翌日から、エリカは子供たちのための小さなお弁当を作り始めた。
正式な食事とは別に、食べたくなった時にすぐ口にできるように。
形を変えたおにぎり、小さなサンドイッチ、彩りよく詰めた野菜のおかず。
この世界に弁当箱という概念はなかったので、木工職人に頼んで小さな木箱まで作ってもらった。
「きょうはなにがはいってるの?」
三日目から、シャルロットは弁当箱を見るなり駆け寄ってくるようになった。
「今日はうさぎさんりんごと、鶏のから揚げと、チーズと——」
「からあげ!」
アンドルーの目がぱっと輝いた。
ようやく年相応の子供らしい顔がのぞいた瞬間だった。
よし。
美緒の中のお弁当屋魂が、にやりと笑う。
一週間もすると、子供たちはエリカの弁当箱を見ればちゃんと食べるようになった。
顔色が戻り、夜泣きが減り、部屋に笑い声が増えていく。
誰もそれを止めなかった。
そして一週間後、その話は国王の耳に入った。
エルファーデン王国国王、ウィリアム三世。二十八歳。
王妃を亡くしたばかりの若き王だった。
「子供たちが、厨房の女が作る弁当とやらしか食べないそうだな」
呼び出されたのは拝謁の間ではなく、子供たちの食事部屋だった。
いかにも父親として確かめに来た、という空気に、エリカは少しだけ肩の力を抜く。
「顔を上げろ」
言われて顔を上げた瞬間、エリカは一瞬だけ固まった。
……顔、ええな。
彫りの深い整った顔立ち。背筋の伸びた立ち姿。
ただし、浩二ともフィリップとも決定的に違うものがあった。
この人の目は、自分だけを映していない。
疲れと悲しみを抱えたその奥に、子供たちのことだけはちゃんと映っていた。
「お前が作っているのか」
「はい」
「なぜあの子たちは、お前の飯しか食わない」
「味が好みに合ったのだと思います。あとは形とか色とか。楽しいと感じると、食欲が出ることもあります」
「子供の食欲は、楽しさで変わるのか」
「大人もそうです、陛下」
しまった、と思ったが、次の瞬間、国王はほんの少し口元を緩めた。
「生意気な厨房女だな」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
国王は子供たちの方へ視線を向けた。
アンドルーが弁当箱の中のから揚げを大事そうにつまんでいる。
「本日は、昨日より食べる量が増えました。デザートも召し上がりました」
「……そうか」
短い返事だったが、声はわずかに掠れていた。
エリカは思い切って尋ねた。
「王妃様が亡くなられてから、ずっと食べなかったんですか」
「食べないし、笑わないし、夜も眠らない。私が部屋へ行くと、あの子たちは余計に気を遣って黙っていた」
国王はそこで言葉を切り、から揚げを口に放り込んだ。
「父親のくせに、何を与えればいいのかもわからなかった」
その一言に、エリカは少しだけ目を伏せた。
目の前にいるのは、王である前に、子供たちの食卓の前で途方に暮れていた父親なのだ。
「十分ですよ」
「何がだ」
「こうして気にしておられる時点で、十分です。あとは食べやすくして、楽しくして、少しずつ慣らせばいいだけです」
「……お前は、そういうことを当たり前みたいに言うな」
「当たり前です。食べることは、生きることですから」
しばらく黙っていた国王は、やがて低く言った。
「…… このから揚げとやら、美味いな。今夜の子供たちの夕食も、お前が作れ」
「承知しました」
「私の分も頼む」
「陛下の分も?」
「子供たちと同じものを作れ」
「……おこさまランチでよろしいですか」
「それでいい」
その夜、国王の前にもおこさまランチが置かれた。
猫の絵を描いたオムライス。
小さなミートボール。
星形の人参入りポテトサラダ。
そしてデザートにはゼリー。
三つ並んだ皿を見て、シャルロットが目をきらきらさせる。
「おとうさまもおなじ!」
「おとうさまも、おほしさまたべる?」
「……食べる」
ぎこちなく答えた国王を見て、アンドルーが少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、国王の目に浮かんだものを、エリカは見なかったふりをした。
それからしばらくして、夕食後の報告に呼ばれた時のことだ。
「最近、あの子たちは毎朝お前を待っている」
「ありがたいことです」
「シャルロットは、お前の足音を覚えたらしい。廊下の向こうでもわかるそうだ」
「それはすごいですね」
国王は少しだけ口元を緩めたが、すぐに真顔に戻った。
「アンドルーも変わった。前は何を聞いても、よくわからないとしか言わなかったのに、今は今日の弁当に何が入っていたかを話す」
「好きなものの話は、したくなるものです」
「……そうだな」
短い沈黙のあと、国王はぽつりと言った。
「私もだ」
「はい?」
「執務の途中で、今日は何が入っているのか考えるようになった」
