幽世の夜は静かだった。
淡い灯籠の灯りが、庭を柔らかく照らしている。
縁側へ腰を下ろした奈津は、そっと夜空を見上げた。
現世では見ることの出来ない、深く澄んだ星空。
ひんやりとした夜風が、頬を撫でていく。
「……眠れないのか」
耳に馴染む、低い声。
振り返れば、白銀の髪を揺らした紫鬼が立っていた。
「紫鬼様」
奈津が小さく笑う。
「少しだけ、考え事をしていました」
紫鬼は何も言わず、奈津の隣へ腰を下ろした。
その距離が近くて、奈津の胸が少しだけ跳ねる。
「……後悔しているか」
不意に落ちた声。
奈津は目を瞬かせた。
紫鬼は夜空を見たまま続ける。
「現世を捨てたことだ」
その声音はいつも通り淡々としていた。
けれど、奈津には分かってしまう。
これはきっと、紫鬼なりの気遣いなのだと。
奈津はそっと首を横に振った。
「いいえ」
迷いのない声だった。
「……ここが、私の帰る場所です」
紫鬼の瞳が、僅かに揺れる。
奈津は少し照れたように笑った。
「みなさんが待っていてくれて……嬉しかったんです」
コマ。
九重。
夜刀。
そして。
いつだって、自分を守ってくれた鬼。
奈津が視線を向けると、紫鬼は僅かに目を逸らした。
「……当然だ」
ぶっきらぼうな声。
その瞬間。
紫鬼の腕が、奈津の腰を引き寄せた。
「きゃっ……」
ぐい、と身体が傾く。
気づけば奈津は、紫鬼の膝の上へ抱き込まれていた。
「し、紫鬼様!?」
奈津の顔が一気に熱くなる。
逃げようと身じろげば、紫鬼の腕が更に強く回された。
「動くな」
低い声が落ちる。
耳元へ、白銀の髪がさらりと触れた。
紫鬼は奈津を抱き込んだまま、その肩口へ額を寄せる。
「……ようやく戻ってきたんだ」
ぽつり、と。
独り言みたいな声だった。
奈津は目を見開く。
紫鬼が、こんな風に感情を滲ませるなんて思わなかった。
「現世へなど、二度とやるものか」
腕へ込められる力が、少しだけ強くなる。
まるで。
もう誰にも渡したくないと言うみたいに。
奈津の胸が、じんわり熱を帯びた。
「……紫鬼様」
そっと名前を呼べば。
紫鬼は奈津の頬へ指先を触れさせる。
深い紫の瞳が、真っ直ぐ奈津を映していた。
「お前は、俺の傍にいろ」
命令みたいな言葉。
けれどその声音は、驚くほど優しい。
少しだけ顔を上げて、すぐそばにある紫鬼の顔を見つめる。
――ああ。
(……きっと)
この紫の瞳に捕らえられた時から、私の人生は始まっていたのだ。
「……はい」
奈津が小さく頷くと。
紫鬼は満足したように、静かに奈津を抱き締めた。
奈津はもう、知っている。
この腕の中が。
この世界が。
確かに、自分の帰る場所なのだと。
幽世の夜風が、静かに吹き抜けていく。
白銀の鬼は、その少女を二度と離さないように腕の中へ囲い込んでいた。
まるで、ようやく見つけた宝物を守るみたいに。
人と妖。
決して交わるはずのなかったふたつの世界は、今、静かに動き始めている。
妖を癒やす少女。
そして、妖の頂点に立つ鬼。
二人の出会いは、やがて人と妖、ふたつの世界の運命を大きく変えていくことになる。
まだ誰も知らない。
奈津自身でさえも。
自らが、人と妖を繋ぐ存在になっていくことを。
ただ今は――この腕の、温もりだけを感じていたい。
奈津は静かに目を閉じた。
ようやく手に入れた幸せを、胸いっぱいに噛み締めながら。
