あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 静かな昼下がりだった。

 奈津は九重に呼ばれ、屋敷の一室を訪れていた。
 窓から差し込む陽射しが、畳へ淡く落ちている。

 九重はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。

 だが。
 どこか空気が違う。

 奈津は自然と背筋を伸ばした。

 「……大事なお話、というのは」

 九重は静かに目を伏せる。
 それから、ゆっくりと口を開いた。

 「奈津様は、“幽世に長く留まった人間”についてご存知ですか?」

 「え……?」

 奈津は目を瞬かせる。

 九重は穏やかな声音のまま続けた。

 「幽世には瘴気が満ちています。本来、人間が長く居続けられる場所ではありません」

 奈津の指先が、僅かに震えた。

 「長く瘴気へ触れ続けた人間は、少しずつ身体が変質していくのです」

 「変質……?」

 「ええ」

 九重は静かに頷く。

 「完全な人間でもなく、完全な妖でもない」

 「――“混ざりもの”へ変わってしまう」

 奈津は息を呑んだ。
 頭の奥が、じわりと冷えていく。

 「そ、んな……」

 「もちろん、すぐではありません」

 九重は穏やかに続ける。

 「ですが奈津様は、既にかなり長い時間を幽世で過ごしておられる」

 「いずれ選ばなければなりません」

 静かな声音。

 けれど、その言葉は重かった。

 「このまま幽世で暮らすのか」
 「それとも、現世へ戻るのか」

 奈津は言葉を失う。

 そんなこと、一度も考えたことがなかった。
 ただ、生きることに必死だったから。

 九重は静かに奈津を見る。

 「……本音を申し上げれば」

 穏やかな声音。

 「私は、奈津様に幽世へ残っていただきたいと思っております」

 奈津は目を見開いた。

 「紫鬼様の瘴気は、奈津様のお力によって確かに安定し始めています」

 九重は静かに目を伏せた。

 「……紫鬼様は、元より力が強すぎる御方なのです」

 「その妖気は周囲へ影響を及ぼし、長く側にいるだけでも耐えられない妖は多い。
 近づくだけで耐えられなくなる妖も多く、紫鬼様は長く他者を遠ざけてこられました」

 奈津は小さく息を呑む。

 「幼い頃から、ご自身でも常に力を抑え込んでおられたのです」
 「瘴気病を患う以前から、頭痛や不眠にも長く悩まされておられたようでした」

 静かな声だった。

 「……奈津様がいらしてからです」

 九重はゆるやかに目を細めた。

 「紫鬼様が、あのように穏やかに休まれているのは」

 奈津の脳裏へ、執務室で肩を預けるように眠っていた紫鬼の姿が浮かぶ。

 白銀の髪。
 穏やかな寝息。
 自分へ体重を預けていた、あの温もり。

 胸の奥が、じわりと熱を帯びた。

 「それだけではありません」

 九重は静かに続ける。

 「この幽世には、瘴気病に苦しむ妖たちがまだ数多く存在しております」

 奈津は息を呑んだ。

 「瘴気病は、原因も分からぬ不治の病です。ある日突然発症し、少しずつ身体を蝕んでいく」

 九重はゆるやかに目を伏せる。

 「明日は自分かもしれないと、多くの妖たちが怯えながら生きているのです」

 奈津は唇を引き結ぶ。
 そんな中で、自分の力が役に立っている。

 「この幽世にとって、奈津様の存在は――“希望”そのものです」

 希望。
 そんな風に呼ばれたことなど、一度もなかった。

 九重は静かに奈津を見る。

 「だからこそ、奈津様には一度、しっかりお考えいただきたいのです」