所詮わがまま、されど私の光。

 カーテンを閉め切った部屋で、部屋は人工的な明かりだけが照らしている。日光すら入れられない。そんな部屋で私は会社に行くためではなく、会社に電話をかけるために、朝七時に目覚ましをかけていた。

「すみません。ちょっと風邪が長引いていしまっていて……今日も有給をもらっても良いですか?」
「あら、もう三日目なのに。大丈夫?」
「はい。明日には出られるように早く治します」
「良いのよ。今は自分の体調だけ考えてね」

 電話をかけたのは、職場の同じ部署で私が一番優しいと思っている人。でも、その人ですら私の仮病に気付きつつも、気付かないフリをする。それは私を気遣っている優しさなのか、それとも面倒くさいことに関わりたくないのか。
 三日前……いや、もっとずっと前から私は課長にパワハラを受けている。日常的に向けられる厳しい言葉たち。

「そんなことも出来ねーの?」
「はぁ……もっと有能な部下が欲しかった」

 そして、頭にフラッシュバックする怒鳴り声。

「俺の手を(わずら)わせるんじゃない!!!」
「そんな顔をすれば許されるとでも思っているのか!!!」
「馬鹿が! 面倒を見る俺の気持ちにもなってみろ!!!」

 誰も助けてくれなかった。
 私を助ければ自分に危害が及ぶのに、助けてくれる人はいるはずもなかった。きっと私だって逆の立場だったら見て見ぬフリをしたかもしれない。
 その時、ピコンとスマホの通知音が鳴る。ビクッと文字通り身体が震えた。恐る恐るメッセージを確認すると、課長からではなかった。明らかに心拍が落ち着いていくのを感じる。届いていたのは、送信主不明のメッセージ。

『こんにちは。パワハラで困っていませんか?』

 落ち着き始めていた心臓が跳ねた気がした。
 それでも、全く身に覚えのない人から来た以上、迷惑メールとしか思えない。私は、シュッと指でスライドしてトークルーム自体を消した。
 今のご時世、パワハラへの対処法は色々あるのかもしれない。でも、もう心は悲鳴をあげていた。このまま会社を辞めても、また別の会社で再就職出来るかもしれないと考えてしまう。会社を休んだ日から、一日一回カップ麺を押し込んで体に入れ、トイレにだけ何とか立ち上がる。そんな期間も考えていることは一つだけ。

『会社に行きたくない』

 そして、想像するのだ。課長が社会的にバッシングされる状況を。社会が私に優しくなる状況を。
 行動には移せないけれど、そんな想像が頭を巡ってしまう。そして、ぐるぐる巡った想像だけでは気は晴れないし、現実は変わってくれない。
 ベッドからローテーブルに置いてあるお茶が入ったままのグラスを見つめる。私は喉が渇いたけれど動きたくなくて、寝転んだままぐーっと腕だけ伸ばし、グラスに手をかけた。

(あ、届いた)

 しかし、ギリギリで触れたグラスは変な方向に動いた。ガチャン、と大きな音がしてお茶がこぼれ、グラスが割れる。
 もう片付ける気力もなくて、ただしばらく割れたグラスを見つめていた時だった。

 ピンポーン、とチャイムがなる。定期便でネットで頼んでいる生活用品だろうか。洗剤やティッシュペーパーがないと困るので、流石に受け取らないわけにはいかなかった。それにいつもウチに来る宅配便のおじさんは優しいから大丈夫だろう。

「はーい」

 しかし、扉を開けて立っていたのは、長い黒髪をポニーテールでまとめた二十代くらいの女性だった。

「こんにちは」

 女性は可愛らしくにこりと笑って、そう言った。

「こ、こんにちは……」

 しまった、ちゃんとインターホンのモニターを確認して開ければ良かった。セールスだと思うが、今は対応している気力も体力もない。とりあえず、何か上手いことを言って帰ってもらわないと。しかし、女性が続けた言葉は想定外のものだった。

石垣(いしがき) 園葉(そのは)さんですね。私、経理部の大津(おおつ)と申します」

 今の私の服装はパジャマだし、髪もボサボサだ。風邪で休んでいるなら普通のはずなのに、今の私は動揺してそんな意味が分からないことを気にしてしまっていた。それに無断欠勤をした訳でもないのに、なぜ違う部署の人間が私の家に来るのだろう。わざわざ職場に提出している書類から住所を調べたということだし、ましてやまだ三日しか休んでいないのに。

「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ」

 そんなことを言いながら、私を怯えさせている元凶の大津と名乗った女性は私の家の玄関に勝手に上がり込んだ。

「え、ちょっと!!!」
「ああ、すみません。上がって良いですか?」
「それは……会社にもお伝えした通り、今は風邪を引いていて……」
「ああ、そういう設定でしたね。にしても家に人を上げるかの権限は家主にあるのに、風邪を言い訳にして上がらせないなんて噂通りの方ですね。私だったら理由なんてなく、あげたくないのであげません」

