それから一年。
エリカは王宮で、すっかりなくてはならない存在になっていた。
朝は子供たちのお弁当を作り、昼は国王の分を詰め、夜は晩餐会の献立にも意見を出す。
いつの間にか、ただの厨房女ではなく、陛下の専属料理人と呼ばれるようになっていた。
「えりかー!きょうのおやつはなに?」
「焦らなくても出てきますよ。シャルロット様」
「プリンかな?プリンだよね?」
「……プリンです」
「やったー!」
弾むように走っていくシャルロットを見送り、振り返ると国王が立っていた。
「……私の分は?」
「陛下のお分も、もちろんございます」
「そうか」
口数は少ないくせに、こういうことだけは欠かさない。
この一年で、エリカはその不器用さが嫌いではないと知っていた。
国王は弁当箱を見つめたまま、ぽつりと言う。
「……やはりお前の作るものは、食べると温かくなる」
「毎回同じことを言いますね、陛下」
「毎回、本当のことを言っている」
前の夫には、弁当の匂いがすると言われた。
けれど今、同じように料理をしているこの手を、温かくなると言ってくれる人がいる。
お弁当屋のおばさんとしては、それ以上の褒め言葉はなかった。
それからさらに数日後、秋の夕暮れ。
子供たちが眠り、王宮が静まり返ったころ。
エリカは厨房で翌日の仕込みをしていた。
明日はアンドルーとシャルロットが楽しみにしている小さなピクニックの日だ。
から揚げ、だし巻き卵、たこさんウインナー、具だくさんのおにぎり。
シャルロットのために、うさぎりんごも忘れない。
国王の分も、もちろん入れる。
「……こんな時間まで、何をしている」
振り返ると、厨房の入口に国王が立っていた。
「陛下。こんな時間にどうされたんですか」
「執務が終わった。明かりが見えたから来た」
そう言って中へ入り、並んだ四つの弁当箱を見下ろす。
アンドルー用、シャルロット用、エリカ用、そして国王用。
「……私の分まで」
「いらっしゃるかと思ったので。余計でしたか」
「いや。必要だ」
国王は椅子を引き、エリカの向かいに腰を下ろした。
こうして深夜の厨房で二人きりになることが、この頃はたまにあった。
最初は緊張したが、今はもう知っている。この人は、言葉は少なくても、黙ってそばにいる人なのだ。
「エリカ」
「はい」
「ひとつ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
炉の火がぱちりと鳴る。
国王はしばらく黙ってから、低く言った。
「お前は……ここを出ていくつもりはあるか」
「それは、どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。王宮を離れる気があるのかと聞いている」
額面通りに取れば、解雇の前触れにも聞こえる。
だが、この人はそんな回りくどいことをする人ではない。
エリカは正直に答えた。
「今のところは考えていません。アンドルー様もシャルロット様も、まだまだ成長期ですし」
「子供たちのためだけか」
「……と言いますと?」
「お前のために聞いている。お前は、ここにいたいか」
まっすぐな視線がぶつかる。
いつも静かな目だった。けれど今夜は、その奥に覚悟のようなものがあった。
「……はい。許されるなら、いたいです。ここが好きです」
「そうか」
国王はひとつ息をつき、それから言った。
「では、頼みがある」
「なんでしょう」
「これから先、生涯にわたって、私と子供たちのために料理を作ってほしい」
エリカは手を止めた。
「それから——できるなら、一緒に食べてほしい。食卓を、共にしてほしい」
しんとした厨房に、その言葉だけが落ちた。
意味がわからないほど鈍くはない。
むしろ、わかりすぎるくらいわかった。
この世界に味噌汁は無いけれど、『生涯味噌汁を作ってほしい』という言葉と同義に聞こえた。
