかった温度だった。
すぐに頷くのは、また誰かの言葉に従うことではないのか。そう思った。
けれど、差し出された手は、わたくしを半歩後ろへ置くためのものではなかった。
「お受けいたします」
そう答えた。
声は震えなかった。
「セヴランと、お呼びくださいませんか」
公爵──いえ、セヴラン様は、そう言ってわずかに頭を下げた。
「セヴラン様」
と、お呼びした。
はじめてお呼びしたその名は、応接間の午後の光の中で、思いのほか自然な形をしている。
◇◇◇
それから、いくつかの手続きが静かに進む。
公爵家からの正式な書状、父の同意、王都の社交界への簡素な届け出。
数週間後、公爵家の馬車が、ヴェルヌイユ邸の門前に止まった。
旅装に身を整えて馬車に乗ると、御者が手綱を取り、車輪が動き出す。
車輪の音が、ヴェルヌイユ侯爵領の春の名残をゆっくりと切り抜けて、王都の方角へと進んでいった。
向かい合った座席。
窓越しに、領地の桜の名残が遠ざかっていく。
そして。
――公爵家に入って、数週間が経った。
ある朝、応接間に運ばれてきた王都朝刊の社交欄に、短い記事が一段、載っていた。
第二王子レオハルト・アルテリア殿下の婚約発表が延期。
理由は伏せられていた。
けれど、王宮の夜会で、新たな婚約者となる伯爵令嬢が招待客の順序を取り違え、隣国大使のご夫妻を末席に案内しかけた、と公爵家の侍女たちは伝え合っていた。
古くからの慣例。
隣国大使夫妻のお席は上座にお迎えする、ということを、その伯爵令嬢はご存じなかったのだろう。
それは、一度の失敗というより、いままで誰かが黙って整えていたものが、少しずつ綻びはじめたということだった。
華やかさは、遠くから見れば人目を引く。
けれど、国の席次を支えるものではなかった。
後日、王宮の正餐で、第二王子は隣国大使から過去の取り決めについて問われ、答えられずに沈黙したという。
かつてなら、私が前日までに覚書を用意していたはずの話だった。
──それを誰がどんな顔で読んだかは、わたくしの知るところではない。
朝刊を、読み終える前に畳んだ。
──もう、半歩下がって整えるべき席ではなかった。
侍女が、空になった紅茶のカップを下げに来た。
畳んだ朝刊は、その日のうちに、書斎の棚の隅へ。
外では、初夏の風が、公爵家の薔薇の蕾を、一日分だけ膨らませている。
◇◇◇
初夏の朝、公爵家の庭園で、薔薇が朝の陽射しを受けて開いている。
セヴラン様と、朝の散策に出た。
公爵家の庭園は、故郷の桜とは違って、夏に向かう薔薇の領分だった。
陽射しが、肩に薄絹のようにかかる。
セヴラン様の歩幅は、いつもわたくしの歩幅に合わせて、半歩、緩められている。
「マリエル様」
「はい、セヴラン様」
「お疲れではありませんか」
「いえ、大丈夫ですわ」
セヴラン様の手が、わたくしの手をそっと取った。
「庭園の薔薇は、これから初夏まで、毎日少しずつ咲いてまいります」
「ご一緒に、毎朝、見にいらしてくださいますか」
「ええ」
そう答えた。
声に迷いはない。
セヴラン様の指先は、応接間で初めて触れたときと、変わらず温かい。
学院で隣の席にいた頃の温度を、もう思い出せなかった
わたくしの指先が、絡む。
セヴラン様の指先が、わたくしの指先の上で、応えるように軽く返してくる。
もう、誰かの半歩後ろを歩く必要はなかった。
セヴラン様は、わたくしの歩幅に合わせて、同じ朝の中を歩いてくださっている。
朝の薔薇の上を、陽射しがゆっくりと渡っていく。
初夏の風が、薔薇の枝を一度だけ揺らして抜けていく。
なんてことない朝の風が、ゆっくりと吹き抜けた。
華やかな、宮廷の空気を押し流すように。
庭園の向こうから、公爵家の鐘が、朝の刻を打った。
空気を打つように音が響く。
王宮ホールで聞いた、誰かに聞かせるための声とは違って。
低く、長く、庭園の隅まで丁寧に。
控えめであることは、消えることではなかった。
これが、私が選んだ朝。
今、私が立っている場所だった。

