あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 紫鬼の部屋には、重苦しい静けさが満ちていた。

 障子の向こうでは、雨がしとしとと降り続いている。
 薄暗い室内へ響くのは、雨音だけ。
 まるで屋敷全体が、息を潜めているようだった。

 室内へ集まっているのは、奈津、夜刀、九重、そしてコマ。
 卓上には、黒く焼け焦げた紙片が置かれている。

 式神の核。
 奈津を襲った異形の成れの果てだ。
 
 奈津はそっと息を呑む。
 あれが、自分を喰らおうとしていた。
 思い出すだけで、背筋が冷えた。

 九重が静かに口を開く。

 「術式の質から見て、並の妖ではありません」

 穏やかな声音。
 けれど、その瞳は少しも笑っていなかった。

 夜刀が壁へ背を預けたまま、低く舌打ちする。

 「……やっぱりな」

 金の瞳が冷たく細められた。

 「堂目道家の結界を探るような真似、普通の妖じゃできねぇ」

 奈津は顔を上げる。

 「どういう、ことですか……?」

 短い沈黙。
 やがて九重が静かに告げた。

 「堂目道家には、複数の分家が存在します」

 「分家……」

 「はい」

 九重は淡々と続ける。

 「紫鬼様が瘴気病で命を落とされた場合、当主の座は空く」

 「それを狙う者たちが、以前から存在していました」

 奈津の顔が青ざめる。
 夜刀が忌々しげに吐き捨てた。

 「昔からゴロゴロいやがったんだよ。紫鬼様を引きずり下ろしたがる連中が」

 コマが不安そうに耳を伏せる。

 「じゃ、じゃあ……今回の式神も……」

 「おそらくは」

 九重は静かに頷いた。

 「そして今、“癒し子様”の存在によって、紫鬼様が回復へ向かう可能性が生まれた」

 穏やかな視線が、奈津へ向けられる。

 「彼らにとって奈津様は、最も邪魔な存在です」

 奈津は思わず息を詰めた。

 自分がいることで、紫鬼は狙われる。
 自分がいることで、争いが激しくなる。

 胸の奥が重く沈んだ、その時。

 「夜刀」

 低い声が落ちる。

 全員が振り返った。
 寝台へ横たわっていた紫鬼が、ゆっくりと身を起こす。

 白銀の髪がさらりと肩を滑り落ちた。

 病に蝕まれた身体は今もなお細く、折れてしまいそうなほど脆く見える。

 それでも。
 深い紫の瞳がこちらを見た瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰めた。

 「は」

 夜刀が姿勢を正す。
 深い紫の瞳が、夜刀、九重、コマを順に見渡した。

 「……人間を守れ」

 静かな声だった。
 けれど逆らうことを許さない響きがある。

 「必ずだ」

 夜刀が真剣な表情で頭を下げる。

 「お任せください」

 九重も静かに続いた。

 「命に代えても」

 コマも慌てて頷く。

 「も、もちろんですっ!」

 奈津は目を瞬かせた。

 「え……でも、私なんかのために……」

 「勘違いするな」

 紫鬼の声が落ちる。

 奈津がびくりと肩を揺らした。

 深い紫の瞳が、静かに奈津を射抜く。

 「お前は、俺に必要だ」

 「……っ」

 胸が、どくりと鳴る。

 けれど次の瞬間。
 紫鬼は自嘲するように、わずかに目を伏せた。

 「……今の俺では、役不足だ」

 低い声。

 そこには、苛立ちと諦めが滲んでいた。
 本来なら、自分で守るはずだった。
 
 だが今の紫鬼には、それができない。
 瘴気病は、確実に彼を蝕んでいる。

 部屋へ静かな沈黙が落ちた。

 九重はそっと目を伏せる。

 ――変わり始めている。

 紫鬼は今まで、誰かへ執着することなどなかった。

 必要なのは忠誠だけ。
 情など不要だったはずだ。

 それなのに。
 奈津へ向ける視線は、もう単なる“癒し子”へのものではなくなり始めている。

 九重は静かに奈津を見る。

 優しい。
 愚かなほどに。
 だからこそ危うい。

 もしもこの先、紫鬼を傷つける存在になるのなら。

 その時は――。
 九重は何事もないように微笑んだ。

 「ご安心ください、紫鬼様」

 穏やかな声音。

 「奈津様は、我々が必ず護衛いたします」