前世では「弁当の匂いがする」と言って去っていく男がいた。
今世では「妻として並べるなら妹の方が都合がいい」と言った男がいた。
どちらも、美緒の作るものを重荷か当たり前としか思っていなかった。
でもこの人は違う。
「それは……料理人への依頼ですか」
「違う」
「では」
「妻としての、求婚だ」
王らしい大仰さはなかった。
ただ、ひどく誠実な声だった。
エリカは四つの弁当箱を見た。
ずっと四つ作ってきた。
気づかないふりをしていただけで、いつからかこの四人で食卓を囲む未来を、自分は当たり前のように想像していたのかもしれない。
「……陛下」
「なんだ」
「私、離婚してます」
「知っている」
「前の夫、顔がよかったです。陛下も、とてもお顔がいいです」
「……それは断りの言葉か」
「いいえ」
エリカはまっすぐに国王を見た。
「陛下の目は、ちゃんと違います。最初に会ったとき、確認しました」
「……目を確認したのか」
「はい。前の夫たちは、自分しか映っていませんでした。でも陛下の目には、ちゃんとアンドルー様とシャルロット様が映っていた。そういう人は信用できます」
数秒の沈黙のあと、国王が低く笑った。
厨房に響くその笑い声は、初めて聞くものだった。
「……一年越しで見極められていたとは知らなかった」
「料理人の目利きです」
「私は食材か」
「素材は申し分ないです」
今度はもう少し長く笑う。
その笑い方まで、やっぱりちゃんと違った。
「では、答えを聞かせてくれ」
「生涯にわたって料理を作ることは、喜んでお受けします」
「それだけか」
「……一緒に食べることも、喜んで」
国王が静かに立ち上がり、テーブルを回ってエリカの隣に立つ。
「それは、求婚を受けてくれるということか」
「……はい。ただし」
「なんだ」
「お弁当箱は毎日四つ作ります。子供たちの分を減らしたり、手を抜いたりは一切しません」
「当然だ」
「中身に文句は言わないでください」
「言わない」
「プリンは私が食べたいときにしか作りません」
「……それだけは交渉させてくれ」
「無理です」
「週に四回」
「多いです」
「三回では少ない」
「……では、四回で」
「決まりだな」
国王がエリカの手を取り、そっと唇を寄せた。
炉の火が二人を同じ色に照らしている。
「エリカ」
「はい」
「……ありがとう。子供たちに、食事を作ってくれて」
その声は国王のものではなく、二人の子供の父親の声だった。
喉の奥が熱くなり、エリカは弁当箱の蓋をそっと閉める。
「こちらこそ。食べてくれて、ありがとうございます」
翌朝。
青く晴れた空の下、小高い丘に四人で敷物を広げた。
護衛は少し離れた場所に控えている。
「えりかー!みて、よつば!」
アンドルーが駆けてくる。
「シャルロットもみつけたい!」
「じゃあ一緒に探しましょうか」
二人を抱き寄せたエリカの後ろから、国王がゆっくり歩いてきた。
「腹が減ったな」
「はい、どうぞ」
差し出した弁当箱を受け取り、国王はその隣に腰を下ろす。
アンドルーが我先にとから揚げをつまみ、シャルロットがうさぎりんごを得意げに掲げる。
青空の下、四人でひとつの敷物に並んで座り、お弁当を広げる。
当たり前みたいで、奇跡みたいな景色だった。
「……美味い」
国王がぽつりと言った。
「毎回同じことを言いますね」
「毎回、本当のことを言っている」
「……おかわりはありませんよ」
「そうか」
「——嘘です。ちゃんとあります」
国王が珍しく目を丸くし、それから少しだけ笑った。
やっぱりちゃんと違う。この人の笑い方は。
「エリカ」
「はい」
「生涯、よろしく頼む」
ただそれだけ言って、から揚げをひとつ口に入れる。
美緒改めエリカは、青空を見上げて小さく笑った。
二度あることは三度ない。
三度目の正直、ということにしておこう。
王宮の台所から生まれたお弁当が、今日も四人の胃袋を満たしていく。
そしてきっと、これからもずっと。
