紫鬼の視線が、奈津の足元へ落ちる。
「……捻ったか」
「だ、大丈夫です」
反射的にそう答え、奈津は立ち上がろうとする。
だが。
「っ……」
足へ力をかけた瞬間、再び痛みが走った。
奈津の身体がふらつく。
紫鬼が僅かに眉を寄せた。
「大丈夫ではないな」
「で、でも歩け――」
最後まで言い切る前だった。
「えっ」
ふわり、と身体が浮く。
奈津は目を見開いた。
紫鬼が、軽々と奈津を抱き上げていた。
「し、紫鬼様!?」
「暴れるな」
短く言いながら、紫鬼はそのまま歩き出す。
奈津は真っ赤になった。
近い。
近すぎる。
腕の中から見上げた紫鬼は、何事もないみたいな顔をしている。
やっぱりまだ、落ち着かない。
けれど以前のような恐ろしさは、もうなかった。
奈津を抱えた紫鬼が、広い廊下を歩く。
妖たちはぎょっと目を見開き、慌てたように道を譲った。
「え……」
「し、紫鬼様が……」
抱き上げている。
人間を。
しかも、自ら。
唖然とする妖たちをよそに、紫鬼はまるで気にした様子もない。
「ほ、本当に大丈夫ですから……!」
奈津が慌てて身じろぐ。
「動くな」
有無を言わせぬ響き。
奈津は思わず口を閉じた。
そのまま、恐る恐る紫鬼を見上げる。
「……すみません」
「謝るな」
紫鬼は淡々と言った。
「お前は、無駄に無理をし過ぎる」
「でも……」
奈津は小さく俯く。
「出来損ないだから、それくらいしか価値がないって……」
ぽつり、と零れた本音。
「ちゃんと働かなきゃ、家にも置いてもらえなかったから」
紫鬼は少しだけ目を細めた。
そして、静かに口を開く。
「なら、以前のように部屋へ来い」
「……え?」
奈津が瞬きをする。
紫鬼は奈津を抱えたまま、淡々と続けた。
「お前が来なくなってから、部屋が妙に静かだ」
奈津は目を見開く。
思わず、紫鬼を見上げた。
紫鬼は特別なことを言ったつもりなどないらしい。
いつも通りの顔で、前を向いている。
「……えっと、それは……」
奈津は言葉に詰まる。
だって。
もう瘴気病は落ち着いている。
毎日のように部屋へ通う理由もない。
「ご迷惑かと思って……」
小さな声でそう零す。
すると、紫鬼がぴたりと足を止めた。
「誰がそんなことを言った」
「え……」
「俺は言っていない」
奈津は息を呑む。
紫鬼は奈津を抱えたまま、静かに奈津を見下ろした。
「勝手に離れようとするな」
真っ直ぐ向けられる眼差しから、逃げられない。
喉の奥が、ひくりと震えた。
「……以前のように来い」
低く落とされた言葉は、命令のようで。
けれど不思議と、酷く優しかった。
“綾乃の出涸らし”
“出来損ない”
ずっと、そう呼ばれてきた。
だから。
必要とされることが、こんなにも胸を熱くするなんて。
奈津は、まだ知らない。
胸の奥へ灯ったこの熱の名前を。