 正直ゾッ、とした。
 この人は突然家に来て、何を言っているんだろうと。大きな会社だから経理部の人まで把握していなかったけれど、もしかしてうちの会社の人間ですらないのかもしれないと思えてくる。
 でも、入社してすぐの時、噂でうっすらと聞いたことがある。経理部に変わった人がいて融通が効かないと、課長が文句を言っていた。名前はしっかり覚えていなかったけれど、大津と言われればそんな気がしてくる。そのまま私の家に上がり込んだ大津と名乗った女性は、私の家を見渡して一言。

「わー、汚いですね」

 変わった人だと思っているので、もう驚きもしなかった。そして、また何かを言われるのが面倒くさくて、私は割れたグラスを片付けようと手を伸ばした。すると、何故か大津さんが私の手首をパシッと掴む。

「危ないですよ」

 先ほどまであんなに私を馬鹿にしていたくせに、何故そんなことを言うのか分からない。心配したフリをするタイプでもなさそうな彼女は、そのまま「怪我をしたら大変ですよ」と続けた。そして、長い黒髪をまとめた黒髪を一旦解いて、スラスラとお団子に結び直した。

「新聞紙はどこですか?」
「そこの棚の下に……」
 
 訳がわからない大津さんが怖いのに無視も出来ない私はやっぱりダメなんだと思う。新聞紙を取り出し、私に軍手の場所を聞いた大津さんは割れたグラスの片付けを始めた。そして、片付け始めて三秒でまた私の方を向く。

「石垣さんも一緒にやります?」

 そう言い放ち、私に軍手を投げ捨てるように渡す。困惑したまま、言われた通りに軍手をはめていると視線を感じた。まだ大津さんが私の方を見続けている。それに気づいて目を合わせた瞬間、彼女は今までの行動の原因を明かした。

「私、したいことはするって決めているんです」

 「え?」とか「は?」すら出なかった。多分、今の私の顔は漫画だったら横に「きょとん」と文字をつけられるような顔だと思う。そんな私の顔を見て、大津さんがくすくすと笑う。

「ふふっ、そんな顔の顔文字ありますよね」

 もはや悪口かどうかすら分からない言葉を言いながら、大津さんは不躾(ぶしつけ)に私の顔を覗き込んで見ている。その行動を見て、やっと先ほどの言葉の意味が遅れてやってくる。
 彼女は、やりたいと思ったことをやらないという選択肢がないらしい。今はきっと私の表情をしっかり確認したかっただけ。彼女はグラスの破片を片付け終わると、「はぁ〜、疲れた」と腕を伸ばした。

「石垣さん、喉が渇いたので飲み物を買ってきますね」

 勝手に家に上がり込んで、要件を言う前に出ていく。私には想像出来ない世界だった。それでも、きっと大津さんは今「喉が渇いた」と思ったのだ。もっと言えば、「喉が渇いたから飲み物を買いに行きたい」と思っただけなのだ。
 課長の言っていた意味がやっと分かった。まさに彼女は変わり者なのだろう。
 そして、彼女が近くのコンビニに飲み物を買いに行っている十分間で頭が回ってくる。彼女はしたいことをしているだけ。しないという選択肢を取れない人なのだ。つまり、ただ単に私の部屋にグラスが散らかっているのが気になって、彼女自身がグラスを片付けたかったのだ。十分間私は座り込んだまま、動くことも出来なかった。部屋に戻ってきた彼女がまた私の顔を不躾に覗き込んでいる。

「それで、私がここに来た理由はですね」

 突然明かされる一番気になっていたこと。そして、その内容は衝撃的だった。

「最近、商品開発部の課長がパワハラをしているって聞いたんです。で、パワハラされている子が一言も言い返さないような気弱な子だとも聞いて。そんなに酷いことをされて言い返さない人間の顔を見てみたかったんです」

 つまり、彼女は言い返さなかった私の顔を興味本位で見たいと思った。そして、実際に見に来ただけだというのだ。

「意味が分からない……」

 やっと漏れた言葉は、まさに私の本心だった。
 そんな私の言葉を気にもせず、彼女は続ける。

「それに、先ほどのメッセージは見ましたか? わざわざ挨拶を送ったのに返事がなかったので不思議だったんです」

 頭に浮かぶのは、先ほどの迷惑メール。確か内容は……

『こんにちは。パワハラで困っていませんか?』

 大津さんは、私と目を合わせたまま穏やかに微笑んだ。

「あの人……石垣さんにパワハラをした駒井(こまい)課長、あの人いつも伝票を出すのが遅いので経理部の私も困っていたんです。それで私の仕事も増えて、昼休みに食べたいランチが食べられなかったんです」

 彼女の原動力はいつだって自分のしたいことが出来るかどうか。

「私は、私のしたいことを邪魔する人を許したくないんです。だから、石垣さん。私のしたいことを邪魔する人を一緒に倒してくれませんか? 石垣さんにとっても悪くない案だと思うんですが」

 それは地球に隕石がぶつかったような衝撃だった。実際に隕石がぶつかったような衝撃が起きたのは、きっと私の頭だけだけれど。

「ていうか、この部屋暗くないですか?」

 彼女が突然そんなことを言い出す。そして、「部屋を明るくしたい」だけの彼女がカーテンをガラッと思いっきり開けた。
 悔しいけれど、それが三日ぶりにこの部屋に入った日光だった。これから、彼女は私の人生に変化を与えることになる。