エリカは王宮で、すっかりなくてはならない存在になっていた。
朝は子供たちのお弁当を作り、昼は国王の分を詰め、夜は晩餐会の献立にも意見を出す。
いつの間にか、ただの厨房女ではなく、陛下の専属料理人と呼ばれるようになっていた。
「えりかー!きょうのおやつはなに?」
「焦らなくても出てきますよ。シャルロット様」
「プリンかな?プリンだよね?」
「……プリンです」
「やったー!」
弾むように走っていくシャルロットを見送り、振り返ると国王が立っていた。
「……私の分は?」
「陛下のお分も、もちろんございます」
「そうか」
口数は少ないくせに、こういうことだけは欠かさない。
この一年で、エリカはその不器用さが嫌いではないと知っていた。
国王は弁当箱を見つめたまま、ぽつりと言う。
「……やはりお前の作るものは、食べると温かくなる」
「毎回同じことを言いますね、陛下」
「毎回、本当のことを言っている」
前の夫には、弁当の匂いがすると言われた。
けれど今、同じように料理をしているこの手を、温かくなると言ってくれる人がいる。
お弁当屋のおばさんとしては、それ以上の褒め言葉はなかった。
それからさらに数日後、秋の夕暮れ。
子供たちが眠り、王宮が静まり返ったころ。
エリカは厨房で翌日の仕込みをしていた。
明日はアンドルーとシャルロットが楽しみにしている小さなピクニックの日だ。
から揚げ、だし巻き卵、たこさんウインナー、具だくさんのおにぎり。
シャルロットのために、うさぎりんごも忘れない。
国王の分も、もちろん入れる。
「……こんな時間まで、何をしている」
振り返ると、厨房の入口に国王が立っていた。
「陛下。こんな時間にどうされたんですか」
「執務が終わった。明かりが見えたから来た」
そう言って中へ入り、並んだ四つの弁当箱を見下ろす。
アンドルー用、シャルロット用、エリカ用、そして国王用。
「……私の分まで」
「いらっしゃるかと思ったので。余計でしたか」
「いや。必要だ」
国王は椅子を引き、エリカの向かいに腰を下ろした。
こうして深夜の厨房で二人きりになることが、この頃はたまにあった。
最初は緊張したが、今はもう知っている。この人は、言葉は少なくても、黙ってそばにいる人なのだ。
「エリカ」
「はい」
「ひとつ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
炉の火がぱちりと鳴る。
国王はしばらく黙ってから、低く言った。
「お前は……ここを出ていくつもりはあるか」
「それは、どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。王宮を離れる気があるのかと聞いている」
額面通りに取れば、解雇の前触れにも聞こえる。
だが、この人はそんな回りくどいことをする人ではない。
エリカは正直に答えた。
「今のところは考えていません。アンドルー様もシャルロット様も、まだまだ成長期ですし」
「子供たちのためだけか」
「……と言いますと?」
「お前のために聞いている。お前は、ここにいたいか」
まっすぐな視線がぶつかる。
いつも静かな目だった。けれど今夜は、その奥に覚悟のようなものがあった。
「……はい。許されるなら、いたいです。ここが好きです」
「そうか」
国王はひとつ息をつき、それから言った。
「では、頼みがある」
「なんでしょう」
「これから先、生涯にわたって、私と子供たちのために料理を作ってほしい」
エリカは手を止めた。
「それから——できるなら、一緒に食べてほしい。食卓を、共にしてほしい」
しんとした厨房に、その言葉だけが落ちた。
意味がわからないほど鈍くはない。
むしろ、わかりすぎるくらいわかった。
この世界に味噌汁は無いけれど、『生涯味噌汁を作ってほしい』という言葉と同義に聞こえた。
前世では「弁当の匂いがする」と言って去っていく男がいた。
