あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 もし紫鬼が望むなら。
 きっと自分を、このまま幽世へ縛り付けることだって出来たはずだ。

 それでも、しない。
 奈津の意思を優先してくれている。

 その優しさが、余計に苦しかった。

 奈津は俯いたまま、ぎゅっと膝の上で手を握る。

 現世へ戻れば、人間のままでいられる。
 
 それなのに、ここを離れることを想像した瞬間、胸の奥が苦しくなった。

 気づかないうちに、奈津は強く唇を噛んでいた。

 「……っ」

 ぴり、と小さな痛みが走る。

 乾燥していた唇が切れたらしい。

 じわり、と血が滲む。

 「奈津」

 低い声が落ちた。
 
 奈津が顔を上げる。
 紫鬼が静かに手を伸ばしていた。

 「こっちへ来い」

 「え……?」

 戸惑いながら近づく。

 次の瞬間。
 紫鬼の指先が、そっと奈津の唇へ触れた。

 「……血が出ている」

 至近距離で、紫の瞳と目が合う。
 夜を溶かしたような双眸が、真っ直ぐ奈津を映していた。

 その眼差しへ触れた瞬間。
 奈津の胸が、強く締め付けられる。

 ――離れたくない。

 理由なんて、まだ分からない。
 
 紫鬼の隣にいると、不思議と心が凪いでいく。
 離れれば、何か大切なものが欠けてしまいそうなくらいに。

 奈津は唇を噛みしめる。
 しばらく迷うように俯いたあと、小さく声を絞り出した。

 「……少しだけ」

 紫鬼の指先が、僅かに動く。

 「少しだけ、現世へ戻って考えたいんです」
 
 静かな沈黙が落ちる。
 紫鬼は何も言わない。

 奈津は不安になって、そっと顔を上げた。
 紫鬼はただ、静かに奈津を見つめていた。

 長い沈黙の後。

 「……好きにしろ」

 低く落ちた声。
 それだけだった。

 奈津は小さく頭を下げる。

 「……ありがとうございます」

 そうして部屋を出ていく。

 障子が閉まる音が、静かな室内へ響いた。

 重たい沈黙が落ちる。

 その直後。
 
 びり、と。
 障子が小さく震えた。

 机の上の茶器へ、細かな亀裂が走る。
 張り詰めた妖気が、室内の空気を微かに歪ませていた。

 紫鬼は動かない。

 ただ。
 奈津が消えた障子の向こうを、じっと見つめていた。