エリカは思わず目を瞬いた。
国王は視線を逸らしたまま続ける。
「食事など、空腹を満たせればそれでいいと思っていた。だが今は違う。お前の弁当がある日は、少しだけ……その先を考えられる」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
この人は子供たちだけではなく、自分自身も少しずつ救われているのだ。
その数週間後。
前夫フィリップと妹のファリスが、王宮の晩餐会に招かれた。
フィリップは社交上重要な侯爵家の当主として、ファリスはその新しい妻として。
本来なら厨房にいるエリカには関係のない話だった。
だが、その日の晩餐は厨房総出での大仕事で、エリカも当然その一員だった。
「聞いた?ランベルト侯爵夫人、前の奥方の妹なんですって」
「じゃあ前の奥方って、今ここで働いてる……」
「しっ。それ、エリカのことでしょう」
囁き声を背に受けながら、エリカは黙々とタルトを仕上げた。
もう終わった話だ。そう思っていたのだが——
「バーレット嬢」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。
そこにいたのは国王付きの侍従だった。
「陛下がお呼びです。お食事の件で確認事項があると」
「今ですか」
「今です」
結果として、それは最悪でもあり、最高でもあった。
国王と話しながら広間に入ったエリカに、視線が一斉に集まる。
正面の席にいたフィリップとファリスの顔色が変わった。
「え……エリカ?」
「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
エリカは前世のお弁当屋仕込みの、愛想のいい笑顔で一礼した。
フィリップが何か言おうとした、その瞬間。
「バーレット嬢は、私の子供たちの食事を任せている。優秀な人材でね」
「は……陛下、恐れながら、彼女はそんな大層な女では——」
「彼女は、私の子供たちに笑顔を取り戻した。私がもっとも信頼する料理人だ」
広間がしんと静まった。
フィリップは口を開きかけて閉じる。
ファリスは真っ赤になって俯いた。
エリカは深く頭を下げると、そのまま静かにその場を辞した。
廊下を歩きながら、心の中でそっと呟く。
……ざまぁ、って言うんでしょうかね、こういうの。
大声で勝った負けたを叫ぶ気はない。
ただ、自分を捨てた相手の前で、自分がちゃんと必要とされている。
それだけで、十分だった。
正式な食事とは別に、食べたくなった時にすぐ口にできるように。
形を変えたおにぎり、小さなサンドイッチ、彩りよく詰めた野菜のおかず。
この世界に弁当箱という概念はなかったので、木工職人に頼んで小さな木箱まで作ってもらった。
「きょうはなにがはいってるの?」
三日目から、シャルロットは弁当箱を見るなり駆け寄ってくるようになった。
「今日はうさぎさんりんごと、鶏のから揚げと、チーズと——」
「からあげ!」
アンドルーの目がぱっと輝いた。
ようやく年相応の子供らしい顔がのぞいた瞬間だった。
よし。
美緒の中のお弁当屋魂が、にやりと笑う。
一週間もすると、子供たちはエリカの弁当箱を見ればちゃんと食べるようになった。
顔色が戻り、夜泣きが減り、部屋に笑い声が増えていく。
誰もそれを止めなかった。
そして一週間後、その話は国王の耳に入った。
エルファーデン王国国王、ウィリアム三世。二十八歳。
王妃を亡くしたばかりの若き王だった。
「子供たちが、厨房の女が作る弁当とやらしか食べないそうだな」
呼び出されたのは拝謁の間ではなく、子供たちの食事部屋だった。
いかにも父親として確かめに来た、という空気に、エリカは少しだけ肩の力を抜く。
「顔を上げろ」
言われて顔を上げた瞬間、エリカは一瞬だけ固まった。
……顔、ええな。
彫りの深い整った顔立ち。背筋の伸びた立ち姿。
ただし、浩二ともフィリップとも決定的に違うものがあった。
この人の目は、自分だけを映していない。
疲れと悲しみを抱えたその奥に、子供たちのことだけはちゃんと映っていた。
「お前が作っているのか」
「はい」
「なぜあの子たちは、お前の飯しか食わない」
「味が好みに合ったのだと思います。あとは形とか色とか。楽しいと感じると、食欲が出ることもあります」
「子供の食欲は、楽しさで変わるのか」
「大人もそうです、陛下」
しまった、と思ったが、次の瞬間、国王はほんの少し口元を緩めた。
「生意気な厨房女だな」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
国王は子供たちの方へ視線を向けた。
アンドルーが弁当箱の中のから揚げを大事そうにつまんでいる。
「本日は、昨日より食べる量が増えました。デザートも召し上がりました」
「……そうか」
短い返事だったが、声はわずかに掠れていた。
エリカは思い切って尋ねた。
