あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 久しぶりの現世は、妙に騒がしく感じた。

 行き交う人々の話し声。
 商店から漂う醤油の匂い。
 遠くで鳴る汽笛。

 かつては当たり前だったはずの喧騒が、今はどこか遠い。

 奈津はそっと空を見上げた。

 灰色の空。
 冬の冷たい風。

 幽世とは違う。

 あちらは静かだった。
 空気も、時間も、すべてがゆるやかで。

 紫鬼の屋敷で過ごした日々を思い出すたび、胸の奥がじわりと熱を帯びる。

 (……帰ってきた、はずなのに)

 どうしてだろう。
 懐かしいはずの景色が、少しも心を落ち着かせてくれない。
 むしろ、胸の奥だけが妙に空っぽだった。

 奈津は小さく息を吐き、歩き出す。

 向かう先は、九条家。
 奈津の足取りは、ひどく重かった。

 帰りたいわけではない。
 どうせ歓迎などされないことくらい、分かっている。
 突然姿を消した奈津を、家族が心配しているとも思えなかった。

 それでも。
 他に行く場所がないから、戻るしかないのだ。

 奈津は小さく唇を噛む。

 やがて、川沿いの河川敷が見えてきた。

 かつての、大切な思い出の場所。

 木陰に洋司と並んで座り、たくさんの言葉を交わした。
 優しい言葉をかけられ、胸が熱くなったこともあった。

 けれど今は違う。

 脳裏へ焼き付いて離れない。
 夕暮れの河川敷。
 綾乃へ口づける洋司の姿。

 あの日、奈津の世界は音もなく崩れ落ちた。

 胸の奥が、ちくりと痛む。

 (……早く通り過ぎよう)

 そう思った、その時だった。

 「……奈津?」

 聞き覚えのある声。

 奈津ははっと顔を上げた。

 河川敷に、一人の男が立っている。

 「洋司さん……」

 洋司だった。

 以前と変わらない優しげな顔。

 けれど、どこかやつれていた。
 目の下には薄く隈が落ち、疲れを滲ませた表情は、以前よりずっと憔悴して見える。

 その瞳が、奈津を見た瞬間、目に見えて揺らいだ。

 「……奈津、なのか?」

 信じられないものを見るような声だった。

 洋司の視線が、奈津を見つめる。

 白い肌。
 以前より柔らかくなった表情。

 どこか儚く、それでいて美しくなった奈津の姿に、洋司は息を呑んでいた。

 「……綺麗になったな」

 ぽつりと零れた声。

 洋司自身、無意識だったのだろう。
 言ってからはっとしたように表情を変える。