今世では「妻として並べるなら妹の方が都合がいい」と言った男がいた。
どちらも、美緒の作るものを重荷か当たり前としか思っていなかった。
でもこの人は違う。
「それは……料理人への依頼ですか」
「違う」
「では」
「妻としての、求婚だ」
王らしい大仰さはなかった。
ただ、ひどく誠実な声だった。
エリカは四つの弁当箱を見た。
ずっと四つ作ってきた。
気づかないふりをしていただけで、いつからかこの四人で食卓を囲む未来を、自分は当たり前のように想像していたのかもしれない。
「……陛下」
「なんだ」
「私、離婚してます」
「知っている」
「前の夫、顔がよかったです。陛下も、とてもお顔がいいです」
「……それは断りの言葉か」
「いいえ」
エリカはまっすぐに国王を見た。
「陛下の目は、ちゃんと違います。最初に会ったとき、確認しました」
「……目を確認したのか」
「はい。前の夫たちは、自分しか映っていませんでした。でも陛下の目には、ちゃんとアンドルー様とシャルロット様が映っていた。そういう人は信用できます」
数秒の沈黙のあと、国王が低く笑った。
厨房に響くその笑い声は、初めて聞くものだった。
「……一年越しで見極められていたとは知らなかった」
「料理人の目利きです」
「私は食材か」
「素材は申し分ないです」
今度はもう少し長く笑う。
その笑い方まで、やっぱりちゃんと違った。
「では、答えを聞かせてくれ」
「生涯にわたって料理を作ることは、喜んでお受けします」
「それだけか」
「……一緒に食べることも、喜んで」
国王が静かに立ち上がり、テーブルを回ってエリカの隣に立つ。
「それは、求婚を受けてくれるということか」
「……はい。ただし」
「なんだ」
「お弁当箱は毎日四つ作ります。子供たちの分を減らしたり、手を抜いたりは一切しません」
「当然だ」
「中身に文句は言わないでください」
「言わない」
「プリンは私が食べたいときにしか作りません」
「……それだけは交渉させてくれ」
「無理です」
「週に四回」
「多いです」
「三回では少ない」
「……では、四回で」
「決まりだな」
国王がエリカの手を取り、そっと唇を寄せた。
炉の火が二人を同じ色に照らしている。
「エリカ」
「はい」
「……ありがとう。子供たちに、食事を作ってくれて」
その声は国王のものではなく、二人の子供の父親の声だった。
喉の奥が熱くなり、エリカは弁当箱の蓋をそっと閉める。
「こちらこそ。食べてくれて、ありがとうございます」
翌朝。
青く晴れた空の下、小高い丘に四人で敷物を広げた。
護衛は少し離れた場所に控えている。
「えりかー!みて、よつば!」
アンドルーが駆けてくる。
「シャルロットもみつけたい!」
「じゃあ一緒に探しましょうか」
二人を抱き寄せたエリカの後ろから、国王がゆっくり歩いてきた。
「腹が減ったな」
「はい、どうぞ」
差し出した弁当箱を受け取り、国王はその隣に腰を下ろす。
アンドルーが我先にとから揚げをつまみ、シャルロットがうさぎりんごを得意げに掲げる。
青空の下、四人でひとつの敷物に並んで座り、お弁当を広げる。
当たり前みたいで、奇跡みたいな景色だった。
「……美味い」
国王がぽつりと言った。
「毎回同じことを言いますね」
「毎回、本当のことを言っている」
「……おかわりはありませんよ」
「そうか」
「——嘘です。ちゃんとあります」
国王が珍しく目を丸くし、それから少しだけ笑った。
やっぱりちゃんと違う。この人の笑い方は。
「エリカ」
「はい」
「生涯、よろしく頼む」
ただそれだけ言って、から揚げをひとつ口に入れる。
美緒改めエリカは、青空を見上げて小さく笑った。
二度あることは三度ない。
三度目の正直、ということにしておこう。
王宮の台所から生まれたお弁当が、今日も四人の胃袋を満たしていく。
そしてきっと、これからもずっと。



