あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 一瞬。
 その場の空気が止まる。

 「……何ですって?」

 母が目を見開く。

 父の表情も険しくなった。

 「奈津」
 
 ”余計なことを言うな”と圧をかけるような声音。

 昔なら、それだけで身体が竦んでいた。

 けれど奈津は俯かなかった。
 顔を上げ、まっすぐ前を見据える。

 「私は、同行しません」

 綾乃の笑みが、僅かに引き攣る。

 それでもすぐに、何事もなかったように微笑んだ。

 「どうしたの、お姉様?」

 綾乃が優雅に歩み寄る。

 「いつものように、ただ頷けばいいのよ。ほら」

 耳元へ落ちる甘い声と共に。

 ぞわり、と。
 冷たい霊力が、奈津の身体へ流れ込んだ。

 「っ……」

 奈津の呼吸が乱れる。

 霊力は本来、妖を祓うための力だ。
 けれど力の弱い人間に向ければ、それだけで圧になる。

 身体が重い。
 立っているだけで苦しい。

 「あら、大丈夫? 顔色が悪いみたい」

 短い呼吸を繰り返す奈津を見て、綾乃は心配そうに眉を下げた。
 そっと手を取り、そこから更に力を流し込む。
 
 不出来な姉を気に掛ける、優秀でお優しい妹。
 その仮面が剥がれ落ちることはない。

 「ねぇ、お姉様」

 甘い毒を流し込むように、綾乃が囁く。

 「これ以上、恥を晒さないで?」

 奈津の足が震える。

 苦しい。
 呼吸が荒くなり、今にも膝から崩れ落ちそうだった。

 けれど。
 もう、負けたくなかった。
 
 綾乃の手を振りほどく。
 そして冷たく震える指で、胸元の勾玉を握り締めた。

 その瞬間。
 奈津の手のひらの中で、まるで意思を持つかのように勾玉が跳ねる。
 そして、強い光を放った。
 
 ――ぞわり。
 空気が変わる。

 濃密な瘴気が、一気に広間を満たした。
 
 氷のような悪寒が、背筋を這う。

 ざわめいていた会場が、一瞬で静まり返った。

 押しつぶされそうなほどの圧。
 その場にいる誰もが、息を呑んだ。

 「ひっ……!?」
 
 どこからともなく悲鳴が漏れる。
 窓ガラスがけたたましい音とともに震えた。
 灯りが明滅する。

 次の瞬間。
 
 奈津の身体が、強く引き寄せられた。

 ふわり、と白銀の髪が視界を掠める。

 この気配を、この温もりを、知っている。

 「……紫鬼、様……?」

 奈津の傍らに、紫鬼がいた。
 
 出会った時から変わらない紫の瞳が、奈津を見つめている。

 「だから、危なっかしいと言ったんだ」

 その低い声は、いつものように淡々としている。
 それでも紫鬼の腕は、奈津を守るように強く抱き寄せていた。

 「……どうして……?」

 震える声で問いかける。
 
 紫鬼は、まだ淡く光を放つ勾玉へ触れた。

 「――俺を呼ぶ、お前の声が聞こえた」