【第一部 完】
淡い灯籠の灯りが、庭を柔らかく照らしている。
縁側へ腰を下ろした奈津は、そっと夜空を見上げた。
現世では見ることの出来ない、深く澄んだ星空。
ひんやりとした夜風が、頬を撫でていく。
「……眠れないのか」
耳に馴染む、低い声。
振り返れば、白銀の髪を揺らした紫鬼が立っていた。
「紫鬼様」
奈津が小さく笑う。
「少しだけ、考え事をしていました」
紫鬼は何も言わず、奈津の隣へ腰を下ろした。
その距離が近くて、奈津の胸が少しだけ跳ねる。
「……後悔しているか」
不意に落ちた声。
奈津は目を瞬かせた。
紫鬼は夜空を見たまま続ける。
「現世を捨てたことだ」
その声音はいつも通り淡々としていた。
けれど、奈津には分かってしまう。
これはきっと、紫鬼なりの気遣いなのだと。
奈津はそっと首を横に振った。
「いいえ」
迷いのない声だった。
「……ここが、私の帰る場所です」
紫鬼の瞳が、僅かに揺れる。
奈津は少し照れたように笑った。
「みなさんが待っていてくれて……嬉しかったんです」
コマ。
九重。
夜刀。
そして。
いつだって、自分を守ってくれた鬼。
奈津が視線を向けると、紫鬼は僅かに目を逸らした。
「……当然だ」
ぶっきらぼうな声。
その瞬間。
紫鬼の腕が、奈津の腰を引き寄せた。
「きゃっ……」
ぐい、と身体が傾く。
気づけば奈津は、紫鬼の膝の上へ抱き込まれていた。
「し、紫鬼様!?」
奈津の顔が一気に熱くなる。
逃げようと身じろげば、紫鬼の腕が更に強く回された。
「動くな」
低い声が落ちる。
耳元へ、白銀の髪がさらりと触れた。
紫鬼は奈津を抱き込んだまま、その肩口へ額を寄せる。
「……ようやく戻ってきたんだ」
ぽつり、と。
独り言みたいな声だった。
奈津は目を見開く。
紫鬼が、こんな風に感情を滲ませるなんて思わなかった。
「現世へなど、二度とやるものか」
腕へ込められる力が、少しだけ強くなる。
まるで。
もう誰にも渡したくないと言うみたいに。
奈津の胸が、じんわり熱を帯びた。
「……紫鬼様」
そっと名前を呼べば。
紫鬼は奈津の頬へ指先を触れさせる。
深い紫の瞳が、真っ直ぐ奈津を映していた。
「お前は、俺の傍にいろ」
命令みたいな言葉。
けれどその声音は、驚くほど優しい。
少しだけ顔を上げて、すぐそばにある紫鬼の顔を見つめる。
――ああ。
(……きっと)
この紫の瞳に捕らえられた時から、私の人生は始まっていたのだ。
「……はい」
奈津が小さく頷くと。
紫鬼は満足したように、静かに奈津を抱き締めた。
奈津はもう、知っている。
この腕の中が。
この世界が。
確かに、自分の帰る場所なのだと。
幽世の夜風が、静かに吹き抜けていく。
白銀の鬼は、その少女を二度と離さないように腕の中へ囲い込んでいた。
まるで、ようやく見つけた宝物を守るみたいに。
人と妖。
決して交わるはずのなかったふたつの世界は、今、静かに動き始めている。
妖を癒やす少女。
そして、妖の頂点に立つ鬼。
二人の出会いは、やがて人と妖、ふたつの世界の運命を大きく変えていくことになる。
まだ誰も知らない。
奈津自身でさえも。
自らが、人と妖を繋ぐ存在になっていくことを。
ただ今は――この腕の、温もりだけを感じていたい。
奈津は静かに目を閉じた。
ようやく手に入れた幸せを、胸いっぱいに噛み締めながら。
【第一部 完】