「王妃様が亡くなられてから、ずっと食べなかったんですか」
「食べないし、笑わないし、夜も眠らない。私が部屋へ行くと、あの子たちは余計に気を遣って黙っていた」
国王はそこで言葉を切り、から揚げを口に放り込んだ。
「父親のくせに、何を与えればいいのかもわからなかった」
その一言に、エリカは少しだけ目を伏せた。
目の前にいるのは、王である前に、子供たちの食卓の前で途方に暮れていた父親なのだ。
「十分ですよ」
「何がだ」
「こうして気にしておられる時点で、十分です。あとは食べやすくして、楽しくして、少しずつ慣らせばいいだけです」
「……お前は、そういうことを当たり前みたいに言うな」
「当たり前です。食べることは、生きることですから」
しばらく黙っていた国王は、やがて低く言った。
「…… このから揚げとやら、美味いな。今夜の子供たちの夕食も、お前が作れ」
「承知しました」
「私の分も頼む」
「陛下の分も?」
「子供たちと同じものを作れ」
「……おこさまランチでよろしいですか」
「それでいい」
その夜、国王の前にもおこさまランチが置かれた。
猫の絵を描いたオムライス。
小さなミートボール。
星形の人参入りポテトサラダ。
そしてデザートにはゼリー。
三つ並んだ皿を見て、シャルロットが目をきらきらさせる。
「おとうさまもおなじ!」
「おとうさまも、おほしさまたべる?」
「……食べる」
ぎこちなく答えた国王を見て、アンドルーが少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、国王の目に浮かんだものを、エリカは見なかったふりをした。
それからしばらくして、夕食後の報告に呼ばれた時のことだ。
「最近、あの子たちは毎朝お前を待っている」
「ありがたいことです」
「シャルロットは、お前の足音を覚えたらしい。廊下の向こうでもわかるそうだ」
「それはすごいですね」
国王は少しだけ口元を緩めたが、すぐに真顔に戻った。
「アンドルーも変わった。前は何を聞いても、よくわからないとしか言わなかったのに、今は今日の弁当に何が入っていたかを話す」
「好きなものの話は、したくなるものです」
「……そうだな」
短い沈黙のあと、国王はぽつりと言った。
「私もだ」
「はい?」
「執務の途中で、今日は何が入っているのか考えるようになった」
エリカは思わず目を瞬いた。
国王は視線を逸らしたまま続ける。
「食事など、空腹を満たせればそれでいいと思っていた。だが今は違う。お前の弁当がある日は、少しだけ……その先を考えられる」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
この人は子供たちだけではなく、自分自身も少しずつ救われているのだ。
その数週間後。
前夫フィリップと妹のファリスが、王宮の晩餐会に招かれた。
フィリップは社交上重要な侯爵家の当主として、ファリスはその新しい妻として。
本来なら厨房にいるエリカには関係のない話だった。
だが、その日の晩餐は厨房総出での大仕事で、エリカも当然その一員だった。
「聞いた?ランベルト侯爵夫人、前の奥方の妹なんですって」
「じゃあ前の奥方って、今ここで働いてる……」
「しっ。それ、エリカのことでしょう」
囁き声を背に受けながら、エリカは黙々とタルトを仕上げた。
もう終わった話だ。そう思っていたのだが——
「バーレット嬢」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。
そこにいたのは国王付きの侍従だった。
「陛下がお呼びです。お食事の件で確認事項があると」
「今ですか」
「今です」
結果として、それは最悪でもあり、最高でもあった。
国王と話しながら広間に入ったエリカに、視線が一斉に集まる。
正面の席にいたフィリップとファリスの顔色が変わった。
「え……エリカ?」
「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
エリカは前世のお弁当屋仕込みの、愛想のいい笑顔で一礼した。
フィリップが何か言おうとした、その瞬間。
「バーレット嬢は、私の子供たちの食事を任せている。優秀な人材でね」
「は……陛下、恐れながら、彼女はそんな大層な女では——」
「彼女は、私の子供たちに笑顔を取り戻した。私がもっとも信頼する料理人だ」
広間がしんと静まった。
フィリップは口を開きかけて閉じる。
ファリスは真っ赤になって俯いた。
エリカは深く頭を下げると、そのまま静かにその場を辞した。
廊下を歩きながら、心の中でそっと呟く。
……ざまぁ、って言うんでしょうかね、こういうの。
大声で勝った負けたを叫ぶ気はない。
ただ、自分を捨てた相手の前で、自分がちゃんと必要とされている。
それだけで、十分だった。



