あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 一方その頃――幽世では。

 執務室には、張り詰めた空気が漂っていた。

 さらさら、と。
 静かな部屋へ筆を走らせる音だけが響く。

 だが、その空気は明らかにいつもと違っていた。

 ぴし。
 不意に、筆が真っ二つに折れる。

 黒い墨が、紙へ滲んだ。
 
 広がる沈黙。
 紫鬼は折れた筆を一瞥すると、僅かに眉を寄せる。
 九重は何事もなかったかのように一礼した。

 「……新しい筆をお持ちします」

 紫鬼は否定しなかった。

 部屋の隅では、コマが耳を伏せながら小さく身を縮こませていた。

 「し、紫鬼様……お茶、淹れ直しますか……?」

 「……いらん」

 低い声が返る。
 コマの尾がしゅんと垂れた。
 
 その時。
 勢いよく襖が開いた。

 「討伐終わったぞ――って」

 入ってきた夜刀が、ぴたりと足を止める。

 「……なんだこれ」

 眉をひそめ、部屋を見回した。

 肌へ刺さるような妖気。
 空気そのものが重い。
 夜刀は呆れたように息を吐く。

 「……随分、荒れてんな」

 紫鬼の眉がぴくりと動いた。

 「別に変わらん」

 「いや、変わってるだろ」

 そう言って夜刀は肩を竦めた。

 「屋敷の連中が怯えて近寄れねぇんですよ」

 沈黙。
 コマが恐る恐る口を開く。

 「な、奈津様がいらっしゃらないからじゃ……」

 びり、と。
 空気が震えた。

 「ひっ……」

 コマが耳を伏せる。
 紫鬼はゆっくりと視線を向けた。

 「……誰が、そんな話をした」

 常と変わらない、低い声だった。

 けれど、その瞬間。
 室内の温度が数度下がったように感じられる。

 「えっ、あっ、ち、違っ……!」

 慌てるコマ。
 夜刀はじっと紫鬼を見つめた。

 そして、ふっと鼻で笑う。

 「図星っすか」

 ぴしり。
 文机へ、小さな亀裂が走った。

 九重はそっと目を伏せる。

 (……ここまでとは)

 奈津がいなくなって、まだ半日。
 それだけで、紫鬼の妖気は明らかに不安定になっている。

 長年仕えてきた九重ですら、これほど分かりやすい変化を見るのは初めてだった。

 紫鬼本人は、恐らくまだ自覚していない。

 だが。
 九重は静かに目を細める。

 (やはり、奈津様は――)

 「……この幽世に必要なお方です」