濃密な妖気が、ゆっくりと晴れていく。
次に奈津の視界へ広がったのは、幽世――
堂目道家の屋敷だった。
現世よりも少し冷たい空気が、そっと頬を撫でていく。
「奈津様……!」
ぱたぱたと駆け寄ってきたのは、コマだった。
金色の耳をぴんと立て、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「おかえりなさいませ……!」
勢いのまま抱きつこうとして。
その途中で、ぴたりと動きが止まった。
奈津の隣に立つ紫鬼の視線が、あまりにも冷たかったからだ。
「……紫鬼様、顔怖いです」
「うるさい」
不機嫌そうな声。
けれど紫鬼は、奈津の手を離そうとしない。
むしろ指先へ力を込めるように、しっかりと繋いだままだった。
その後ろでは、九重が静かに目を細めていた。
「ご無事で何よりです」
夜刀も柱へ寄りかかりながら、ふっと鼻を鳴らす。
「だから言ったろ。現世なんざ退屈だって」
屋敷の妖たちも奈津の姿へ気づき、次々と表情を明るくしていく。
「奈津様だ……!」
「奈津様が戻ってきた……!」
「よかった……!」
安堵したような声が、あちこちから上がる。
中には、本気で泣きそうな顔をしている妖までいた。
向けられるのは、侮蔑ではない。
帰ってきてくれて嬉しいと、そう伝えるような温かな眼差しだった。
奈津は、ゆっくり周囲を見渡す。
妖たちの笑顔。
コマの弾む声。
九重の穏やかな眼差し。
呆れたように肩を竦めながらも、どこか嬉しそうな夜刀。
そして。
当たり前みたいに隣へ立つ紫鬼。
胸の奥が、熱を帯びた。
――ああ。
帰ってきたんだ。
そう思った瞬間。
不思議なくらい、心が落ち着いていく。
現世では、一度も感じたことのない安堵だった。
その時になって、ようやく気づいた。
現世から戻ってきてからずっと、紫鬼と手を繋いだままだったことに。
「し、紫鬼様」
奈津は慌てて手を離そうとする。
「もう大丈夫ですから――」
けれど。
「……っ」
次の瞬間。
ぐい、と腕を引かれた。
奈津の身体が、そのまま紫鬼の胸元へ引き寄せられる。
「し、紫鬼様!?」
驚いて見上げれば、紫鬼は不機嫌そうに眉を寄せていた。
「……誰が離していいと言った」
奈津を抱く腕は、逃がさないみたいにしっかり回されている。
奈津の胸が、くすぐったく熱を帯びる。
そんな二人を見て、コマが小さく笑った。
「……紫鬼様、奈津様のこと大好きですよね」
「コマ」
低い声。
紫鬼の声に、否定はない。
夜刀が吹き出した。
「ははっ、図星か」
「黙れ」
ぴり、と空気が震える。
けれどその場にいた妖たちの顔には、どこか安堵した笑みが浮かんでいた。
奈津はそっと目を細める。
現世では、ずっと必要とされなかった。
居場所なんて、どこにもないと思っていた。
けれど今は違う。
この場所には、自分を迎えてくれる人たちがいる。
そう思った瞬間。
胸の奥へ、じんわりと温かなものが広がっていった。

