あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 奈津の足が止まる。
 綾乃は唇を震わせながら、奈津を見つめている。

 「本当に、その妖について行くつもりなの……?」

 震える声。

 「駄目よ……そんなの」

 綾乃は首を横に振る。

 「お姉様は昔から流されやすいんだから」

 得意の”姉を心配する妹”の皮を被ったような口調。
 けれど、その瞳の奥には、自分の手から離れていこうとする奈津への焦燥が滲んでいた。

 「今ならまだ間に合うわ。その妖に惑わされているだけよ」

 奈津は静かに綾乃を見る。
 綾乃はさらに言葉を重ねた。

 「だって、お姉様は一人じゃ何も出来ないでしょう?」

 広間が静まり返る。

 綾乃は気づかない。
 もう今の奈津は、その言葉に怯えたりしないことに。

 「幽世へ行ったところで、どうせ捨てられるわ」

 蜜のように甘い声だった。
 まるで、本当に奈津の将来を案じているみたいに。

 「妖なんて、人間を弄んで飽きたら壊すだけよ」

 綾乃はそっと笑う。

 「だから、お姉様はここにいるべきなの」
 
 「私がちゃんと、面倒を見てあげるから。
 ――ね?」

 奈津はしばらく黙っていた。
 
 こうやって、自分が無価値だと思い知らされてきた。
 ――思い込まされていた。

 不意に。
 冷たい指先が、奈津の手へ触れた。

 「……っ」

 はっとして隣を見る。

 紫鬼が、黙ったまま奈津の手を握っていた。

 紫鬼は、何も言わない。
 けれどその手は、震える奈津の指先を包み込むように、しっかりと繋がれている。

 まるで。
 “お前は一人じゃない”と伝えるみたいに。

 胸の奥が、じわりと熱を帯びた。

 奈津は小さく息を吸う。

  「……綾乃」

 目の前には、綾乃。
 その背後には、父と母の姿もあった。

 役立たずと呼ばれ続けた日々。
 ずっと、自分を縛り続けてきた人たち。

 もう、怖くなかった。

 奈津は、紫鬼と繋がれた手へそっと力を込める。
 その温もりが、前を向く勇気をくれる。

 「もう、いいの」

 静かな声だった。

 綾乃の笑みが、ぴたりと止まる。
 父も母も、息を呑んで奈津を見つめていた。

 「私はもう、あなたの思い通りにはならない」

 奈津は、まっすぐ三人を見る。

 逃げずに。
 俯かずに。

 「――さようなら」

 その言葉は。
 綾乃へ。
 両親へ。

 そして。
 奈津を縛り続けてきた過去そのものへ向けた、決別だった。

 次の瞬間。
 白銀の妖気が、奈津と紫鬼の姿を静かに包み込んだ。

 誰かが息を呑み。
 誰かが奈津の名を呼んだ。

 けれど。

 奈津はもう、振り返らなかった。