あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 現世へ向かう支度を終えた奈津は、屋敷の門へ向かっていた。

 胸の奥が落ち着かない。

 本当に戻ってしまっていいのか。
 そんな迷いが、心のどこかへ残っていた。

 門の前には、九重とコマの姿があった。

 「奈津様……」

 コマは今にも泣きそうな顔で奈津を見上げている。

 金色の耳はしょんぼりと垂れ、尾も元気なく揺れていた。

 「そんな顔しないで」

 奈津が困ったように笑うと、コマは慌てたように首を振る。

 「だ、だって……!」

 ぐっと言葉を飲み込み、コマは小さな拳を握った。

 「ちゃんと……戻ってきますよね?」

 不安げな声だった。

 奈津は一瞬だけ目を伏せる。

 ――戻ってくる。
 その言葉を、迷わず口に出来ない自分がいた。

 けれど。

 「……うん」

 小さく頷く。
 その瞬間、コマの耳がぴんと立った。

 「約束ですよ!」

 「ふふ、うん」

 そのやり取りを見守っていた九重が、静かに目を細める。

 「どうか、お気をつけて」

 穏やかな声音。
 けれど、その眼差しにはどこか別の意味が滲んでいるように感じた。

 「幽世への道は、いつでも開いております」

 奈津は目を見開く。
 まるで“帰ってきてもいい”と言われたようで。
 胸の奥が、じわりと熱を帯びた。

 「……随分しけた空気だな」

 低い声が落ちる。
 振り返れば、少し離れた柱へ寄りかかるように夜刀が立っていた。

 「夜刀様!」

 コマが声を上げる。
 夜刀は面倒そうに頭を掻きながら奈津を見る。

 「現世なんざ退屈だろ」

 金の瞳が、じっと奈津を見つめた。

 「……さっさと戻ってこい」

 ぶっきらぼうな言い方だった。
 けれどそこには、確かな気遣いが滲んでいる。
 
 奈津は思わず小さく笑った。

 「……はい」

 その時。

 「……奈津」

 奈津ははっと振り返った。

 そこには、紫鬼が立っていた。
 白銀の髪が、淡い朝の光を受けて静かに揺れている。

 「……紫鬼様……」

 紫鬼は何も言わないまま、奈津の前へ歩み寄った。

 そして、静かに手を差し出す。
 そこにあったのは、小さな勾玉だった。

 紫鬼の瞳とよく似た、深い紫色の石。
 紐へ通されたそれは、仄かに妖気を帯びている。

 「これを持っていけ」

 「……え?」

 奈津が戸惑っていると、紫鬼は無言のまま奈津の背後へ回った。

 「し、紫鬼様……?」

 背後へ回った紫鬼の白銀の髪が、さらりと奈津の肩を掠める。

 次の瞬間。
 冷たい指先が、奈津の首元へ触れた。

 「っ……」

 奈津の肩が小さく震える。

 紫鬼は構わず、勾玉を奈津の首へ掛ける。
 細い紐が、そっと奈津の首元へ落ちた。

 「肌身離さず身に着けておけ」

 耳元へ落ちる低い声。

 「いざという時、それがお前を守る」

 奈津は胸元の勾玉へ触れる。

 石は、ほんのり温かかった。

 「……お前は、妙に危なっかしい」

 ぽつり、と。
 独り言みたいな声だった。

 奈津が振り返ろうとした瞬間、紫鬼は僅かに視線を逸らす。
 まるで、それ以上何かを言ってしまうのを堪えるように。

 奈津はそっと勾玉を握りしめた。

 「……ありがとうございます」

 紫鬼は答えない。

 ただ、紫の瞳だけが静かに奈津を見つめていた。

 その眼差しが、どこか奈津を「行くな」と引き留めているように見えて。

 胸の奥が、きゅう、と苦しくなる。

 その感情へ触れないように、奈津は小さく俯いた。